2012年06月25日 22時32分

富山ライトレールの楽しみ方(1)。

この5月1日、富山地方鉄道富山市内軌道線を乗る前に日本の『LRT』の代表と言われる「富山ライトレール」に乗っています。

この時の話しに暫くお付き合い頂きたいのですが、今回は私なりのこの鉄道の楽しみ方を書きます。もっとも単に乗るだけであれば既に平成18年(2006年)6月10日、「富山駅北」発6:35、「岩瀬浜」着6:57の電車で乗り終えていますので今更『何を』をということはあります。

では何を書こうとしているかと言えば、私にはどうも『LRT』という言葉が世間的に“誤解”されている向きもあると思っており、それを確かめるにはやはりちゃんとこの鉄道を見ずにいられなかったのです。と硬い感じの言い回しで恐縮ですが、私は鉄道に乗るのが『趣味』であり、 “都市交通の研究”をしている訳ではありません。その点は「乗り鉄的LRTの楽しみ方」として割り引いてお読み頂きたいと思います。

 

また今回は、私がドイツのミュンヘン市等の街角で撮影した写真(体験談)も使用します。海外の鉄道に興味の無い方も多いと思われますがご容赦ください。私はこと都市交通に関して切り取れば、ヨーロッパの『市民生活』における鉄道の価値(利便性)は高いとは感じており、それは私が「鉄」だからではない!と信じています。

それはさておき、今年も日本では廃線となった鉄道路線がありましたが、それだけではなく相変わらず青息吐息の鉄道(路線)は枚挙にいとまがないほどです。(決して大袈裟ではないはず)

なぜそんな状況にあるかであったり、何かしら今後の鉄道存続の道のヒントは海外にあったりするのではと思っており、私が私なりに乗ったり見かけた電車についての事も紹介する次第です。

 

2012年06月11日 19時29分

昭和53年の加越能鉄道(2)。

「越ノ潟」を17:00発に乗車した私は車庫のある「米島口」に17:27着。庫内で写真を3枚(たった!です)撮影し、17:42に「米島口」を出て「新高岡」には18:00に到着しました。

写真で、真ん中の線路と言うか車庫の直ぐ右側にいるのは今は無きデ7000形「7051号」で、その右側は「7053号」。その「7053号」の後ろにもう一両デ7000形らしき電車が写っています。

一番右端に停まっているのがスノープラウを付けた5022号で、「高岡」~「富山」直通時代の生き残りです。

つい今年まで現役だったのは信じ難くとも嬉しい状況でしたが、新しい除雪車が登場したため、その活躍を見ることはもうありません。

もっとも新しい除雪車は、とてもユニークな車両なので稼働し始めると話題を集めそうです。

 

少々懐かしい話しにお付き合いいただきありがとうございました。

 

(補足説明)

「高岡」~「富山」市内の直通運転ですが、その期間は昭和26年~昭和36年の間で、その頃は『西町』まで乗り入れています。その後、「富山新港」建設による分断を経て、昭和52年から廃止された昭和55年の間の射水線は『富山駅前』まで乗り入れていました。

 

2012年06月10日 20時29分

昭和53年の加越能鉄道(1)。

写真は、昭和53年9月11日の加越能鉄道・新湊港線「越ノ潟」駅です。今の万葉線株式会社新湊港線「越ノ潟」駅ですが、『新湊港線』(「越ノ潟」~「六渡寺」)というより、『高岡軌道線』(「六渡寺」~「高岡駅前」)を合わせて“万葉線”と言った方が、通りが良いですね。

 

ところで今回の文章の冒頭で“駅”を使っているのは正にここが鉄道線の“駅”であるからで、決して軌道線の“停留所”ではないからです。

“万葉線”の『新湊港線』区間が“鉄道線”で、『高岡軌道線』区間が“軌道線”であるということは、利用者にとっては別段何の不便も無く、そもそもその直通運転は昭和26年(1951年)からの話しです。

 

ところで先回の射水線「新港東口」からの足取りですが、駅を出て直ぐのところにあった『富山県営渡船』堀岡発着場発16:50のフェリー(無料!)に乗り、越ノ潟発着場には16:55に到着。そして「越ノ潟」発16:55発の「新高岡」行きに乗り込みました。

今の「高岡駅前」は当時、「新高岡」と呼ばれており、それは7076号の方向幕からも明らかですが、Wikipediaによれば私の乗車した翌年(昭和54年)に改称され、更に言えば昭和55年に『新湊港線』『高岡軌道線』を合わせて『万葉線』の愛称となっています。(万葉線HPも参照しています)

 

更に付け加えると、昭和26年当時は「地鉄高岡」(今の「高岡駅前」)から“万葉線”経由“射水線”経由で富山地方鉄道の軌道線「西町」まで電車は直通していました。

これは富山新港建設により、昭和41年に「新港東口」~「越ノ潟」間の線路が分断されるまでは1本の線路で繋がっていたことによるもので、このあたりの変遷は他に多数紹介されているのでここまでにします。

 

でももう一点だけ。今回、射水市新湊博物館の企画展に行かれた「鉄友」の方からお借りした特別解説書に、昭和41年に分断された「新港東口」~「越ノ潟」の射水線の橋脚の写真が載っていました。その方も『まさか!』と言っておられましたが同感です。

2012年06月09日 21時54分

昭和53年の富山地方鉄道(5)。

本日の写真は、昭和53年9月11日の富山地方鉄道射水(いみず)線の終点、「新港東口」駅です。「新富山」発15:59、「新港東口」着16:30でやってきました。

こう言ってしまっては元も子もありませんが、この風景を今、改めて見てみれば昭和の時代の赤字私鉄ローカル線の終点の典型的な感じです。

ところで路面からの乗降も可能なステップを持つ「5013」+「5038」の2両編成の電車を見ていると、私の頭の中ではアメリカに昔あった“インターアーバン”(路面電車による都市間鉄道)を思い描きます。

このデ5000形は、そもそもこの射水線や笹津線(昭和50年に廃止)から富山市内軌道線への乗り入れ用に作られたものですから、このスタイルは当然の帰結と言えます。

 

話しを戻して、この射水線ですが、その廃線跡の一部はバス専用道となっていました。そのバス専用道の通行は今年の3月末で取り止めとなり、バスマニアの方にとっての悲報となりましたが、私もそのバス路線の存在を話しには聞いていたので、一度、乗ってみたいとは思っていたものの結局、叶いませんでした。

 

ところで、私の「鉄友」から富山県の射水市新湊博物館で『いみずの鉄道-北陸本線と射水線-』という企画展が、平成24年4月20日(金)~6月24日(日)の会期で開かれていると、全くの偶然だったのですが聞きました。彼はその展示に行っており、実はその“特別解説書”を一部、参考にしてこのブログを書いています。私が富山に行った5月1日には既に開催されていたものの、残念ながらこの企画展の開催を知らず、行くことは出来ませんでした

 

そんなことも合って反省の念を込めて紹介しています。

詳しくは射水市新湊博物館のHPをご覧ください。

 

ところで都市交通研究家の方が、射水線で行われていた「鉄道」~「軌道」の乗り入れで郊外から都心部への直通運転は、ヨーロッパやアメリカ等海外の「LRTと共通したところがある」と指摘されておられますが、正に同感です。

富山地方鉄道射水線の存在は、その時代が早すぎたのかもしれません。等と言えるほど事(存続)が簡単でなかったことは十分に承知しています・・・。

2012年06月08日 22時22分

昭和53年の富山地方鉄道(4)。

昨日のブログで、停留所の名前を「新富山駅前」と書いたのは、文字通り「新富山」という駅があったからで、その「新富山」は、富山地方鉄道射水線の駅でした。

その射水線(当時は「新富山」~「新港東口」)は昭和55年に廃止され、そして軌道線の「新富山駅前」は「新富山」とその名を変えました。この経緯を知らないと、軌道線の一停留所に「“新”富山」という何とも壮大な名前があることは理解し難いでしょう。

写真は現役当時の射水線「新富山」駅のもので、射水線の線路がこの辺りでは神通川の堤防の下にへばりつくように存在していたことと、駅舎からホームへは階段を下りていく構造であったことの2つは、写真を見るまでもなく何故かよく覚えています。

それにしてもこの一枚しか射水線の「新富山」駅の写真はみつかりませんでした、そんなこともあって電車内で撮影した射水線の「タブレット」の写真を貼り付けてみました。

今回、射水線の「新富山」駅のあったあたりを、現・軌道線「新富山」停留所から新「富山大橋」に向かう上り坂から見下ろしてみましたが、『ここだっ!』と特定するには至りませんでした。

一方で昭和53年当時、射水線から軌道線の「富山駅前」に乗り入れる電車があり、そのための渡線がここに存在してのですが、その記憶が全くありません。富山地方鉄道富山市内軌道線の路線図にもちゃんと存在していたにも関わらず・・・です。

 

(追伸)

先日お伝えした通り、このブログを作成するシステムが変わりました。

それに伴いこのブログのURLが『https://www2.ctv.co.jp/tekken2/』に変わっています。

中京テレビのトップページから入ってこのブログをお読みいただいている方には全く問題は無いのですが、これまでのURL『http://weblog.ctv.co.jp/tekken2/top』を、お気に入り(ブックマーク)に入れてお読みいただいている方は恐縮ですが、再登録をお願いします。

 

当面は、『旧URL』でご覧いただいても『現URL』に飛ぶように設定されているため不都合はなく、また旧URLのサーバは当面、そのままにしておくと聞いてはいますが、何れ運用を停止することになっています。

ご不便をおかけし申し訳ありません。

 

2012年06月07日 22時18分

昭和53年の富山地方鉄道(3)。

「さてこの写真の場所は?」と言って、クイズに出したくなってしまう風景ですが、今、この場所に電車は走っていません。

かって軌道線の「西町」と鉄道線・不二越線の「不二越駅」を結ぶ『東部線』(「西町」~「中教院前」)、『山室線』(「中教院前」~「不二越駅前」)があり、もっとも線名は2つですが、実態は「西町」~「中教院前」~「清水町」~「元町北銀前」~「不二越駅前」を結ぶ1.4キロの1つの路線で、写真はその終点「不二越駅前」直近です。車が少ないこともあり、街並みがゆったりしているかのように見えます。

次にこの写真は「大学前」です。新「富山大橋」の架け替えに伴う工事が始まる直前までこの姿であったかどうかまでは、申し訳ありませんが私は調べていません。ただ言えるのは後ろに写っている「相互銀行」の看板のある建物の場所に、今、銀行はなかったような記憶です。

最後の写真は「新富山駅前」の近くで、今とは相当に風景が変わっています。

 

昭和53年9月11日、私の軌道線乗車の足取りは、「富山駅前」(14:34発)~「南富山駅前」(14:52着)、「不二越駅前」(15:07発)~「西町」(15:15着、15:18発)~「大学前」(15:40着)となっています。

 

2012年06月06日 18時06分

昭和53年の富山地方鉄道(2)。

今から34年前の軌道線「南富山駅前」です。

駅舎そのものは変わっていませんが、写真の『南富山駅』の駅名看板の場所には、今は『富山地方鉄道株式会社 研修センター』の文字があり、『南富山駅』の名前は1階と2階の間に移っています。

また電停の屋根は『新しく』と言っても相当な年月は感じますが、それでも変わっていました。

 

写真の「7022」号は、今回、私は出会わなかった(すれ違っていても気付かなかった?)ものの現役バリバリで、変わった点は冷房・塗装・車体広告と言ったところでしょうか?

 

そうそうっ。7022号の向こうには先日紹介した軌道線を遮る遮断機が見えています。

まあ、多少の相違はあるもののこの電車の“塗装”が今も現役であることも含め、これほどタイムスリップのし甲斐の無い状態は結構珍しいですね。もっとも『だから変わらない“良さ”がある』とも言えます。

(お断り)

本日からこのブログを作成するシステムが変わりました。一見変わった感はあまりなく、過去の記事も全て表示されますが、一方で昨日までに皆様からいただいた「コメント」が表示出来なりました。また本日からコメントを書いていただく際、改めて登録をお願いすることになります。

ご不便をおかけするとともにこれまでコメントいただいた方にお詫び申し上げます。何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。

またカテゴリー数がこれまでより細分化できることになりましたので、皆様方にわかりやすく見ていただけるようおいおいこちらは変えて行きます。

今後ともこのブログにお付き合いただければ幸いです。

2012年06月05日 18時10分

昭和53年の富山地方鉄道(1)。

昭和53年9月11日の「電鉄富山駅」です。現在の姿とは似ても似つかない風景ではあるものの、基本、線路の並びが変わっていないのが返って新鮮でした。

この電車には「162」という番号がついており、後ろに繋がった電車は、「14753」(14750形)です。左にチラッと見えているのは「10025」(10020形)を先頭にした3連です。(反対側の先頭は「173」)

この14750形が姿を消して随分長い年月が流れていますが、でも私の世代にとってはこんなスタイルこそが“現役”の電車のイメージで、「こんな時代もあったなあ…」と懐かしい反面、寂しくもあります。

この前日(9月10日)、私は「名古屋」(23:49発)から急行「のりくら」(宇出津・立山行き)に乗り、「富山」には4:36に到着しました。
そして朝一番から富山地方鉄道の乗りつぶしをしており、「稲荷町」(5:22発)~「岩峅寺」(5:49着、5:50発)~「立山」(6;16着)。
「立山」(6:21発)~「寺田」(7:03着、7:20発)~宇奈月温泉(8:42着)。
この後『黒部峡谷鉄道』を往復し、「宇奈月温泉」(13:07発)~「電鉄富山」(14:23着)の電車に乗ったと手元のメモにはありました。

続いて軌道線に乗っているのですが、その乗り換えの僅かの時間にこの駅のホームで数枚の写真を撮っていました。

2012年06月04日 21時26分

富山地方鉄道富山市内軌道線(9)おまけ編。

今回、「南富山」から「電鉄富山」への戻りは、「南富山」発18:08の『不二越・上滝線』の電車に乗りました。(今日の写真は、到着した「電鉄富山」駅です)

「南富山」からは9分間の旅で、軌道線との所要時間の差は5分しかありませんが、感覚的には『軌道線は時間がかかる』というイメージが強かったので、鉄道線の9分間は思いのほか長く感じられました。この日、私は富山地方鉄道の「1日ふり~きっぷ」(大人600円)で乗り回っており、このフリー乗車区間に鉄道線の「南富山」~「電鉄富山」間が含まれており、軌道線の同区間の運賃“200円”より鉄道線の“300円”を使った方が得かな?等と言うケチ臭い根性があったことは否定しません。
勿論、同じ道を戻るより、多少待ち時間があっても違うルートを戻るというのは「鉄」の『鉄則』かもしれませんが…。

そんななんやかやで、18:17に「電鉄富山」に到着。ホームで行先表示板(行先票、行先板…)を撮影しているうちに4つの番線が全て埋まりました。その時、たまたま1番線のホームで元西武鉄道の『レッドアロー』を見ていました。
で、出入りする電車があるのは音で分かっていましたが、振り向いた先に・・・もう一編成の『レッドアロー』が!その車体側面には「ALPS EXPRESS」の文字が燦然と輝いており(下段写真)、車内を垣間見ると、やはり普通でないというか、只者でないというか・・・で、確認しようとした矢先にこの電車は出発していきました。

そう言えば「同好の士」がホームにいたことにもっと早くというか、何となく“怪しい”空気に気付くべきでした。

2012年06月03日 18時11分

富山地方鉄道富山市内軌道線(8)。

「南富山駅前」というか「南富山」には軌道線の車庫があります。(上段写真)

撮影した17:46頃は夕方のラッシュ時間帯と言うことで電車はほぼ出払い閑散とした状況で、写真の左側にある車輪の錆びた台車が妙に印象的でした。
なお、この写真は車庫内に入り込んで撮影している訳ではなく、踏切から撮影しています。

さて下段写真ですが、『南富山駅前』の名物と私は思っている「大学前」方面から到着した電車の目の前にある遮断機です。
何気ない風景ですが、普通遮断機は電車を遮るものではなく、人や車を遮るもので、明らかにこの遮断機の位置関係は???ということになります。

私の撮影している場所は、鉄道線(不二越・上滝線)「南富山駅」の改札を出て、鉄道線のホームに向かうところなのですが、位置関係を申し上げますと、下段写真の電車がそのまま私の方にそのまま走りぬけて行く方向に、上段写真の車庫があるということになります。
ただ車庫に出入りする電車が始終ある訳ではなく、察するにこの遮断機の目的は、軌道線と鉄道線を仕切ることにあると思われ(あくまでも推測です)、それゆえ鉄道線の乗降客は必ず「南富山駅」の改札を通ることになり、直接軌道線のホームにいけない構造となっています。

なお、車庫に出入りする電車があるときは、この遮断機が上げられ、これと90度の角度にある『不二越・上滝線乗降客用』の遮断機が下りることにとなっているようでした。
※そのような状況になったところを目視したわけではありません。
ご了承ください。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!