2020年08月20日 23時11分

今日は常滑に行ってきました。

今日は常滑に出かけました。

「りんくう常滑駅」の真ん前のホテルでスイーツを食したのですが、それはともかく「りんくう常滑駅」が結構リゾートな雰囲気でびっくり。

そもそも電車に乗って通り過ぎるだけの駅。ちょっとした発見が楽しい。

このまるごと桃のパフェが今回の目的。美味しゅうございました。

 

2020年08月19日 0時01分

1974年(昭和49年)の北海道/名寄駅。

1974年(昭和49年)2月15日の北海道/名寄駅。

稚内から乗ってきた列車を降り、ここから後続の急行列車に乗り換え。その乗り継ぎ時間を使っての撮影。

C55形のスポーク動輪は格好いいと思う。

蒸気機関車がひく列車同士の交換は、当時であっても貴重な存在だったという記憶あり。

雪の中を出発する列車。良い思い出です。

39634は本線用ではなく入換用だった。

ドレインとスノープラウが巻き上げる雪が渾然一体(こんぜんいったい)となり何が何だかよく分からないC5787がひく列車の出発。

2020年08月17日 23時40分

1974年(昭和49年)の北海道。

昭和40年代の日本の鉄道シリーズ。何故この年代に拘っているかと言えば、この年代の経験が私にとっての趣味の原点だからです。

蒸気機関車も走っていればナローの鉄道も少なくはなっていましたがまだありました。そして何より名古屋に市電が走っていました。もっとも私の鉄道趣味は昭和50年代で一旦、終焉を迎えます。

何せ昭和の会社員ですから、その労働時間はお察しの通りで、更に家庭生活もあって趣味に割ける時間はほぼなく、本だけは買っていましたが買っただけの「積ん読」でした。その後、趣味の世界に戻ったのは十数年前で、仕事が現場から管理部門に変わり、また子供達が育ったのがきっかけでした。

このブログを読まれている方にも今、様々な事情を抱え鉄活を控えている方もいらっしゃるでしょう。コロナ禍の中で趣味どころではない方がいるかも知れません。でも趣味の灯は消さないで下さい。私は趣味から遠のいていたことはあっても、またこうして鉄活を楽しんでいます。

いきなり白鳥の写真ですが、昭和49年2月の北海道です。鉄活に勤しむ(いそしむ)というより旅の足としての鉄道でした。

2月14日の稚内市の大俯瞰。

稚内市の観光名所、氷雪の門。同じユースホステルに泊まっていた方達とそこまで上って行き、前の俯瞰の写真を撮りました。

その写真をトリミング。大桟橋があり、その右側に貨車がいるのが分かります。稚内駅は貨車群の更に右側にありました。ところでこの写真を撮ろうと思って氷雪の門に行ったのではありません。あくまでも氷雪の門が目的で、そこから“たまたま”市街地を見下ろすことが出来たのです。

2020年08月16日 23時49分

1973年(昭和48年)の越後交通。

昭和50年3月31日。新潟県のナローの鉄道がその姿を消しました。

越後交通栃尾線。もともと悠久山(新潟県長岡市)~長岡(国鉄との接続駅)~上見附(新潟県見附市)~栃尾(新潟県栃尾市⇒長岡市に編入)を結んでいたのですが、私が訪れた昭和48年12月28日の段階では、長岡~上見附を除く廃止されていました。そして写真は当時の終点、上見附駅です。

地方私鉄にあって、その姿は都会の電車に負けていないと私は当時思いましたが、今こうして改めて見ても、派手さはないもののすっきりとした好ましいデザインが素敵です。

越後交通の写真で一番のお気に入りがこれ。豪雪地帯のローカル私鉄の雰囲気を感じとって頂けると思います。それにしてもこの年は年末に結構な量の積雪がありました。ところでこの日、栃尾線が定時で運転されていたかどうかのメモが私の手元にないので確たることは書けないのですが、それでも上見附まで平然と往復しているので、通常運行であったことは間違いありません。

ED51。ナローと言うこともありますが、こじんまりとしてとても可愛らしい印象でした。

2020年08月16日 0時02分

1973年(昭和48年)の九州の路線。

1973年(昭和48年)の夏休みは九州旅行。ほぼ観光で、ついでに乗り鉄。と言うことで写真はあまり撮っていません。

7月31日。

薩摩大口駅と言っても若い人はネットで検索しないと多分分からない駅。その薩摩大口駅は山野線(水俣~薩摩大口~栗野)と宮之城線(川内~薩摩大口)の接続駅で国鉄時代は要衝の一つでした。と書いても山野線も宮之城線もとっくの昔に廃線となっており、知っている人の方が少数派。

でC56111なのですが、山野線で貨物列車を牽いていました。テンダが切りかけになっている独特なそのデザインは、この位置から見るとよく分かります。

C56111同様、C11200も後ろ向きでの運転ありきのタンク車です。撮影は8月1日の大隅線鹿屋駅。1987年(昭和62年)3月14日、大隅線の全線廃止に伴い、廃駅となりました。

8月3日の平戸口駅。開通時は国鉄伊万里線の駅。その後国鉄松浦線(この写真撮影時)の駅となり、今は松浦鉄道たびら平戸口駅です。

この写真の特徴は駅前の荷物の山。そして自転車は恐らく九州を回っている学生さん?

79601。国鉄唐津線(久保田駅/長崎本線~西唐津)には8月4日の乗車です。手元のメモに客車が9両とあり、古豪がとんでもなく長い列車を牽いていたことになります。

2020年08月14日 22時42分

1972年(昭和47年)の各地の路線。

1972年(昭和47年)。蒸気機関車の終焉間近の時代。

昭和47年8月11日の小海線。C56の牽引する混合列車(客車と貨車を併結した列車)は定期列車ではなく、蒸気機関車の終焉を前にイベント列車として貨物列車に客車1両を連結して運転されたと記憶しています。ただこの写真、高原ぽく見えないのは、ベストの場所まで移動する時間がなくやむを得ない選択でした。

同じ日の野辺山駅。国鉄最高駅の案内標の標高の数字、一、三、四五米の三と四の間の「、」は何なのだろう?未だに解けない謎。

同年の9月5日の草津線、貴生川駅。近江鉄道の電車を撮影しているのですが、なぜこの画角なのでしょうか?ただ当時の雰囲気はなんとなく伝わります。

この年の10月のダイヤ改正で草津線から蒸気機関車の牽く旅客列車は無くなりました。

その直前、のんびりとした風景の中を汽車が行く。

自分で言うのも何ですが、当時の撮影行は本当に気合いが入っていませんでした。撮れれば良し。撮れなくてもまあしょうが無いかな。今思えばお金と時間の使い方が無駄だらけ。私に限らず、当時はそんな人も少なからずいた時代だったのでしょう。

2020年08月12日 23時10分

1972年(昭和47年)~1973年(昭和48年)の中央本線。

1972年(昭和47年)3月14日の中央本線木曽福島機関区。ここ木曽福島機関区も入り口でノートに住所、氏名を書けば中に入れて頂くことが出来ました。

働く多くの人の姿をこうして間近に見ることで、蒸気機関車(鉄道)を動かすということはなかなか大変なことだと学んでいったのだ思います。

三脚+長時間露光の夜間撮影。私はまだ高校生。経験不足もありこうした写真に挑戦する余裕、それは物理的な時間であったり、気持ちの問題だけではなく、当時の1枚あたりの写真にかかる費用が高額のため、未知の世界へ踏み込むにはあまりにハードルが高すぎたことにもよります。それでも鉄道の雑誌などに出ている写真の露光時間を参考に、一歩踏み出すこともありました。

5月2日の上松駅近く。「えっ!」の1枚。ゴールデンウィークの最中とは言え、貨物列車が機関車だけで来るとは思わなかった。

1973年(昭和48年)6月10日。大学に入り間もないころ。贄川(にえかわ)駅近くの鉄橋と記憶しています。写真自体は特に特徴があるものではありませんが、この架線の張り方が味噌です。

よく見ると気がついてもらえるのですが、架線柱が鉄橋にありません。つまり電化はするもののこの鉄橋には、物理的に架線柱を立てるスペースがなかったのです。そこで架線そのものを工夫しています。そう思ってこの写真を見て頂くと三角形の吊り架線に気がつきます。雑誌に珍しい架線の張り方をしているという記事が載っているのを見て、ここに出かけた記憶が薄らとあります。

2020年08月12日 0時33分

1972年(昭和47年)3月13日の大糸線。

昭和40年代の鉄道事情。

1972年(昭和47年)3月13日の大糸線。白馬~信濃森上間のはずです。

小滝駅を出発する貨物列車。

小滝駅の北。糸魚川から信濃大町に向かう貨物列車。ディーゼル機関車が先頭であることから無煙化の訓練運転だったのかも知れません。いずれにしてもこれからしばらくして大糸線は無煙化されました。

2020年08月10日 23時03分

鉄道グッズ収集の原点。

これが何かと言えば、「スタフ」。運転士さんが使う時刻表。名古屋市電ではそれを「スタフ」と言っていました。市電以外でスタフと言えば、単線区間での閉塞方式の一つですが、何でこれをスタフというかは調べても分かりませんでした。

参考までに60系統は安田車庫前~矢田町四丁目、63系統は新瑞橋~矢田町四丁目を走ります。

31系統は金山橋~港東通を結んでおり、私が日常的に使っていた系統の一つ。ただ元々は金山橋~笠寺西門の系統だったのが、33系統/東新町~港東通の系統が廃止となった時に統合されたものです。注目は新瑞橋(新)~市大病院(市/現在の地下鉄桜通線の桜山駅)の所要時間で、途中に5つの電停に停まって12分。同じ区間を現在、地下鉄は5分で結んでいるのですが、地下のホームに行き、そこからまた上がってくる時間を考えれば、結構良い勝負とも言えます。

さてこの3枚のスタフは、市電の廃止時に私が乗っていた運転士さんから「ほしいか?」「やるよ」でもらったもの。そしてこの3枚が私の鉄道グッズ収集の原点となりました。

記憶する限り、私が買った鉄道グッズで一番古いもの。名古屋市電の系統板。33系統は先に書いた通りで、35系統は名古屋駅前~新瑞橋を結んでいました。

名古屋市のシンボル、丸八マークの入った車掌さん用のカバン。これも買いました。そして買って暫くは日常使いのカバンとしても使っていました。これは本当のこと。

今日紹介した6点のグッズは、もらったり買ってからあと数年で半世紀となります。さてこれをいつまで持ち続けるかを現在、思案中。

ところで皆さんはどれほどの鉄道グッズを家に置いていますか?私は増やしてはいけないと常日頃思ってはいるものの。あくまでも思っているだけの状態です。

2020年08月09日 22時32分

1974年(昭和49年)3月31日。名古屋市電の終焉。

大学1年生の春休み。アルバイトと旅行に明け暮れる中、この日の直前に実家に戻りました。

61号系統の南の終点、名古屋市港区の昭和町電停。文字通りの最終電車は「市大病院」行きでした。

大江町電停。真っ直ぐ行けば熱田神宮前方面となりますが、同年の2月16日に廃止となっており、一見現役の路線に見えますが、全廃より一足先に電車が走らなくなっていました。

当時、実家のあった桜本町一丁目電停で下車。高校に通っていた頃は、ここから毎日乗って市大病院に向かっていた(そこからバスに乗り換え)のですが、最終日は何と、市大病院行きから降りるという幕切れ。何せ市大病院まで乗っていっても戻ってくる電車はなく、それはそれとしてもバスで帰って来るという発想はありませんでした。今なら間違いなく最終電車の終点まで乗ったいったことでしょう。

葬式鉄と言う言葉はなく、この最終電車も混んではいても乗り切れないほどではなく、なんとも平和な時代でした。

最終日の最終電車の運行表。何故にこれがあるかと言えば、最終電車の運転士さんからもらった記憶あり。一番前に陣取っていたら「市電が好きか?」と聞かれ、「毎日、市電で学校に通っていました」と答えたら、「やるよ」と言われてもらったような、、、。

名古屋市交通局にこれが残っているかどうかは不明ですが、私にとってはとても大切な宝物です。10歳の時に桜本町に引っ越してきてそれから10年弱。学校だけではなく繁華街の栄も、叔母の家に行く時もいつも市電に乗っていました。いまだに鮮明な記憶にある名古屋市電。資料を整理しつつ思い出が蘇り、作業が進まない日々。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!