2020年12月22日 10時47分




交通頻繁(ひんぱん)なる栄町交差点。ところでこの絵はがきのシリーズは、表題が左から右に向かって読みようになっています。当時としてはかなり珍しいと思え、私も昭和10年代までの出版物で右書き以外を見たのは恐らく2~3例目。
栄町交差点をトリミング。左手前のレンガ造りの建物は日本銀行名古屋支店。建っていたのは東北交差点。
右奥。栄町交差点南西角の屋上にドームのある建物は、かつてのいとう呉服店(後の松坂屋百貨店)。そして正面奥の建物が1925年(大正14年)に移転開業した松坂屋百貨店です。
ということでこの写真は手前が今の市役所方面、奥が南大津通~金山方面。右が名古屋駅で左が今池方面という事になります。
また真ん中の名古屋市電では、折り返しで金山方面に向かう様子が写っています。恐らく熱田電気軌道が開業し、名古屋電気鉄道を経て名古屋市電となった東築地線の南陽館前との間を結ぶ系統。昭和10年代前半の名古屋市電で、栄町で折り返す南北を結ぶ系統は1系統のみでした。
遊楽街の大須門前。「Playing Center」の英訳になるほどという感想あり。
殷盛(いんせい)を極むる御幸本町通り。「The Commercial Circle Of Nagoya」って英訳が私の中では意味不明。
大名古屋三十二景。三十二枚入。袋の図案は名古屋の象徴「名古屋城」。
名古屋城/外苑の眺望名古屋城。
名古屋城/仰ぐ鯱名古屋城。
名古屋城/世界一金の鯱。
名古屋城だけで3枚。それにしても昔の金鯱は金網でガードされていたんですね。
新名古屋駅。まずはこの絵はがき集が発行された時の時代の特定。
既に何度もこのブログで書いていますが、写真の三代目名古屋駅の開業は昭和12年。「新名古屋駅」という書き方もあり、この絵はがき集が撮影されたのは昭和11年末~昭和12年初で間違いないでしょう。
で、その歴史的視点で今回は全32枚を何回かに分けて全てUPします。
海の玄関名古屋港。
海陸の交通は中川運河。
中川運河は昭和7年に全線供用され、海運の名古屋港と鉄道の笹島駅(貨物駅)を結ぶました。それにしても名古屋を紹介する絵はがきに「運河」が出てくるという事で、この運河が当時の名古屋でどんな位置付けだったかが分かります。
窓を開けた地下鉄車内(写真は桜通線)。
すっかり日常風景となっています。
もっともそのせいか冬になり暖房が入っても車内が暑くありません。以前ならコートを脱いだりもしていましたが、今冬はその必要が無さそうです。
大名古屋。GREAT NAGOYA。
7枚セットの絵はがき。やはり名古屋城は外せません。
熱田神宮。
1937年(昭和12年)3月24日に開園した東山公園。撮影した時期に近づきました。
※参考:東山動植物園公式HP「東山動植物園の歴史」。
1937年(昭和12年)2月1日に使用が開始された3代目名古屋駅。この写真をよく見るとまだ工事中に見えます。ということで全体の印象として、昭和12年になったかならないかの時期に順番に撮影されたのではと思っています。
もっとも私の興味は左隅の名古屋市電。多分1300形。合っていて欲しい。
名古屋港。撮影時代が分かるとその視点で色々考えられて楽しいですね。
樺太・大泊。
本土から樺太への玄関口。
稚内からの連絡船。「樺太大泊名所 樺太の玄関大泊港駅出船間際の連絡船亞庭丸」。大泊港の桟橋に駅があり、それが大泊港駅(で間違いないはず)。
この線路は桟橋の大泊港駅に向かっていた。
樺太大泊市街 銀座街(栄町)。
さて時代の特定。亞庭丸が稚泊(ちはく)航路に就航したのは1927年(昭和2年)。それ故それ以降の撮影で間違いありません。
大泊市街軌道。「樺太要覧 昭和15年(昭和16年 樺太庁発行)」の『第八章 交通通信 第一節 交通 軌道』によれば大正13年(1924年)、大泊船見町~楠渓町間で開通。ただ昭和3年(1928年)には休止。つまりこの写真はその数年の撮影であることは間違いありません。
一方、左上のスタンプ「香川県教育会主催 視察旅行」。流石にこれをヒントに検索しても手掛かりなし。
ところでこれまでUPした大泊の絵はがきとこの絵はがきではキャプションが右書きと左書きとの違いがあり、同時期の発行とまでは言えないでしょう。それでも街並みを見ればそれほど遠い時期ではないかと推察しています。
さて結論。上3枚の写真については昭和3年~昭和10年頃までで中らずと雖も遠からず(あたらずといえどもとおからず)でしょう。
樺太の位置関係の整理。1939年(昭和14年)12月号の時刻表(日本旅行協会)の路線図。
右下の大泊は現在の「コルサコフ」。真ん中の如何にも中心地らしい「豊原」が「ユジノサハリンスク」。西海岸(左側)の上の方に真岡(現在のホルムスク)があり、南端が本斗(現在のネヴェリスク)です。
この絵はがきは楠渓町(なんけいちょう)駅。稚内からの連絡船が到着する「大泊」の町の中心駅でした。もともと大泊(おおどまり)という駅名で開業したのですが、1913年(大正2年)に改称しています。
ところが上の路線図にこの楠渓町駅が見当たりません。
時刻表では「大泊」の下に「楠渓町」あり。なぜそうなっているかは不明。
昨日の「樺太/真岡」の続き。
ところで樺太の真岡町の読み方は「まおか」で、栃木県の真岡市は「もおか」と読みます。漢字は同じで読みは異なります。
「真岡本町二丁目」とある絵はがき。
写真の真ん中に非電化の軌道があります。さてこの軌道が何かがさっぱり分からない。
今回UPしている絵はがきは同一のセットで入手したもの。この写真は「本斗みやけ 築港トック」とあるので港に隣接して船の修理も行う造船所があったのかも知れません。
注目はそこにある手押しトロッコ。多分、その「トック」の資材運搬用で使っていた物でしょう。
で、一枚前の写真にある「真岡本町二丁目」の軌道もそんなトロッコの一つだったのかも知れません。
なぜそう言えるかですが、「樺太要覧 昭和15年(昭和16年 樺太庁発行)」の『第八章 交通通信 第一節 交通 軌道』には、2015年12月2日のこのブログで紹介した「大泊市街軌道」ともう一つ、「三井鉱山株式会社線」の2線しか記載が無いからです。つまり当時の樺太庁が、公式に認めた鉄道ではないと読み取れるためです。
もっとも鉄道が写っていたから入手した絵はがき。推理小説を読んでいる気分です。
今日は鉄道関連の絵はがきではありません。サハリン(樺太)に行ってから時々買っている日本領時代の絵はがき。
今回は「真岡」の町。で、この写真の撮影時期。
中央上部にある「樺太真岡町行啓記念」の文字。
1925年(大正14年)8月9日~13日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が樺太を訪問されており、その時の記念で発行された絵はがきと思われます。
*参考「皇太子殿下樺太行啓記」(発行:樺太庁 昭和5年)【国立国会図書館】
とすればこの写真が撮影されたのは大正14年で間違いないでしょう。
ただ消印は1928年(昭和3年)11月10日。もっともこの消印で撮影時期がずれるものではありません。
「樺太真岡町不凍港の全景」。極寒の地にあって、一年中使える貴重な存在だったのでしょう。
さて撮影された時代の特定。
両サイドは恐らく1923年(大正12年)。真ん中は昭和元年(1926年)。としたかったのですが、昭和元年は12月25日から。
とすれば「9.10.1」って何でしょう?
もう一点、両サイドの「23」を私が西暦とした理由。それは「樺太庁始政第14、15年紀念」とあること。樺太庁が出来たのは1907年(明治40年)なので、時期としてはあっています。
※スタンプの日付は押印の日でしょうが、タイトル部分は恐らく定番のモノだったのでしょう。
この絵はがきのタイトルは「樺太庁始政第17年紀念」。1907+17=1924。計算が合いません。さてどうしよう?