2021年05月21日 16時54分
通院のために地下鉄乗車。
網棚の上の広告スペースは空いたまま。
窓に付けられたステッカー。
この光景が思い出となる日が早く来るのを願うばかり。
通院のために地下鉄乗車。
網棚の上の広告スペースは空いたまま。
窓に付けられたステッカー。
この光景が思い出となる日が早く来るのを願うばかり。
今年機種変更したスマホのカメラに「ポートレートモード」があり、今日それを試してみました。
花と電車が近いとポートレートモードの効果はあまり感じないですね。
多少離れても今一つ。
望遠レンズにしてみました。これだと効果を実感できます。
背景を足回りにしてみましたが、黒っぽいのはそもそも何が写っているかがよく分からないという大失態。
何枚か撮っていくうちに何となく「これかな」と思えた1枚。
花ではなく、細い草でも試してみました。
これはこれで良いと思うのですが、何だろう?撮っている気分が出ません。それでもその内にこれに慣れ、私の中で当たり前になるんでしょうね。
月1の鉄道模型講座の第8回。
ここからのスタート。
まずは右のブロックに左のブロックを繋ぎます。
続いて道路をひとまず完成させることに。トレーシングペーパーを道路の部分に当ててペンでなぞり、それを切り出します。これが第一段階。
次にそれを色紙の上に置き、その形に切り出します。それがここにある2枚の半円の紙。
これは何だろう?
跨線橋の高さ会わせ。ホームを嵩上げするよりこの方が簡単そうなので、、、。
ホームを延長し、跨線橋を駅舎(既製品)に繋げました。
実際には細かい作業もしているのですが、パッと見では分からないのが残念。
今日は爺散歩。
名鉄新安城駅界隈。
麦秋。スズメが大喜び。
背景は見なかったことにしましょうか?そうそうこちらの都合の良い景色には出会えない。
マツバギク。地元の方が育てているそうです。
自分の中でうまくまとめ切れていない…。
令和の日常風景。
昨日の時間表を表面としたら今日は裏面。
1913年(大正2年)3月29日 に愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)常滑線が常滑まで開通。同年8月31日に常滑線で未開業だった神宮前~秋葉前間も完成し、神宮前~常滑間が全通しています。裏面はその愛知電鉄からの乗継ぎ時間表。
常滑での電車とバスの乗継ぎ時間はわずか2分!短い編成の電車から、目の前に停まっているバスへの乗換え故の設定でしょうが一言、驚きです。ところで「神宮前」が「熱田」となっています。
昨日の表面で、トリミングした部分の少し上。ここには「名古屋」に続いて「熱田」もあり、経路の選択の余地を作ったのかも知れません。
さて常滑を出たバスの終点は?それは内海。
熱田(神宮前)を7:20に出た電車は常滑着8:19。バスは8:21に出発し9:21に内海着。約2時間の行程です。
一方現在のJR線経由。
熱田を7:29に出発し、武豊着は8:24。バスは8:27に出発し、内海着9:12。移動時間は1時間40分ほど。
地図を見てもらえば分かるのですが、武豊から河和経由で内海に向かうルートはほぼ直進する形になっており、昭和初期の道路事情なども勘案すると、これが恐らく名古屋から内海~師崎への最短ルートだったのでしょう。
よって常滑発のバスは内海以南へ直通しなかったと推察しています。
今日は鉄道ではなくバスの話し。
昭和5年(1930年)10月1日改訂の時間表。
知多自動車は1918年(大正7年)に設立され、1943年(昭和18年)に知多半島を走っていた他のバス事業者と合併し、知多乗合(知多バス)となっています。
路線図からすると常滑、半田、武豊,河和、内海ほか馴染みのある地名が並んでいます。
大府~武豊は今のJR武豊線。その上には名古屋~大府間の時刻があり、名古屋と知多半島各所を結ぶ鉄道&バスの連絡運輸が成立していたことが見て取れます。それにしても列車到着からバスの発車まで3分。うかうかしていると乗り遅れそうです。
逆方向。武豊での接続時間は10分ほどで流石に余裕を見ていると納得です。バスは1時間に1本程度あり、これが多いか少ないかということになりますが、一定の利便性は確保されていたのではないでしょうか?
ところでこの頃はまだ今の名鉄河和線は開通しておらず、知多鉄道の手によって1935年(昭和10年)8月1日に河和まで開通した後はバス路線は恐らく再編されたと推察されます。
今日の頂き物。高松琴平電気鉄道のグッズ。
『みんなと未来で楽しむためなら大好物の釜玉うどんも我慢する!ことちゃん疫病退散すてっかー』
ことちゃん可愛いですね。
昨年の4月に発売され、今は売り切れ。今回は単なることちゃんグッズとしてではなく、時代を映すグッズとして大切に保存します。
このすてっかーをくれた鉄友に感謝。
かつての名古屋駅は現在の笹島付近にありましたが、駅構内が手狭になったことから貨物と旅客の取り扱いを分離し、旅客は現在の名古屋駅の場所に移転、貨物は現在の「ささしまライブ」の場所に移転しました。
「名古屋駅新貨物取扱所貨物ホーム」。後に「笹島駅(ささじまえき)」を名乗ることになるのですが、それは昭和12年(1937年)に(新)名古屋駅の開業に併せ、「名古屋駅」から正式に分離しての改称でした。
貨物駅は当初、名古屋駅の「貨物扱い」の場所が移転したという扱いだったようで、昭和4年(1929年)から表題の名称で現「ささしまライブ」の地で営業を始めました。この写真はまだ建設中と思われ、かなり珍しいと思われます。
「鋸歯形」とありますが、写真からのこぎりホームの構造がしっかりと分かります。
貨物駅の本屋。
毎日ではありませんがかなりの頻度でオークションサイトを見ています。そうすると時々、こうした名古屋の鉄道史に関する資料を発見します。そうした発見も在宅鉄活動の楽しみです。
昨日紹介した「豊橋名所 豊橋停車場及ビ吉田駅」の続き。
豊橋停車場(駅)の真ん前に電車が停まっています。これは渥美電鉄(現在の豊橋鉄道渥美線)の電車でデテハ1000形。豊橋と田原を結ぶ渥美電鉄の路線が「豊橋駅前」に達したのは1927年(昭和2年)10月1日。ですので、この写真はそれ以降になります。
写っている電車、デテハ1000形は1926年(大正15年)に日本車輌製造で作られた電車なので、何れにしろそれでこの写真が撮影された時期が変わるものではありません。
また昨日の写真との比較ですが、今日の写真の真ん中、省線豊橋駅を出たところにある街灯が若干新しい感じもするので、この写真の方があとで撮影されたものと推察しています。
※なお向山公園聖積塔からは前記以上の情報は得られませんでした。
よって本日の結論は昭和初期とさせてください。
「豊橋名所 豊橋停車場及ビ吉田駅」。
まず日本の鉄道における官庁の歴史を軽くおさらい。
●1871年(明治4年)工部省鉄道寮(のちの工部省鉄道局)
●1885年(明治18年)工部省が廃止され、内閣の直属に
●1897年(明治30年)現業部門は逓信省外局の鉄道作業局に分離
●1907年(明治40年)3月に帝国鉄道庁官制公布。同年4月1日に鉄道作業局を改組した帝国鉄道庁設置
●1908年(明治41年)鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道院を新設
●1920年(大正9年)鉄道事業の権限強化・独立を目指して、鉄道省に昇格
ということで手前が「省線」の豊橋駅。今のJR東海/豊橋駅で、この駅名は1888年(明治21年)の開業当初から変わっていません。
奥の建物。豊川鉄道の「吉田駅」。
1897年(明治30年)豊川鉄道「豊橋駅」として開業。その後1899年(明治32年)に吉田駅と改称しています。
もっとも1943年(昭和18年)に豊川鉄道は国有化されたため、その時点で「豊橋駅」の名前に戻りました。
さて時代考証。吉田駅は大正末頃に改築されて写真の形になったということで、駅前の自動車からも察するに、昭和に変わった頃ではないかと思っています。
なお愛知電気鉄道豊橋線(現在の名古屋鉄道名古屋本線)は自社の線路ではなく、1927年(昭和2年)、豊川鉄道の線路を借りて吉田駅に乗り入れを開始しています。よってこの写真の駅舎から名古屋方面に向かったことは間違いありません。