2021年10月08日 14時56分

名古屋の鉄道136年史(3)東海道五拾三次の浮世絵。

今日は江戸時代の「東海道」なら広重。ということで歌川広重(私が学校で習った名前は安藤広重でしたが、今は本名の姓+号ではなく姓名とも号である「歌川広重」とするのが本来とのことのようです)の浮世絵からの考察。

天保5年(1834年)「東海道五拾三次 吉田」。愛知県の東の入り口である現在の豊橋市。吉田の名から豊橋となったのは明治2年(1869年)のこと。ここにある城の名前は 吉田城で今、その場所は豊橋公園として整備されています。また描かれている橋は地名の由来となった橋と思われます。それにしてもお城は改修中?広重の浮世絵でも珍しいのではないでしょうか?

なおここで敢えてこの「吉田」を掲載したことはまた後日触れます。

江戸を出て、今の名古屋市内に入っての最初の宿場は鳴海。(名古屋市緑区鳴海町)

東海道は名鉄名古屋本線の北側にあり、地元では今も「旧東海道」として一般的にその名が使われています。右に左に折れ曲がるその道路は、江戸時代のままだそうで、道幅も変わっていないはずと地元の方に聞いたことがあります。

絵の中には「絞り」の店が見えます。今はこのエリアの「絞り」では個別の「有松絞り」の方が名が通っている気もしますが、私には「有松・鳴海絞り」がしっくりきます。

それはさておき旅人には歩きの方もいますが、馬と駕籠(かご)も描かれています。江戸時代の東海道で馬の利用と言えば荷物を運ぶというイメージがあり、馬に乗ったのは参勤交代のお武家さまとか?もっともここに描かれている人はそんな風には見えないので、庶民には到底手の届かない江戸時代の「公共機関」という存在だったのでしょう。

また駕籠(かご)は宿と宿を結ぶ長距離の公共交通機関に相応しく無さそうですが、実際には道中駕籠という存在があったのでこちらも民営の「公共交通機関」の走りと言えます。

熱田の「宮」宿。これは昭和23年(1948年)に熱田神宮門前の「きよめ餅総本家」が新年の挨拶状として商品に付けたと思われる書状。その表側が「宮」宿の浮世絵。(裏面に「きよめ餅」の由来などが書かれ、昭和戊子(つちのえね)の年号あり)

余談ですが、きよめ餅は熱田神宮の参拝時には買ったりもします。

さてここから三重県の桑名宿までは、東海道では唯一の海路「七里の渡し(宮の渡し)」となっていました。そのためこの絵の中には船が描かれています。これは間違いなく公共交通機関と言える存在で、『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)の主人公/弥次郎兵衛と喜多八も乗ったはず。

宮の船着き場があったところは現在「宮の渡し公園」となっています。そこから桑名へ向かう航路上には、今は新幹線が横切っています。

桑名の宿に着く、もしくは出航の船。

よく見れば船の中には人がギッシリ乗っています。こうして描かれるほど乗船客がいたと言うことでしょうから、江戸時代の東海道の往来がどれほどだったかを伺い知ることが出来ます。

    

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    稲見部長稲見眞一
    <自己紹介>
    昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!