2021年10月13日 15時23分

鉄印帳の旅(19)IGRいわて銀河鉄道。その前にお約束。

はやぶさ40号は盛岡駅18:10着で18:17発。この間にこまち40号と連結です。

18:14、無事繋がりました。

「柵から離れてご見学ください」とありますが、それは当然としても見学が私一人というのは私にとって初めての体験。

さてこれで盛岡駅新幹線ホームに別れを告げ、次の目的地に。

そうそう、この日泊った盛岡駅前のホテルのロビーにはこんなディスプレイあり。100円ショップのブロック。ある意味フル編成。

余談ですが、我が家の模型コーナー。

2021年10月12日 14時23分

鉄印帳の旅(18)道南いさりび鉄道に乗る。

函館発15:15、木古内行き128D。

キハ40 1798は旧国鉄急行色。キハ40形でも目を細めれば、キハ58系と呼ばれる中の北海道向けキハ56形・27形~キハ53形に何となく見えてくるからあら不思議。

1両では様にならないがこれで3~4連あれば十分、昭和の函館駅。

本場のDF200形。エンジン音をこんな近くで聞くのは久しぶり。やっぱり迫力あり。

函館山を見ながらノンビリとした旅を楽しんでいた頃。

茂辺地の駅で131D、キハ40 1796 濃赤色 /豊穣 と交換。道南いさりび鉄道では全ての車両が開業時の塗装からオリジナル色塗装に生まれ変わっており、その出会いはなかなか楽しい物があります。数年かけてこの塗装変更を行ってきたようですが、6年ぶりとはいえ鉄印がなければ恐らく乗ることのなかった道南いさりび鉄道。これらの車両が私を新鮮な気分にさせてくれたのは間違いありません。

どうでも良いことですが、この乗り心地の悪そうな昔ながらの座席は私にとってはゆりかご。この直角シートがあるから今回もこうして乗っているのですが、外の塗装は変わってもここは変えないで欲しいと思うのは私だけ?

2016年頃はこうした色でした。何となくしっくり来る感じ。

列車は木古内駅を目指し、快調に走ります。この時までは…。

16:09発のはずの泉沢駅。停まったまま。交換の貨物列車が遅れているとのこと。

長距離を走る貨物列車が遅れること自体はそれほど驚きはしないのですが、この後、木古内駅で北海道新幹線への乗継ぎが待っており、その時間は14分。5~6分の遅れは織り込み済みだったものの10分を越えるとなると少々厳しい。何せ相手は絶対に接続待ちをしないでしょうから。

9分遅れ。

木古内駅に7分遅れの16:26到着。何とかなりそう。

北海道新幹線は木古内発16:33のはやぶさ40号。

駅の通路を足早に駆け抜ける。

ホームに上がると同時に電車の到着。コレに乗り遅れたとしても2時間20分後には次の電車が来るので…とか書けるのは予定の列車に間に合ったから。

いよいよここから爺パングの旅の始まり。はやぶさでの目的地は盛岡。18:10の到着です。

2021年10月11日 11時55分

鉄印帳の旅(17)摩周丸に乗船。

函館本線0マイル地点紀念碑を横目に歩いている。

目指すは函館市青函連絡船記念館摩周丸。

『1988(昭和63)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸を実際の乗り場であった旧函館第二岸壁に係留・保存して公開しています。』と摩周丸の公式サイトにありました。この日、函館駅から道南いさりび鉄道木古内行きに乗るのは15:15。摩周丸は1時間少々あれば見学できると思い乗船することにしたのです。

青函連絡船。学生時代の私にとって北海道は「津軽海峡冬景色」を口ずさみながら船で渡る地。ただ就職してからは飛行機で渡道しており、青函連絡船を使うことはありませんでした。

私にとっての青函連絡船歴。

1974年(昭和49年)2月8日に大雪丸、同年2月24日に羊蹄丸。

1977年(昭和52年)2月10日に十和田丸、同年2月25日に松前丸。

計4回の乗船で同じ船に乗ったことがないのはある意味奇跡かも知れませんが、今思えば摩周丸に乗船していればこの日の見学も違った気分になったのかも。

座席は一部が残されていますが、ここには座っていないはず。

私にとっての青函連絡船はこの桟敷席。上の乗船日をご覧頂ければ分かりますが、何せ真冬の季節。日中の便でも外は吹雪で景色はなく、それでもダッシュで窓際の席(席ではなく場所ですね)を取りに走り、そこにへばりついてただただ時間の通り過ぎるのを待っていました。

とか感傷に浸ろうかと思っていたら、修学旅行生の一団に想いを一蹴されました。でも修学旅行に来られて良かったね。

昭和の時代には入れなかった操舵室。しばし船長気分。

コンパス甲板に上ってみた。10月とは思えない暖かさ。

出入りする船を見ていて気付いた。ほぼ正面に縦に短い白い線が1本ある。

末広町電停からほど近い「八幡坂」に間違いない。と確信。

ということで市電の撮影に成功。

念のため写っていますよ!と証拠のためのトリミング。

こちらは函館駅の近く。電車の時間は函館市電のウェブサイトに出ていますのでそれが参考になります。

2016年6月11日に八幡坂から撮影した写真。これを事前に見ていれば摩周丸からこの坂が見えると分かったのでしょうが…。

参考までに道路ですので、電車の前を通る車は避けられません。またファインダーを覗きっぱなし、カメラを構えっぱなしでその瞬間を待ち続けることは、私の年齢では厳しいことを悟りました。それゆえ「いつ通過していったのだろう」は数度あり。

最初はどこか手近なところで市電を撮ろうと思っていたのですが、この機会を逃せば摩周丸に来ることは無かろうとばかりにやってきました。結論から言えば来て良かったの一言です。

ついでの函館駅前チョイ撮り。記録写真。

画面構成の勉強中。せめてもう少し空を入れ、左に余裕を持たせた方が良かったと思った一枚。これにて函館市電の撮影終了。

2021年10月10日 18時03分

鉄印帳の旅(16)道南いさりび鉄道。

10月7日(木)。久しぶりの鉄印帳の旅。

乗るのはやっとかめのミュースカイで中部国際空港へ。

佐藤栄太郎作「新しき旅」。

『二十世紀の歴史と文化の英知(創造・挑戦・感動)を身につけた若者が、新しい二十一世紀の理想に向かって、グローバル社会に雄飛する姿を表現した。』

名古屋空港から移設された物で、中部国際空港駅開業時からあるのですが、ちゃんと見た(撮影した)のは今回が初めて。これまでは電車を降りれば搭乗カウンターにまっしぐら。また帰りは帰りで電車にまっしぐらで、ほんの目と鼻の先にあるこの像が目に入っていませんでした。コロナ禍の中で、私にとって今回は「新しき旅」の気分。それゆえこの像に向き合ったのかも知れません。

AIRDO/ADO 127( ANA4827)便函館行き。11:00発。この日の目的ですが、まずは道南いさりび鉄道の鉄印。

AIRDOに乗るのは初めてではありませんが、コーヒーのマドラーがプラスチック製から紙製のものに変更になっていました。いつから?という疑問はさておき、こうした環境配慮にこつこつと取り組むことは大切なことと思います。

12:18頃、函館の街を眼下に見る。

着陸時の揺れに耐えながら、撮るべき物はちゃんと狙ううつけ者。

2016年6月11日以来の函館駅。

函館駅で「函館⇒木古内」の乗車券を購入し、駅から歩いて5分ほどの道南いさりび鉄道本社へ。

鉄印を授与して頂く。2種類の違いは「開業5周年」の有無。参考までに開業5周年記念デザインは2022年3月25日までの期間限定。それもあって通常版も含め2枚と購入。

そう言えば前回の函館訪問は、道南いさりび鉄道の開業に合わせて運行を開始した観光列車「ながまれ海峡号」に乗りに来たのでした。

2021年10月09日 17時47分

名古屋の鉄道136年史(4)世界の鉄道の始まりを復習。

歌川広重は、寛政9年(1797年)に生まれ安政5年9月6日(1858年10月12日)に亡くなりました。広重が東海道五拾三次を描いたのは天保年間(1831年から1845年)頃ですが、その時世界(ヨーロッパ)はどうなっていたのでしょう。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

世界で最初に登場した蒸気機関車。リチャード・トレビシック(Richard Trevithick)が1803年に発明しました。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

続いてジョン・ブレンキンソップ(John Blenkinsop)が1811年に作った蒸気機関車。

※岩波写真文庫21「汽車」 岩波書店編集部/株式会社岩波書店 昭和26年(1951年)4月20日発行

そして人が乗った客車を牽いて走った最初の蒸気機関車、ロケット号。ロバート・スチーブンソン(Robert Stephenson)が世界初の旅客鉄道であるイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道のために設計し、1829年に誕生しました。

そしてリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は翌1830年に開通しています。つまり広重の浮世絵の時代に、イギリスでは既に蒸気機関車が牽引する旅客列車が走っていたのです。

さてイギリス・ヨークにある国立鉄道博物館(NRM, National Railway Museum)にはロケット号のレプリカがあります。

そのレプリカですが驚く無かれ1934年製。日本の年号では昭和9年。私が生まれる前どころか、遙か彼方の「鉄道趣味」があったかどうかも分からない時代。この案内板を見た時には目が点になりました。

ただただ凄いね!の一言ですが一方の日本を見てみましょう。

明治元年(1968年)、明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制となります。江戸という地は東京となりました。

そうした中、国土交通省「日本鉄道史」によれば、

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Ⅱ.明治時代

1.鉄道開業とその後の鉄道網の伸長

明治2年11月、東京と京都を結ぶ幹線と、東京・横浜間、京都・神戸間及び琵琶湖畔から敦賀まで の三支線、計四路線の鉄道を建設するという政府決定がなされた。これが、我が国における鉄道建設計 画の最初である。

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1969年(明治2年)、かくして私の趣味である「鉄道」が(誕生前の)第一歩を踏み出したのです。

2021年10月08日 14時56分

名古屋の鉄道136年史(3)東海道五拾三次の浮世絵。

今日は江戸時代の「東海道」なら広重。ということで歌川広重(私が学校で習った名前は安藤広重でしたが、今は本名の姓+号ではなく姓名とも号である「歌川広重」とするのが本来とのことのようです)の浮世絵からの考察。

天保5年(1834年)「東海道五拾三次 吉田」。愛知県の東の入り口である現在の豊橋市。吉田の名から豊橋となったのは明治2年(1869年)のこと。ここにある城の名前は 吉田城で今、その場所は豊橋公園として整備されています。また描かれている橋は地名の由来となった橋と思われます。それにしてもお城は改修中?広重の浮世絵でも珍しいのではないでしょうか?

なおここで敢えてこの「吉田」を掲載したことはまた後日触れます。

江戸を出て、今の名古屋市内に入っての最初の宿場は鳴海。(名古屋市緑区鳴海町)

東海道は名鉄名古屋本線の北側にあり、地元では今も「旧東海道」として一般的にその名が使われています。右に左に折れ曲がるその道路は、江戸時代のままだそうで、道幅も変わっていないはずと地元の方に聞いたことがあります。

絵の中には「絞り」の店が見えます。今はこのエリアの「絞り」では個別の「有松絞り」の方が名が通っている気もしますが、私には「有松・鳴海絞り」がしっくりきます。

それはさておき旅人には歩きの方もいますが、馬と駕籠(かご)も描かれています。江戸時代の東海道で馬の利用と言えば荷物を運ぶというイメージがあり、馬に乗ったのは参勤交代のお武家さまとか?もっともここに描かれている人はそんな風には見えないので、庶民には到底手の届かない江戸時代の「公共機関」という存在だったのでしょう。

また駕籠(かご)は宿と宿を結ぶ長距離の公共交通機関に相応しく無さそうですが、実際には道中駕籠という存在があったのでこちらも民営の「公共交通機関」の走りと言えます。

熱田の「宮」宿。これは昭和23年(1948年)に熱田神宮門前の「きよめ餅総本家」が新年の挨拶状として商品に付けたと思われる書状。その表側が「宮」宿の浮世絵。(裏面に「きよめ餅」の由来などが書かれ、昭和戊子(つちのえね)の年号あり)

余談ですが、きよめ餅は熱田神宮の参拝時には買ったりもします。

さてここから三重県の桑名宿までは、東海道では唯一の海路「七里の渡し(宮の渡し)」となっていました。そのためこの絵の中には船が描かれています。これは間違いなく公共交通機関と言える存在で、『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)の主人公/弥次郎兵衛と喜多八も乗ったはず。

宮の船着き場があったところは現在「宮の渡し公園」となっています。そこから桑名へ向かう航路上には、今は新幹線が横切っています。

桑名の宿に着く、もしくは出航の船。

よく見れば船の中には人がギッシリ乗っています。こうして描かれるほど乗船客がいたと言うことでしょうから、江戸時代の東海道の往来がどれほどだったかを伺い知ることが出来ます。

2021年10月07日 22時18分

ああ!想ひ出の電車通り。

鉄道を題材にしたお菓子(スイーツ)。

9月22日に新幹線ドーナツをアップしましたが、以前ですと2010年9月3日 に「都電もなか」を知っていますか?」と題し、東京の「都電もなか」を紹介しています。

今こうして見れば、10年以上も前なのに、つい最近味わったような気がします。

さて今回は岡崎市の銘菓「ああ!想ひ出の電車通り」。NPO法人名古屋レール・アーカイブスに頂いたお土産です。

パッケージにはかつて岡崎市内を走っていた路面電車(名鉄福岡線、岡崎市内線、挙母線を合わせて岡崎市内線と呼ばれることが多かったという記憶あり)の全部の電停名が並んでいます。この線は1962年(昭和37年)に廃止となっており、その姿が記憶にある人は間違いなく岡崎市内在住の一定年齢以上の方。「ああ!」という言い回しは、そういう世代の方にとってはグサリとくるのではないでしょうか。

と書きつつ包装紙の中身の写真がありません。撮ろうと思いつつ忘れて食べてしまいました。皆さんも岡崎市に出掛けたらお試しあれ。

2021年10月06日 16時38分

名鉄パノラマカーのブリキのおもちゃ。

名鉄7000系。

昭和36年(1961年)誕生の、言わずと知れた名鉄の代名詞とも言えるパノラマカー。

そのブリキのおもちゃ。

所有者は元名古屋鉄道に勤務され、このパノラマカーの生みの親とも言える白井昭さん、94歳。

黄金の「PHOENIX」マークが良い感じで輝いています。名鉄パノラマカーと言えば“逆富士”の方向板がトレードマークですが、今回、このフェニックスマークのおもちゃがあるのを初めて知りました。フェニックスマークで走った期間はそれほど長くないはずなので、それだけでもこのおもちゃは超貴重品であると思います。

とろこで今回これを見ることになったきっかけ。

白井さんはNPO法人名古屋レール・アーカイブスの初代理事長でもある方で、今、会では白井さんがこれまで撮りためた名鉄を中心に日本全国にまたがる貴重な写真のデジタル化と、自宅で所蔵するこれまた希少な資料類を整理しています。その作業のためにご自宅に伺ったものです。

参考までに2021年8月24日に発売されたデアゴスティーニ社の『隔週刊鉄道 ザ・プロジェクト第17号 名鉄パノラマカー』を始め、同じく7月27日に発売されたアルファベータブックス『阪急電鉄沿線アルバム (昭和~平成)』などでその写真が掲載されています。

おっと忘れてならないのは8月20日にフォト・パブリッシングから出版された「名古屋鉄道の貨物輸送」。著者曰く、白井さんの写真のデジタル化を進んだことにより、名鉄の貨物史を彩る写真が新たに発掘され、内容がここまで充実したとのことでした。

ちゃんと計るのを忘れていましたが、多分全長50センチほどの大型のもの。

白井さんが「これは私の宝物」と仰ったのがこのブリキのおもちゃ。

このパノラマカーを見ながら白井さんから思いがけない誕生秘話も聞きました。多分、どこにも発表されていません。なぜそう言えるかですが、それは今回の同行者が名鉄電車の本を出版されている方達だったから。私としてはこのブログでなく別の機会に譲りたいと思います。その時はこのブログでお知らせします。

2021年10月05日 15時58分

名古屋の鉄道136年史(2)地図と鉄道。

昨日はいきなり古地図でしたが、そもそも鉄道と地図は切っても切れない相関関係にあると言えます。
これまで廃線となった鉄道路線はあまたありますが、その時になり地元の方が語る言葉に「地図から街が消える」がありました。一方、新たな鉄道を敷くことは新しい地図を作ることと言ったら言い過ぎでしょうか?
私の個人的感想です。
さて今日は江戸時代に旅をする人が見たのでないかと思う地図。

天保13年(1842年)「 東海木曽両道中懐宝図鑑」

江戸時代、江戸と京都を結び日本でもっとも重要な街道であった「東海道」を中心とした案内地図。今風に言えば旅行ガイドブック。

「宮」は今の熱田区。上部には「名古屋城」。また後日書きますが、東海道五十三次の「宮」の宿は当時、名古屋というくくりの中に入っておらず、宮の宿のある「熱田」の地が名古屋になるのは明治40年(1907年)の事です。

嘉永5年(1851年) 「旅中必携五街道中獨案内記 岡村屋庄助板」

雰囲気は先の地図と同じ感じ。

宮(熱田)界隈の名所と言えば「熱田神宮」であり、何よりこの地が「名古屋の入り口」であることが見て取れる「図」です。

慶応元年(1865年)「大日本行程大絵図」。その名古屋界隈を切り取ってみました。

さて今日の3枚の地図で、メインストリートとしての「東海道」を始め各地を結ぶ「線=道路」が描かれています。江戸から明治の時代へと進む中で、その線をなぞって鉄道が開通していくのかどうか?もしくは今ある鉄道網と江戸時代の街道との相違点は?結論から言えばいろいろなパターンがあります。の一言です。ざっくりすぎて申し訳ありません。

ところで今日の3枚の地図は地図と言うより絵図というのが相応しいですね。時刻表の路線図もデフォルメされていますが、これらはそれ以前の話しです。昨日UPしたのは今日と比べ、地図らしいものです。

それはともかく私は地図を見るのが子供の頃から好きで、それは今も変わりません。それもあって今回、このシリーズの下調べでは江戸から昭和にかけての地図をしこたま見ており、時間がいくらあっても足りません。

(余談)

図中に「尾張」という旧国名が書かれていますが、「尾張」という国名は実は「旧」ではなく今も生きているということを地図研究家の今尾恵介さんから教えて頂きました。

『法令によって廃止・禁止されたわけでもないので、現在も当然使用可能であり、「旧」と付ける必要もない。』これはWikipediaの「旧国名」の記事。

『廃藩置県の完成の結果、3府43県が確定して都道府県の区域が旧の国を上回る規模となるとともに、旧の国はしだいに一般的な地理的区分としても意識されなくなっていった。』

こちらは愛知県庁政策企画局企画調整部企画課のウェブサイトにあった『2 「旧の国」のまとまりについて』の記述。

「廃藩置県」はあったが、「国名」の廃止はされていないことを物語っており、もっともだから愛知県でも尾張と三河は、、、というのは止めておきましょう。

 

2021年10月04日 18時30分

名古屋の鉄道136年史(1)その前に、江戸時代の名古屋の街。

来年2022年は日本に鉄道が開業して150年、そして名古屋に市営交通が誕生して100年の記念すべき年です。

まず日本の鉄道150年ですが、 日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通したのは明治5年(1872年)10月14日。

(開業時の日付は太陰暦の9月12日)

そして名古屋市営の交通機関の登場は大正11年(1922年)8月1日。当時、名古屋市内の路面電車を走らせていた名古屋電気鉄道(現在の名古屋鉄道の前身)の路線を市営化したものです。

そうした鉄道に関する2つの節目を迎えるに当たり、このブログでは名古屋を中心としたエリアの鉄道の歴史を振り返ってみることにしました。内容は私個人とNPO法人名古屋レール・アーカイブスが所蔵する資料類を中心に調べたものです。ただあくまでも私が知る限りを書く私家版であり、歴史の検証が十分に行えない部分もあるかと思います。その点はご容赦下さい。

ところで名古屋に最初の鉄道が開通したのは明治19年(1886年)3月1日。現在の東海道本線熱田駅~武豊線武豊駅間の開通によるもので、名古屋駅(開業時は名護屋駅。1887年4月25日に改称)まで線路が伸びたのは同年の5月1日のことでした。そこで本シリーズのタイトルは「名古屋の鉄道136年史」とし、来年の3月1日のゴールを目指します。お付き合いのほどお願いします。

第1回の今日はまず江戸時代の話し。

そもそも公共の交通機関っていつからあったのでしょう?思いつくままですが、当時の人の移動手段は徒歩か駕籠(かご)か馬、もしくは船。こんなところでしょうか?ということでまずは江戸時代を俯瞰。

「尾張志付図(尾張図)名古屋市蓬左文庫蔵 」(名古屋市博物館特別利用許可あり)

19世紀(1800年代)の愛知県尾張の地図で、現在と形はほぼ同じです。コピーなので解像度が低く地名が読めないのはご容赦頂き、それでも道路らしき線が張り巡らされていることは何となく分かります。

「尾府名古屋図 名古屋市蓬左文庫蔵」(名古屋市博物館特別利用許可あり)

正徳4年(1714年)頃の名古屋城下の地図で、一応、今の栄付近にチェックを入れてあります。市街地の部分は何となく読み取れると思いますが、今でいう名古屋市中区の範囲とお考えください。

市街地は名古屋城の南側で、西は堀川を越えたところまで。東は目印がないので分かりにくいですが、今のJR千種駅辺りまでで、そこから先の人家はまばらです。

赤の枠で囲ったのが江戸時代の「広小路」。今もある広小路で、地図でもその部分だけ、道路が太く描かれているのが分かります。右端が栄交差点付近で左端は長者町通り(地下鉄伏見駅の東の辺り)。そこから先、左方向に道路が延びていますが、堀川を渡る納屋橋まで広小路が達していません。

当時の名古屋の街のイメージが湧きましたでしょうか?文明開化の明治時代が始まる明治元年(1868年)頃でも名古屋の街は江戸時代からあまり変わることはありませんでした。

(このシリーズの年号表記について)

私のこのブログでは年号を表記する場合、西暦を先に書き、元号を括弧書きで入れることを標準にしています。ただ今シリーズに関しましてはそれを逆にして元号を先、年号を後にします。まあ小さな拘りということで…。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!