2020年08月02日 19時56分
この6月19日、滋賀県長浜市にある長浜旧駅舎が日本遺産に認定され、今、長浜鉄道スクエア(長浜旧駅舎、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館の3施設)ではそれを記念し、ミニタオルなどを配布しています。
日本遺産は以前、四国の「森林鉄道から日本一のゆずロードへ ─ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化─」を回ったことがあります。それは2017年(平成29年)5月28日(日)のこと。

この6月19日、滋賀県長浜市にある長浜旧駅舎が日本遺産に認定され、今、長浜鉄道スクエア(長浜旧駅舎、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館の3施設)ではそれを記念し、ミニタオルなどを配布しています。
日本遺産は以前、四国の「森林鉄道から日本一のゆずロードへ ─ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化─」を回ったことがあります。それは2017年(平成29年)5月28日(日)のこと。
昭和45年の明治村。
明治村で運転されている京都市電は、1910年(明治43年)から1911年(明治44年)にかけて作られた電車で、この時点で齢(よわい)60歳。今では100歳超のご長寿さん。
尾西鉄道の1号機関車。今と当時の違いは展示されている場所。
12号機関車は1874年(明治7年)にイギリスから輸入されました。今と当時の違いは、1974年(昭和49年)3月18日から動態保存、つまり動く機関車として再度命を吹き込まれたことです。齢(よわい)146歳。実際に動く車両としては日本では一番古いものです。
もっとも若い人は、この機関車がこの写真のように動かない、つまり静態展示されていたことの方が驚きかも知れません。
コロナ禍の中で、外出を控える日々が続き、家の中の鉄道写真の整理と資料の整理&減量に取り組んでいます。
1969年(昭和44年)9月30日の名古屋駅。関西本線名古屋口の蒸気機関車が牽く最後の旅客列車です。
美しく装飾されたその姿は、お召し列車を牽いた(その姿を私は見たことがありませんが…)機関車として、最後とは言えこの栄えある場所に立つに相応しいものでした。
リニア・鉄道館に展示されているC57139号機。(2011年3月7日、関係者向け公開にて撮影)
50年の月日を超えて、今もなお私の中でこの機関車が動く姿は生きていると言っても過言ではありません。
ところで今考えれば信じがたい場所での撮影。多分、あおなみ線のホームの辺りでしょうか?当時はそんな場所でも撮影ができましたが、もっとも普段でもOKだったかと言えば、それは分かりません。ただこの時は国鉄の関係者が回りで私たちの安全を確保されていたことは記憶にあります。
そしてこれらの写真が私の一眼レフ撮影の実質デビューでした。これ以前にも数回試し撮りをしていますが、慣れるのに必死で、撮っているというよりただシャッターを押していただけ。
さて撮影したこのカメラ。今もシャッターは軽快な音を立てて切ることができます。(写るかどうかは別です)
先日電池を替えたら露出計も動きました。フィルムでもう一度撮影してみようかなと思う日々です。
※一番上の写真は、リニア・鉄道館のC5739号機の解説で使って頂いています。(名義はNPO法人名古屋レール・アーカイブスで私の名前はありません)
東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日は木曜日。つまり平日。
最近のイベントは、日付よりは曜日優先で日程が決まっているような気もしますが、東海道新幹線は10月1日に拘ったのだと思います。
ということで当日(1964年10月1日)は夕刊があり、そのトップは勿論新幹線の開業。
そして7面にも記事があって大きく扱われたニュースではありますが、それでも1面から8面まで「新幹線」でぎっしりと言うことはなく、例えばこの紙面でも「新幹線」「オリンピック」「赤い羽根」が同等の扱いです。その辺りは新聞らしい紙面構成ですね。
また新聞ですので「広告」があるのですが、個人的にはそれも目を引きます。会場ではそれもお楽しみの一つです。
さて名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」ではこの新聞の現物を展示しています。鉄道愛好家の方から寄贈された資料を整理していてたまたま見つかったのですが、それも5月に入ってから(以前にもこのことを書いています)で、運命の神様が引き合わせたくれたと思っています。
そして読みやすさは別にして、敢えて本物の現物展示にしたのはこの時代がかった色が理由です。同じ記事を読むにしても、当時の紙の上の文字を見てもらうことで時代の流れも感じ取って欲しいと言うのが狙いの一つだったりもします。
私が会員になっているNPO法人名古屋レール・アーカイブスによる第10回名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」の展示物の製作のこと。
今回はコロナ禍ということもあり、やれる範囲で作ろう(30枚程度)というところからスタートしましたが、結局41枚になりました。
やってみて気付いたのは、私にとっての「新幹線」がかつての特別な存在から、いつの間にか日常の足になっていたということです。
東京出張時の新幹線車内は、資料作りか睡眠補給の時間で、移動の手段というより時間の帳尻合わせのために乗っているようなものでした。
また福岡出張時も、周りからは「稲見さんは当然、新幹線ですよね」とか言われましたが、使っていたのは専ら飛行機で、驚かれたりもしていました。
さて私の新幹線体験。希望に胸膨らませ、人生の門出のはずが落ち武者になるとはまだ知る由もない至福の2時間2分でした。(こんな乗車券を残している段階でアウトだと今更ながら両親に申し訳ないと思う)
ただ受験だから「新幹線」の乗ったことだけは間違いありません。
この時から1年の後、年に数回名古屋~東京を往復することとなりましたが、新幹線は私にとっては「いつもの」選択ではなく、「いつもの」は、大垣夜行と高速バスでした。
ところでそんな昭和40年代~50年代の新幹線はどんな存在だったのでしょうか?
「ことぶき入場券」がその1例ですが、大安吉日の新幹線ホームでは、新婚旅行に向かうカップルを見送る人であふれ、後にホームでの使用が禁止になるクラッカーの音がそちこちで鳴り響き、新郎の胴上げ、万歳三唱は見慣れた光景でした。
また転勤で赴任する人の見送りもよく見られ、新婚さんの見送りと違うのは、クラッカーがないのと、時にホームで繰り広げられる人間模様を感じるシーンでした。
当時でもビジネス客の方が圧倒的に多かった新幹線でしたが、それでも「新幹線」に乗ったことが話の種になった時代であったとするのに異論は少ないかと思います。
今回、そんなことを一つ一つ思い出しながら、自分にとっての「新幹線」って何だったのだろうとか思い出しつつ写真を選び資料を眺めていたら、朝日新聞の取材を受ける中でつい「かつては夢と冒険の乗り物だった」という言葉が出てしまいました。
でもそんな純粋な気持ち、当時はあったんだよね。きっと。
https://www.asahi.com/articles/ASN7K00VHN7COIPE001.html
さて昨日の場所から少し「阿漕駅」に近づいたところ。画面の左下のある『石』に注目。
境界と読めますが、これがここに鉄道の線路が存在したことを表しているとのこと。解説を聞きながら歩いているので、「なるほど」と思えるのですが、知らなければただ通り過ぎるだけ。
さて紀勢本線の踏切を渡り、南側に注目。特急「南紀」の右側にあるのが『中勢鉄道』が紀勢本線(中勢鉄道の開通当時は参宮線)を越える橋の橋脚の一部。
こうしてぽつんと残っているのは何故でしょう。とか思ってしまうのは私の悪い癖ですね。
でも気になる。
近鉄南が丘駅をスタートし、1時間半もかからず阿漕駅に到着。
駅舎は今風に建て替えられていますが、跨線橋は一体いつの時代のものでしょう?
2020年2月8日(土)朝10時25分、近鉄名古屋線南が丘駅に集合。この日は中勢鉄道廃線跡巡りです。
ところで中勢鉄道って何ですか?ということになりますが、津市内にあった「岩田橋」駅を起点に、阿漕駅で紀勢本線と接続、終点の伊勢川口駅で名松線と接続していた『軽便鉄道』(762ミリゲージ)で、1925年(大正14年)に全通し、1943年(昭和18年)に全廃されています。
南が丘駅から一番近いところにあった「二重池駅」。その名前の由来となったと推察される2つの池の内の一つの周りで、まもなくデビュー(当時)の「ひのとり」の撮影。
二重橋駅から阿漕駅方面(起点の岩田橋駅方面)への廃線跡は道路になっていますが、こうして見ても“坂道”であることが分かります。これが明治~大正期の蒸気機関車にとってどれほどつらい道だったかは察するにあまりあります。
道路(昔の中勢鉄道)を跨ぐ近鉄名古屋線の跨線橋。橋桁の色が右半分と左半分で色が違うことが見て取れます。これは今の名古屋線が開業時は単線で、その後1線足されて複線となった証だそうです。知らなければただ通り過ぎるだけ。知れば歩みを止めて知の充足。
独断と偏見ですが、非電化のローカル私鉄の典型だと思っているのがデッキ付きの気動車。
加悦SL広場にいたのはこのキハ101。
キハ101より一回り大きいキハユニ51。
「キハユニ」ということで「ユ」がついていますので郵便物を扱う場所が車内にあります。鉄道で郵便が運ばれていた現役時代を知っている人はすでに限られた存在ですが、鉄道が日本の郵便輸送を支え、それが大都市間だけではなく、地方まで及んでいたのはまごう事なき事実です。ただこの郵便室は1993年(平成5年)の復元で、それは少し残念ではあるものの、それでこの車両の価値が下がるものではありません。
ところでここ加悦SL広場は閉園となったあとの情報が出てきません。一部車両について地元与謝野町での保存話も出ていましたがどうなったのでしょう。コロナ禍が少し落ち着けば情報も出てくるでしょうからそれをしばし待つことにしています。
ジオラマ。
疾走する電車。
ジオラマを走る電車の先頭に付けられたカメラを見ながら、本物の800形電車の運転台で、操作体験も出来ます。大きなお兄さんは流石にこの席に座ることを遠慮しましたが、今はそれを後悔しています。
車庫がある。思わず覗き込んでしまった。
飛行場。京急のジオラマですので、何がしかのギミック(仕掛け)があるはずなのですが…。
もう一回行くチャンスがあれば、目を皿のようにしていろいろ見つけたいと今、思っている。
もう遠い昔のような気がする先月(2月)28日、インターネットラジオ「野月・南田のエアトレインch.」録音のため東京へ。その日の新幹線はご覧の状況。空いているのぞみ号に乗ったことはあるが、ほぼ空気を運ぶのぞみ号に乗ったのは初めてだったと思う。
清々しい美しさの富士山を見つつ、東京が近づいてくる。
夕方からの録音を前に、1月21日にオープンした京急ミュージアムへ。横浜駅から歩いて10分弱の場所。この時は無事、見学が出来たのですが、よもや翌2月29日からこのミュージアムが臨時休館するとは夢にも思っていませんでした。
お出迎えは京急デハ230形デハ236号。
京急時代のこの形式は私とあまり接点がなく、1976年9月20日に最後の活躍の場であった大師線に乗りに行っているので、恐らくその際に乗っているかも?というレベルです。
私が一枚だけ撮影していた高松琴平電気鉄道へ譲渡されたデハ230形(デハ265号)⇒30形(33号)。琴電で初めてこの電車を見た時、窓の大きさに驚いたことだけははっきり覚えています。もっとも私にとっての京急と言えば1000形(初代)だったりするのですが、それはあくまでも印象であって、京浜急行電鉄という会社にとって、このミュージアムに入るべき電車はこれだ!ということで、私のこの電車を見る目が変わったのは間違いありません。
車内に入った印象は「狭い!」。京王の2000系もそうですが、名鉄電車の車内がさほど広かったわけではないものの、昭和の関東の大手私鉄には思いの他小柄な電車が走っていたという今更ながらの“新たな発見”となりました。
ホーム。この時はただのホームだと思っていました。でも、ホリプロ南田さんからこのホームの秘密を、、、ここだけではなく他にも京急の方たちの色々細かいこだわりがあると教えてもらいました。