2021年02月05日 20時29分
昨日の続き。
「さよなら」あらば「開業」あり。
1日違いの発行ですが、随分印象が変わります。
消印が新しい神岡鉄道の新しい気動車になっていた。
昨日の続き。
「さよなら」あらば「開業」あり。
1日違いの発行ですが、随分印象が変わります。
消印が新しい神岡鉄道の新しい気動車になっていた。
国鉄神岡線は1984年(昭和59年)9月30日をもって運行を止め、翌10月1日から神岡鉄道神岡線となりました。
1966年(昭和41年)10月6日の開業ですから、国鉄の時代は決っして長くはありませんでした。
キハ52系が単行で頑張っていた線で、第3セクター転換後は神岡鉄道KM-100形気動車が走り始めました。ただ、神岡鉄道になってから私は乗っておらず今思えば残念でなりません。
「神岡」の消印は風景印。スキー場は多分、流葉(ながれは)スキー場。上にあるのは神岡城。では右下はどこだろう?大津神社ではないかと推測。
NPO法人名古屋レール・アーカイブスでは鉄道の切手などの寄贈を受け、それを保存活用しています。
まずは「鉄道100年記念」。
昭和42年(1968年)10月14日の消印有り。
FIRST DAY OF ISSUE(ファーストデイオブイシュー)。日本語では「初日カバー」。切手収集が趣味の方にとっては馴染み深いものですが、そうではない方には少し遠い存在かもですね。
今日からこうした消印付きの切手を中心に収蔵品の一部を紹介します。しばらくお付き合いください。
2020年12月19日にした「絵はがきに見る鉄道史(44)大名古屋三十二景。」の続編。
「名古屋港上空ヨリ見タル中川運河全景」。
今の中川運河は市街地に埋もれており、私もそうですが、多くの方にとっては単なる一本の川筋といった印象ではないでしょうか?
ところがこの写真におけるその存在感たるや相当なものです。
名古屋の街を南北に、一直線に走る運河。その川幅にも圧倒されます。もっとも現代の川幅が狭くなったということは無いでしょうが、それでもこの運河を大正から昭和の時代にかけ、ゼロから作ったのは偉業と言っても過言ではないでしょう。
撮影時期ですが、まず中川運河全線開通の昭和7年(1932年)以降であることは確定でしょう。
次に中川運河の主たる目的である鉄道省「笹島駅」(貨物駅)と結ぶという視点から見ると、この写真では「らしき駅」が見えます。もっとも中川運河より笹島駅の方が先に使用(昭和12年の正式開業前、昭和4年に一部の工事完成)が始まっており、昭和7年以降は間違いなし。
また判別できないものの、名古屋駅が「2代目」とも思え、よって「3代目」の工事のことも考えると昭和10年前後ではないかと思っています。
2020年10月08日に(旧)山陰本線/保津川橋梁の写真をUPしています。
現在の嵯峨野観光鉄道トロッコ列車の保津川橋梁。この鉄橋は実は2代目。
初代保津川橋梁。1899年(明治32年)に完成し、1928年(昭和3年)まで使用され、その後1枚目の写真の2代目にその役目を譲りました。
ところでこの絵はがきでは保津川下りが写っています。明治時代には既に観光客相手の遊覧船があったとのことで、さてこの写真が撮影されたのはいつでしょう。
こちらも初代保津川橋梁。鉄骨の組み方で初代と判断しています。
くっきりした写真ではない上に着色しているので、ディテールがはっきりしません。ただ何となくタンクの蒸気機関車+小型客車に見えます。そうするとこの区間を1899年(明治32年)に開通させた「京都鉄道」の可能性が高まります。
とまあ私の歴史推理はここまで。勘では明治40年代頃ですが、、、。
こちらは名古屋の向野橋(こうやばし)。手近な撮り鉄ポイントとして知られていますが、何とこの橋は初代保津川橋梁。そんな縁で初代保津川橋梁の絵はがきを2枚集めたのですが、思わぬ所に転用され、今も現役とはなかなかしぶとい鉄橋です。
もう一点。この向野橋があるので、絵はがきが初代保津川橋梁と特定できています。そうっ、鉄骨の組み方が、遠目ではその違いが分かりにくいのですが、写真をトリミングするとはっきりと違いが分かります。
亀山橋ヨリ参宮線ヲ望ム。
亀山橋は今もあります。場所は亀山市を東西に流れる鈴鹿川に架かっており、亀山駅の南東に当ります。ところで亀山で参宮線ということで「あれっ?」と思う方もいるでしょうが、今の紀勢本線が亀山起点になったのは昭和34年(1959年)の事。それまでは亀山~多気間も参宮線でした。
参考までに亀山橋を渡る参宮線(開通時は関西鉄道)は1891年(明治24年)の開業です。
ここからは撮影年代の特定。15.6.10の印がありますので、まあ昭和15年以降ということはないでしょう。もっともこの日付は大正15年ではないかと私は思っています。
最初に発行所である「亀山加藤書店」を検索。「加藤商店」「加藤活版所」というのが亀山市歴史博物館のHPで見つかりました。加藤商店は「図書 文具 印刷」を行っていたようなので、その会社から発行されたのではないかと推察しますが、あくまでも推察の域を出ません。
次に蒸気機関車から撮影年代を特定できないかと思いつつも、私の力では確かに紐解くことは出来ませんでした。
最初8620形(1914年~製造)の初期型?に似ていると思ったけど多分、6700形かなとも思う。煙突の形状や全体の印象からです。
因みにどちらも亀山を走っていますが、8620形は関西本線/亀山~湊町での運用という資料もあるので。それを含めて6700形かな。
一方、では自動車ならば、ということになりますが、こちらも力及ばず。後部にスペアタイヤを積んでいることからT型フォードであろうとは思うものの確定できず。
で撮影時期ですが、無難に大正15年頃としておきましょう。
今日は亀山駅130周年をお祝いし、この絵はがきを紹介することとしました。
12月20日にUPした市電の路線の話の補強。これは1939年(昭和14年)発行の電車運転系統図。3系統が栄町起終点となっています。
「ビル並ぶ広小路通り」。電車とバスと車。それより自転車が目立ちます。こうした写真を見ると当時の生活を垣間見ることが出来ます。
「百貨は松坂屋」。建物に掲げられた大型の看板には「綿布破格廉売」とあり、今風に言えば「バーゲンセール」。
「県政を司る愛知県庁」。昭和12年まではこの姿で、昭和13年3月には今の愛知県庁本庁舎が完成し移転していますので、その事実からもこの絵はがきの作成時期が特定できます。
「広壮なる名古屋市庁舎」。いちいち辞書を引かないと良く分からないタイトル。
交通頻繁(ひんぱん)なる栄町交差点。ところでこの絵はがきのシリーズは、表題が左から右に向かって読みようになっています。当時としてはかなり珍しいと思え、私も昭和10年代までの出版物で右書き以外を見たのは恐らく2~3例目。
栄町交差点をトリミング。左手前のレンガ造りの建物は日本銀行名古屋支店。建っていたのは東北交差点。
右奥。栄町交差点南西角の屋上にドームのある建物は、かつてのいとう呉服店(後の松坂屋百貨店)。そして正面奥の建物が1925年(大正14年)に移転開業した松坂屋百貨店です。
ということでこの写真は手前が今の市役所方面、奥が南大津通~金山方面。右が名古屋駅で左が今池方面という事になります。
また真ん中の名古屋市電では、折り返しで金山方面に向かう様子が写っています。恐らく熱田電気軌道が開業し、名古屋電気鉄道を経て名古屋市電となった東築地線の南陽館前との間を結ぶ系統。昭和10年代前半の名古屋市電で、栄町で折り返す南北を結ぶ系統は1系統のみでした。
遊楽街の大須門前。「Playing Center」の英訳になるほどという感想あり。
殷盛(いんせい)を極むる御幸本町通り。「The Commercial Circle Of Nagoya」って英訳が私の中では意味不明。
大名古屋三十二景。三十二枚入。袋の図案は名古屋の象徴「名古屋城」。
名古屋城/外苑の眺望名古屋城。
名古屋城/仰ぐ鯱名古屋城。
名古屋城/世界一金の鯱。
名古屋城だけで3枚。それにしても昔の金鯱は金網でガードされていたんですね。
新名古屋駅。まずはこの絵はがき集が発行された時の時代の特定。
既に何度もこのブログで書いていますが、写真の三代目名古屋駅の開業は昭和12年。「新名古屋駅」という書き方もあり、この絵はがき集が撮影されたのは昭和11年末~昭和12年初で間違いないでしょう。
で、その歴史的視点で今回は全32枚を何回かに分けて全てUPします。
海の玄関名古屋港。
海陸の交通は中川運河。
中川運河は昭和7年に全線供用され、海運の名古屋港と鉄道の笹島駅(貨物駅)を結ぶました。それにしても名古屋を紹介する絵はがきに「運河」が出てくるという事で、この運河が当時の名古屋でどんな位置付けだったかが分かります。
大名古屋。GREAT NAGOYA。
7枚セットの絵はがき。やはり名古屋城は外せません。
熱田神宮。
1937年(昭和12年)3月24日に開園した東山公園。撮影した時期に近づきました。
※参考:東山動植物園公式HP「東山動植物園の歴史」。
1937年(昭和12年)2月1日に使用が開始された3代目名古屋駅。この写真をよく見るとまだ工事中に見えます。ということで全体の印象として、昭和12年になったかならないかの時期に順番に撮影されたのではと思っています。
もっとも私の興味は左隅の名古屋市電。多分1300形。合っていて欲しい。
名古屋港。撮影時代が分かるとその視点で色々考えられて楽しいですね。