2020年07月25日 21時22分

1969年9月30日の名古屋駅。

コロナ禍の中で、外出を控える日々が続き、家の中の鉄道写真の整理と資料の整理&減量に取り組んでいます。

1969年(昭和44年)9月30日の名古屋駅。関西本線名古屋口の蒸気機関車が牽く最後の旅客列車です。

美しく装飾されたその姿は、お召し列車を牽いた(その姿を私は見たことがありませんが…)機関車として、最後とは言えこの栄えある場所に立つに相応しいものでした。

リニア・鉄道館に展示されているC57139号機。(2011年3月7日、関係者向け公開にて撮影)

50年の月日を超えて、今もなお私の中でこの機関車が動く姿は生きていると言っても過言ではありません。

ところで今考えれば信じがたい場所での撮影。多分、あおなみ線のホームの辺りでしょうか?当時はそんな場所でも撮影ができましたが、もっとも普段でもOKだったかと言えば、それは分かりません。ただこの時は国鉄の関係者が回りで私たちの安全を確保されていたことは記憶にあります。

そしてこれらの写真が私の一眼レフ撮影の実質デビューでした。これ以前にも数回試し撮りをしていますが、慣れるのに必死で、撮っているというよりただシャッターを押していただけ。

さて撮影したこのカメラ。今もシャッターは軽快な音を立てて切ることができます。(写るかどうかは別です)

先日電池を替えたら露出計も動きました。フィルムでもう一度撮影してみようかなと思う日々です。

※一番上の写真は、リニア・鉄道館のC5739号機の解説で使って頂いています。(名義はNPO法人名古屋レール・アーカイブスで私の名前はありません)

2020年07月23日 23時45分

名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」

東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日は木曜日。つまり平日。

最近のイベントは、日付よりは曜日優先で日程が決まっているような気もしますが、東海道新幹線は10月1日に拘ったのだと思います。

ということで当日(1964年10月1日)は夕刊があり、そのトップは勿論新幹線の開業。

そして7面にも記事があって大きく扱われたニュースではありますが、それでも1面から8面まで「新幹線」でぎっしりと言うことはなく、例えばこの紙面でも「新幹線」「オリンピック」「赤い羽根」が同等の扱いです。その辺りは新聞らしい紙面構成ですね。

また新聞ですので「広告」があるのですが、個人的にはそれも目を引きます。会場ではそれもお楽しみの一つです。

さて名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」ではこの新聞の現物を展示しています。鉄道愛好家の方から寄贈された資料を整理していてたまたま見つかったのですが、それも5月に入ってから(以前にもこのことを書いています)で、運命の神様が引き合わせたくれたと思っています。

そして読みやすさは別にして、敢えて本物の現物展示にしたのはこの時代がかった色が理由です。同じ記事を読むにしても、当時の紙の上の文字を見てもらうことで時代の流れも感じ取って欲しいと言うのが狙いの一つだったりもします。

2020年07月14日 15時44分

高蔵寺~瀬戸市。

高蔵寺駅に13:00ジャストに到着。

初めて降りた訳ではないはずなのに、このオブジェは知らなかった。

その高蔵寺駅前にはゆとり―とラインのバス(ここ高蔵寺駅では…)が日中30分に一本、顔を出します。

名古屋市内に住んでいながらガイドウェイバスを間近に見るのは何年ぶり?かの記憶がない。

と書きつつ、このガイド部分の写真を撮るのは実は初めてだったりして。

13:20発の北野桝塚乗換の岡崎行きに乗車。

2つの行先表示を使ってそれを分かるようにしているパターンって他の鉄道で会ったっけ?

トンネル内でのすれ違い。ヘッドライトが点灯しているとオートフォーカスが上手く働かないのでマニュアルフォーカス。数打ちゃ当るたった1枚。

2020年07月13日 15時00分

津~近鉄四日市~名古屋~高蔵寺

話が前後しますが、7月10日(金)は鈴鹿駅で伊勢鉄道の鉄印帳を手に入れた後は一路津を目指します。

鈴鹿発10:17発の快速みえ3号鳥羽行きに乗車。もともと平日の午前帯とあって混むことはないのですが、それにしても悲しくなるくらいお客さんが乗っていない。この駅から乗車した3名は多分、「鉄印帳」組。

10:30に津で下車。折り返し近鉄で四日市を目指します。理由は昨日UPした四日市あすなろう鉄道のスマホスタンドを買うためですが、やはり出来る限り鉄道に乗って鉄印を集めたいと言うこともあります。

 

ただ想像していたとおり、車で「鉄印」集めをしている人がいると知人から聞きました。ここ鈴鹿駅は本数も多いので鉄道でも来やすいのですが、樽見鉄道の本巣駅であったり、長良川鉄道の関駅、郡上八幡駅はやはり効率面ではよくありません。で、1駅分の乗車券を買って鉄道に乗らずに「鉄印」集めをする、、、何だかなあと思うのは私だけではないと思います。

もっとも私もこの後に行った「愛知環状鉄道」は高蔵寺~瀬戸市間しか乗っていません。自分自身、少し気が引けています。でもせめて乗って集めようとは心に誓っています。

さて津駅を10:40に出る松阪発の急行名古屋行きは江戸橋を出たところで「ひのとり」とすれ違い。狙い通りとは言え、天候には勝てず。実は窓ガラスは水滴だらけでこれが精一杯。

近鉄四日市駅には11:09着。用事を済ませて11:28発の急行で近鉄名古屋へ。(12:04着)

お昼はお約束の住よしのきしめん(玉子入りかき揚げ)。因みに私は5・6番線専門で、しかもこればかり食べています。

そしてこの後は12:31発の普通電車多治見行きで高蔵寺駅へ向かいます。

(参考)

※鈴鹿駅~近鉄四日市間の最短コースは、鈴鹿~JR四日市~バスもしくは徒歩(15分強)で近鉄四日市。

また近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅まで歩き、そこから伊勢若松乗り換えで近鉄四日市という手もありますが、時間はそれなりにかかりそうです。

2020年07月08日 16時40分

今日は普通に新幹線。

今日もNPO法人名古屋レール・アーカイブスの定期展示会「走れ!夢の超特急」展が開催されている名古屋都市センター まちづくり広場(金山総合駅南口 金山南ビル11階)へ。ここまでは昨日と同じ文章。

ちょっと方向を変えて狙ってみました。

レンズは35ミリ換算で300ミリです。

激しくトリミングしてみる。これでN700Sなら最高なのですが、時間の都合でそうは上手く行きません。

ところで今日、名古屋都市センター まちづくり広場に出かけたのは、現物展示の補充。主にパネルに印刷した資料を並べてみました。で、並べつつもう一度資料を読み返す。思わず読み込んでしまう面白さ。

2020年07月07日 16時23分

今日のドクターイエロー

今日もNPO法人名古屋レール・アーカイブスの定期展示会「走れ!夢の超特急」展が開催されている名古屋都市センター まちづくり広場(金山総合駅南口 金山南ビル11階)へ。

会場からは少しだけ東海道新幹線が見えます。ということで13:24に下りドクターイエローが通過。

2020年06月20日 23時00分

県境をまたぐ移動自粛の解除。

県境をまたいでの移動の自粛が解除されました。

東海道新幹線の運転本数も戻ってきて、電光掲示板も「のぞみ」主体となっています。

写真は今日の午前10時ころの名古屋駅新幹線改札口。一見乗客がいなさそうですが、列車が到着するたびにそれなりの下車客はいました。ただその数は以前ほど多くはありません。そこで見かけたワンシーン。降りてきた若い男性を、同じく若い女性が待ち受けており、向かい合った2人がやがて肩寄せあって歩いていく姿は、喜びよりも切なさを感じてしまいました。

とりあえずの状況報告です。

2020年05月27日 23時12分

超特急ひかり号。

このブログのカテゴリーで「JR東海」を選ぶには少々無理があるかも知れません。

超特急ひかり号のブリキのおもちゃ。

東海道新幹線は昭和39年(1964年)の開業当時、「ひかり」号が超特急、「こだま」号が特急でした。

いつ頃作られたおもちゃかは分かりませんが、多分昭和40年代(1960年代後半)。

ゼンマイ仕掛けになっており、自分で走ります。オークションサイトでたまたま見つけ思わず購入。

2020年05月25日 22時28分

名古屋駅新幹線改札口

東海道新幹線改札口の案内表示。先週土曜日の撮影です。(写真提供:FN氏)

本数を減らしているので時間の間隔が開いています。

本来ここにあるべき18:41発「のぞみ243号」新大阪行きを始め運休列車が多くあります。

また「のぞみ55号」を見て欲しいのですが、のぞみの号数が2桁の列車は本来、博多行きで新大阪止まりではありません。

といったように、今どんなことが起きているかの記録をFN氏は通勤のついで等にされているのですが、それにしても本来の案内表示はほぼ「黄色」で埋まるのですが、黄色と赤色が同数というのは私には衝撃でした。

2020年04月26日 21時00分

不要不急という言葉。

不要不急という言葉ですが、鉄道の歴史に興味を持つ人間にとって遠い存在ではありません。

第二次世界大戦中、鉄道省(後の国鉄)であったり民営鉄道において、かなり多くの路線が「不要不急線」ということで休止され、他線への転用であったり金属供出のため線路が剥がされました。

この写真は紀勢本線(1959年以前は参宮線)阿漕駅から高茶屋駅方面を撮影したものですが、この阿漕~高茶屋間は戦争前は複線だったのが、不要不急線ということで単線化されました。

その後、複線に戻されることはなく今も単線のままですが、この区間が複線だった言う事は、鉄道の歴史に詳しい方に教えられ、その時は随分驚いたものです。

もっとも調べてみれば戦前の参宮線はかなりの区間が複線で、それだけ乗客が多かったということでしょうし、一方で戦争の激化で複線区間の「不要不急線」としての単線化は止むを得ない状況だったのはきっとその通りなのでしょう。

参考までに「Wikipedia」に記載の不要不急線の類型は下記のとおりです。

1)輸送量が小さく、撤去されても軍事輸送上影響の少ない路線

2)観光輸送などが主力の路線であり、軍事上重要度の低い路線

3)近接して並行路線があり、代替輸送が可能な路線

4)過剰設備となった複線の1線撤去による単線化

線路の配置を改めて見れば、成程かつて複線だったのかと得心が行きます。

この「不要不急」という言葉について、知人からその言葉がもとは鉄道用語という説があると聞き、今回ここに書いたのですが、戦時の不要不急線はかなりの路線がそのまま休止~廃止となっただけではなく、復活した路線もその後、廃止されたケースが多く見られます。

つまりそれが不要不急というものの実態なのでしょうが、今、自分自身の行動においての不要不急は何なのかが問われているのかも知れません。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!