2021年09月18日 22時14分
5月31日以来の名鉄国府宮駅界隈。
稲の生育具合を見に行きました。
今年の5月31日。この場所に初訪問。
そして、秋。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。
出掛けた9月16日の天気予報は晴れでしたが、残念ながら雲多し。しかも電車が来ると太陽は雲に隠れるという「あるある」話し。
どんな感じで撮影出来るかを探ってみる。
あと半月後かな?また来よう。
5月31日以来の名鉄国府宮駅界隈。
稲の生育具合を見に行きました。
今年の5月31日。この場所に初訪問。
そして、秋。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。
出掛けた9月16日の天気予報は晴れでしたが、残念ながら雲多し。しかも電車が来ると太陽は雲に隠れるという「あるある」話し。
どんな感じで撮影出来るかを探ってみる。
あと半月後かな?また来よう。
呼続駅から名鉄名古屋駅方面の電車に乗るとすぐに山崎川を渡ります。そしてそこに陸閘門ゲートといういささか耳慣れない設備があります。
(陸閘=りっこう。「りくこう」と読むこともあるようです。)
国土交通省関東地方整備局ウェブサイトから転載「陸閘とは、堤防を切って設けられた河川への出入り口を閉鎖する門のことで、洪水の時には陸閘が閉められ堤防 としての役割を果たします。」。つまりこの陸閘門ゲートは山崎側の水位が上がり、この線路を越えそうになると閉じられて、謂わば堤防となる設備です。
この写真では電車と直角方向にある青い鉄製の設備です。
踏切の向こう側に大きな柵(ゲート)が内蔵されていて、いざという時には、それが手前に向かって出てくるようになっています。もっとも柵と言っても大きな1枚の戸だと思ってください。
堤防との関係は何となく分かってもらえるでしょうか?以前、名古屋市役所の方からお聞きした話では、ここの陸閘門ゲートは、鉄道用では中部地方唯一との事でした。
当然のことながら対岸にも同じ設備があります。ところで実際に使われることはあるのでしょうか?そしてそもそも作られたきっかけは?
1959年(昭和34年)に襲来した伊勢湾台風。その時、この山崎川は堤防が決壊し、辺り一面は広範囲で床上浸水となりました。何故それを知っているかと言えば私の家(平屋)もその被害にあったからで、私の人生の一番古い(幼い頃の)記憶は、父が腰まで水に浸かりながら私を背負って近所の数階建ての社宅に避難したことです。
そしてその後、山崎川の堤防はコンクリート製の高くて頑丈なものになり、道路(橋)はそれに合わせて作り替えられたものの鉄道橋は簡単に嵩上げは出来ないため、このような陸閘門ゲートとなりました。
では実際に使われたことはあるのでしょうか?名古屋鉄道に勤務されていた方からは何度かあると聞きましたが、実際に閉じている陸閘門ゲートを、写真であっても見たことはありません。一度見たい物だと思っても、使用される状況を考えれば「近づいてはいけない」時なので、多分、一生見ることはないでしょう。
桜駅~呼続駅間にある旧東海道から安泰寺を結ぶ跨線橋。
桜駅方面からの電車。何かアクセントがあれば良いのですが…。
呼続駅。住宅街を行く!といった感じで如何でしょう。
呼続駅北側の山崎川の架かる鉄橋。水鳥かと思ったらカラスだったというオチ。
堀田駅方面からの高架を下る電車。
桜駅方面から呼続駅方面に坂を下る。手前の屋根は呼続駅舎。
手前にチラッと写るのは呼続駅のホーム。こんな感じもなかなかの好み。
名鉄名古屋駅方面行きのホーム越しに鳴海駅、知立駅方面行き電車を撮影。色々チャレンジ。
うだるような暑さか雨しか無かった今年の夏。ちょっと歩く気分になったので桜駅界隈からスタート。
たまには正面打ちも良かろうと挑戦してみる。実はこうした構図はあまり撮ったことがありません。
手持ちの望遠レンズで一番長玉にして狙ってみました。
結局これくらいの感じが私の好みです。
あまり見かけない花があったので、撮影してみた1枚。さすがにこれは無理がありますね。
ネットで調べたらマルバルコウという花に似ていました。
電車のスカート部分を写すのが狙いだったのでまずまず。ルドベキアという花かと思いますが、確証は無し。
この花の名前は私には手に負えませんでした。
ムラサキツメクサと覚しき花。
電車を撮っているのか花を撮っているのか分からない状況になってきました。散歩ということで少し脱線しています。おっと鉄道で脱線は縁起でもないですね。
名古屋鉄道では今年の3月15日から、特急車両を使用する急行列車2本の特別車が乗れるようになりました。
名鉄の公式HPでも3月5日付けで「一部の急行列車における特別車両券の発売について」というタイトルで出ており、そうなったんだとは知っていました。が、タイトルだけ見て中身を読んでいませんでした。
これは金山駅に掲載されていたその案内。新鵜沼駅6時00分発・6時16分発の急行2本が対象で、それぞれが豊川稲荷行き、河和行きであることを知りましたが、名古屋からそれぞれへの利用客のイメージがつかめないのは多分、私がその時間の電車に乗らないからでしょう。
それはそれとして豊川稲荷行きは新安城で特急豊橋行きに追い越されるので、この駅では特急車両の2本並びが日常的に見られる訳です。これは少し興味あり。
またこの掲示にある「急行列車」の文字。本来は「列車」であって「電車」ではないのですが、私自身、電化区間を走る列車はほぼ「電車」と言っており、こんな所で本来の用語を確認してしまいました。もっともこの「列車」があったからこの写真を撮ったのですが…。
昨日の続きです。
7月10日の記事で「小倉公園については、常滑市に小倉の地名を見つけたもののそこから先、不明。絵はがきになる位だからそれなりだっとは思うものの…。」とした小倉公園の謎が解けました。
1961年頃発行の名鉄電車沿線案内。
その中の美濃町線沿線をトリミング。そしてそこに小倉公園と長良峡があります。
「こくらこうえん」ではなく「おぐらこうえん」。場所は岐阜県美濃市。
絵はがきでは知多半島の名所の中にこの小倉公園があったので、知多半島を探していたのですが、よもやの岐阜県でした。そして写真の遠景の水辺は伊勢湾ではなく長良川。常滑市の「小倉」には高台を発見できなかったのですが、美濃市の小倉は航空写真で高台であることを確認。
また苦戦していたもう一つの「長良川下り」も見つけることが出来ました。
そしてもう一点、名古屋鉄道の絵はがきにもあった天竜下り。飯田線の全通を見込んだ紹介だと思っていましたが、名古屋~飯田間を結ぶ急行バスが1938年(昭和13年)に開業しており、その布石もあったのかも知れないと今、思い始めています。
但し、証拠となる資料が見つけられずあくまでも私見です。
Fさんに多謝。
この7月8日~10日で紹介した名古屋鉄道御乗車記念(の絵はがき)。
この件で昨日紹介させて頂いた岡崎市在住の地方史研究家/Fさんからアドバイスを頂きました。
名古屋鉄道の前身の一つである愛知電鉄の「御乗車記念絵葉書」。
絵はがきにあるのは聚楽園大仏、三河三弘法、熱田神宮、豊川稲荷、時志観音、鳳来寺、南知多、鳴海球場、新舞子海岸、岡崎公園、新箱根ドライブウェー、天竜下り。
愛知電鉄が名古屋鉄道となったのは1935年(昭和10年)。よってこの絵葉書はそれ以前の発行。ただ、豊橋駅は1943年(昭和18年)まで吉田駅を名乗っており、この絵はがきでは正式な駅名より一般市民の分かり易さを優先させたものと思われます。
河和線(当時は知多鉄道)の成岩~河和口間が開業したのは1932年(昭和7年)なので、この絵葉書はそれ以降の発行。
ただ要注意は、愛知電鉄が名古屋鉄道となったのは先に書いたとおりで昭和10年ですが、知多鉄道が名古屋鉄道に吸収されたのは1943年(昭和18年)の事です。
それはともかくここでの考察は、
1)一枚の絵はがきにいくつもの観光地が紹介されていること。
これは7月10日に紹介した絵はがきの再掲ですが、これまで私が見てきた絵はがきは1枚1箇所が一般的で、複数箇所の紹介があっても精々2~3箇所です。ということから名古屋鉄道の絵はがきは愛知電鉄の絵はがきのスタイルを踏襲したものと推察されます。
2)絵はがきに選ばれた場所は必ずしも同一エリアではない。
この写真は天竜下りですが、当時まだ飯田線は全通していません。大嵐駅 – 小和田駅間 (3.1 km) が延伸開業して現在の飯田線が全通したのは1937年(昭和12年)のことで、この絵はがきが発行されたと思われる昭和9年頃ではまだつぎはぎ状態で、豊橋からの観光には適していません。もっとも長野県飯田市の「天竜川下り」ではなく、今の「中部天竜」駅の近くでそれがあったのかも知れません。
また合わせて愛電沿線図に、「佐久間」の先に「中部」があることについても今は調べ切れていませんのでここまでとします。ところで何が言いたいかなのですが、どうやら愛電でも名鉄でも、1枚の絵はがきに紹介されているのが同一エリアで無い可能性があると言うことです。
名古屋鉄道の御乗車記念。「御乗車記念」ですから、乗った方に配布していたのでしょうか?それとも乗客に売っていたのでしょうか?
誰にでも配布とは考えにくいので、例えば特急の乗客だけとか?考えるのはこれ位にして次に進めましょう。
聚楽園大仏、豊川稲荷、新箱根ドライブ、天竜峡、岡崎公園、鳳来寺。
聚楽園大仏は1927年(昭和2年)に開眼供養。(参照;東海市観光HP)
新箱根ドライブを走るバス、レオ号は1934年(昭和9年)から運行開始。(参照;名古屋鉄道社史/1961年)
但し、いつまで走っていたかまでは不明。
南知多、新舞子海水浴場、内海海水浴場、長浦海水浴場、小倉公園、新舞子帝国大学水族館。
長浦海水浴場のタコ(鉄筋コンクリート製の「タコのターちゃん」)のオブジェは、1927年に作られた物。(参照;知多デジタルミュージアム デジタル写真館 ~知多の記憶~)
小倉公園については、常滑市に小倉の地名を見つけたもののそこから先、不明。絵はがきになる位だからそれなりだっとは思うものの…。
最後の砦は新舞子帝国大学水族館。東京大学の施設で、昭和11年8月、新舞子駅の西側に東洋一の水族館として開館したものだというところまでは分かりました。(参照;東大農学部の歴史HP)
ということで結局のところ1937年(昭和12年)以降であることは分かったような、そしてその先は分からないような頼りない歴史検証。
最後に私の結論は、昭和12年に名古屋で開催された名古屋汎太平洋平和博覧会(1937年(昭和12年)3月15日~5月31日)の輸送を、名古屋鉄道も担ったとのことでしたので、それと3400系の登場を合わせて発行、配布された物であろうと言うこと。
さてここから進むことは出来るのだろうか?
などなど堅い話はさておき、私自身は古い絵はがきを見て往時を偲ぶのがただただ好きなだけで、今回も楽しい時間を過ごすことが出来ました。
昨日の続き。
もう一度タトウを見てみましょう。
まず見開きの表側となる部分には銀の縁取りがあります。そのことから何かのタイミングで、力をいれて作った物では無いかと思われます。ただ名古屋鉄道の発足記念でないことだけは3400系の図案で断定できます。
1枚目の絵はがき。名古屋信貴山、渥美半島、天竜下り、河和口海水浴場、源義朝公御廟(愛知県美浜町)がありますが、当時はともかく今はメジャーではない所もあって時代は分からず。
鬼岩公園、日本ライン、入鹿遊園地、蘇水峡、犬山公園、蒲郡。ライン下りで何かないかと思いつつ、撮影時期を特定する物は見当たらず。
谷汲山、長良川鵜飼、金華山、中山七里、下呂温泉、長良川下り。
帆掛け船の長良川下りって「いつどこの話しよ?」。ネットで検索しても、それらしきものを発見できず。
下呂温泉の写真に写る鉄橋は間違いなく高山本線。区間としては下呂~禅昌寺間で、その区間は1931年(昭和6年)5月9日開業ですから、年代特定ならず。(続く)
今回、NPO法人名古屋レール・アーカイブスに寄贈を受けた絵はがきの紹介。
現在の名古屋鉄道が誕生(名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併)したのは1935年(昭和10年)8月1日。この絵はがきは当然ですがそれ以降の発行。
さてここから私の仕事として時代考証が始まります。
絵はがきのタトウ(包紙と言った方が分かり易いかな?正確には包紙とは違うようなのですが…)の右上の電車。
名鉄3400系電車。「いもむし」の愛称で親しまれた電車で、1937年(昭和12年)の登場。と言うことはそれ以降の発行となります。言葉が軽いですが、この絵はカッコいいですよね。
ここから更に絞っていくのですが、実は私も全く知らないというか、これまで手に入れた絵はがきには無かった施設が出てきました。ここから先はまた明日。