2021年01月25日 21時38分
名鉄の本笠寺~本星崎間。桜で知られた場所以外の捜索。これって大事ですよね。
急行豊川稲荷行き。
かつては「用水」だったと思われる水路。水鏡にならないかと挑戦したけど撃沈の1枚。
撮影できる場所が限られるので、皆さんに「おっ!」とか言ってもらえるどころか、残念な写真も紹介するこのブログでしかUP出来ない1枚。
撮影ポイントが出尽くした感がある名鉄沿線。新味はなくとも私にはどこもお初。
自転車鉄の旅は続く。
名鉄の本笠寺~本星崎間。桜で知られた場所以外の捜索。これって大事ですよね。
急行豊川稲荷行き。
かつては「用水」だったと思われる水路。水鏡にならないかと挑戦したけど撃沈の1枚。
撮影できる場所が限られるので、皆さんに「おっ!」とか言ってもらえるどころか、残念な写真も紹介するこのブログでしかUP出来ない1枚。
撮影ポイントが出尽くした感がある名鉄沿線。新味はなくとも私にはどこもお初。
自転車鉄の旅は続く。
1月18日は散歩鉄。運動がてらのついで鉄。で、日常の光景を記録。
13:38頃の名鉄大江駅南側の陸橋。
左が大江駅発13:37の急行新鵜沼発内海行き。右は大江駅着13:39、発13:48の普通知多半田発金山行き。
常滑線の日中の普通電車は上り下りとも大江駅で9~10分停車し、優等列車に先を譲っていることを初めて知りました。本線の普通電車もそうですが、緩急接続で名鉄名古屋と各駅との速達性は保たれていると思いますが、普通電車しか止まらない駅同士の所要時間は意外とかかる場合もあります。
13:43頃。中部国際空港発名鉄岐阜行き特急。
一応、線路のギラリ、車体のギラリの両狙い。狙っただけで結果は…。
13:46。大江駅発13:47の内海発新鵜沼行き。
これでこの場はギブアップ。撮影はまだまだ修行中なのでこれに懲りず色々挑戦してみようと思っています。
昨年末、12月25日(金)をもって、名鉄資料館閉館が閉館しました。
私は2度伺っています。
一度はプライベートで、一度は仕事です。
目を惹く展示と言うより、地味ながらも名鉄の歴史を探求できる資料も多く、じっくり時間をかけて「読み解く」必要のある資料館でした。
ところでこの2枚の画像ですが、「名鉄資料館閉館記念」入場券。
閉館記念のパンフレットではありません。
1枚目の画像の右下が入場券となっていました。
記念券らしからぬデザインですが、思わずこれって原価がいくらだろうとか思ってしまいました。紙質も良く、商売っ気のない記念券。2000枚の発行ですから全部売れても34万円。販売にかかる費用を考えると、名鉄からの資料館26年間のご愛顧へのお礼のように思えました。
今回、西枇杷島駅に出かけたことで、東海道本線をくぐるレンガのトンネルを見つけました。
西枇杷島駅を名鉄岐阜方から撮影しようと思い、駅の西側をぐるっと回って気付きました。
トンネルの高さは多分180センチ(位)。しっかりとした構造なのですが、一体いつからあるのでしょう?
名古屋電気鉄道津島線西枇杷島駅が出来たのは1914年(大正3年)1月なので、、、と書きつつ、それとの立体交差のため東海道本線が高架化されていたと言うことはないですね。
東海道本線がこの辺りで高架っぽくなっているのは、すぐ南側の庄内川を渡るために徐々に高度を上げていたと考えるのが妥当で、ただ線路下を東西に結ぶこの(歩行者用)トンネルがいつからあるかはネットで検索しても分かりませんでした。
このレンガのトンネルの来歴もいつかは調べようと心に誓った次第。
名古屋鉄道名古屋本線西枇杷島駅。
名鉄の駅の中で、もっとも「昭和」を残していると言っても過言ではないでしょう。
改札外の待合室。電車の到着までホームに入れないこの駅故に残った遺物。
木の造り付けの椅子は名鉄ではもうここだけ?
波板ガラスという言い方で良いのかな?昭和の時代には見かけましたが今や、絶滅危惧種。
1949年(昭和24年)8月1日から恐らく何も変わっていない。これも無人駅となりしばらくすれば取り壊される?
令和3年1月15日まであと10日。昭和の息づかいを感じることが出来る日はあと少しです。
ところで今回の工事をする中で発見もあったようです。
こちらは上り(名鉄名古屋方面)ホーム。仮設で作られたホームの下が何だか階段っぽい。
こちらは下り(名鉄岐阜方面)ホーム。もっと階段っぽい。
この角度の方が分かり易いかも知れない。
西枇杷島駅は元々名古屋電気鉄道津島線の駅として1914年(大正3年)1月23日に開業。戦時中に休止した後、1949年(昭和24年)8月1日に多くの方が知っている今に繋がるデルタ線の駅として営業を再開しました。
※津島線はその後、枇杷島橋駅(今はありません) ~須ヶ口駅間が1941年(昭和16年)8月12日に「名岐線」となり、その「名岐線」は 1948年(昭和23年)5月16日に「名古屋本線」に名称変更しています。
今回この西枇杷島駅の歴史に触れたのはこの階段の歴史を紐解くため。
で、ここからは推察になるのですが、それは「開業時のホームの遺構」が発掘されたのでは…、ということ。開業時の西枇杷島駅は2両編成用のホームがあったとのことで、それを戦後の営業再開時に4両編成が停まれるように工事をしており、その際、階段を埋めてホームを伸ばしたというのが、この階段の存在を私に教えてくれた方の考察です。
かなりの確率で合っていそうだと私も思っています、
この地図は1915年(大正4年)1月1日発行の「名古屋附近交通地図」(発行:扶桑新聞)。今日のブログの投稿が、この地図にある「西枇杷島駅」が今に蘇ったという歴史浪漫であることを私は祈っています。
遮断機の手前にあるのがホーム(名鉄岐阜方面)に向かうための階段。線路から一番離れた所を歩いたにしても、電車にあまりにも近い。
また向こう側のホーム(名鉄名古屋方面)に渡るための構内踏切の遮断機は電車ギリギリの所に設置されています。
それゆえ停車する電車の到着時以外は、ホームに乗客が行くことは安全確保のため許されていません。ということで左側のホームには誰もいません。
自動改札機はいつでも使えるのですが、そこから先、ホームに向かう手前に遮断機あり。分かり易くするために次の写真をご覧下さい。
この一番手前の遮断機がそれ。
通常の運用としては、電車の到着数分前に、駅員さんから「乗車案内」がなされ、乗客はホームに向かいます。一方、電車到着時は降車客がホームからいなくなったことを毎度、駅員さんは確認しています。
この駅員さんは始発から終電までここで乗客の安全確保をされています。
今回、西枇杷島駅では追い越しが出来る施設を撤去し、ホームを広くする工事をしました。それによりホーム上の安全が一定レベル確保されることとなり、新駅舎を作り、合わせて(名実共の)無人化されることになったのです。
名鉄西枇杷島駅。
この1月16日(土)から新駅舎に変わります。
私の鉄道趣味にとってこれにどんな意味があるかと言えば、これまでの有人駅から無人駅になると言うこと。
いやっ、何というか西枇杷島駅は無人駅なんです。切符を売ったり、改札口で旅客扱いをする駅員さんはいません。
ではここに写っているのは誰だ?
実は運転業務を扱っている駅員さん。んっ?運転業務って何だ?
ホームの狭さを知ってもらおうかと思ったのですが、これでは少し分かりにくいですね。
これは昨年の2月19日に、JRの普通電車から撮影した西枇杷島駅。ホームの狭さは分かって頂けると思います。
先の写真のトリミング。ホームの上端に階段があり、そこから駅舎に向けて線路を渡るのですが、そこの狭さは本当に半端ないです。
(続く)
「常滑町全景」と題した絵はがき。昭和8年7月の印があり、恐らくその時点からそれほど前ではない時代の撮影ではないでしょうか?
常滑町とは今の常滑市ですが、イコールではありません。常滑市の誕生は1954年(昭和29年)で、当時の「昭和の大合併」による近隣の町村との合併の結果、「市」となりました。
一方、愛知電気鉄道(後の名古屋鉄道)が、今の常滑まで伸ばしたのは1913年(大正2年)。貨車が多いので、窯業の街、常滑からの出荷を担っていたのでしょう。
それにしても海が駅のすぐ際まであったのは想像が出来ませんでした。
でも私が一番気になったのは、真ん中の下にある資材置き場?らしき場所。線路が敷設されており、何となくトロッコ?気になる!