2021年05月21日 16時54分
通院のために地下鉄乗車。
網棚の上の広告スペースは空いたまま。
窓に付けられたステッカー。
この光景が思い出となる日が早く来るのを願うばかり。
通院のために地下鉄乗車。
網棚の上の広告スペースは空いたまま。
窓に付けられたステッカー。
この光景が思い出となる日が早く来るのを願うばかり。
名古屋市電車運転系統図の追記。普通の絵はがきでは見かけない「資料」としての価値。
ここにある乗車料は、当時の物価と比較していないのでその値段の“価値”が良く分かりませんが、系統図と一対と言えるでしょう。で、ここまでは納得。
こちらは各路線の延長。1923年(大正12年)頃の距離なのですが、区間と路線名と必ずしも合致していません。(詳細は略)
ただ運転系統から見ると「そうだよね」という事はありますが、一般の乗客からして、これって必要な情報かどうなのかはよく分かりません。
更に言えばこの車両数と定員数。散水車が4両あると言うことは、未舗装の道路区間がそれなりにあったと言うことでしょう。
ただ「趣味的には面白い」と思いもののやはり一般の乗客に必要な情報かどうかちょっと、、、。
なお当時のことをもっと知りたい方は、下記で調べることが出来ます。
【国会図書館 「市営十年」(昭和8年.名古屋市電気局発行)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210924】
ところでこの絵はがき(なのですが、その呼び方には多少の違和感あり)が、左下が欠けているにも関わらず入手したのは、資料性があると判断したから。
その一つが山口町線「赤塚町」~「平田町(へいでんちょう)」間が単独運転になっていること。
名古屋市営化後、1926年(大正15年)4月改正まで山口町線に線内で完結する「平田町」~「 赤塚町」間の系統があったことは「市営十年」(昭和8年.名古屋市電気局発行)に記載されているのですが、それを改めて確認した次第。公的資料があるとは言え、わずか0.5キロでの折り返し運転に「はてな?」が付くのは人情というものではないでょうか。
「名古屋市電車」という多分、今では使わないであろう言葉。当時は「名古屋市電」の「電車」ではなく、「名古屋市の電車」ということでそう呼んでいたのでしょうか。
1922年(大正11年)8月1日に名古屋電気鉄道の軌道事業を名古屋市が買収し、名古屋市電気局による運営が始まりました。この運転系統図は恐らくその直後の発行ではないかと当たりを付け調査開始。
まず「市電未成線」に着目。大津町線「大津町」~「栄町」間の開業は1924年(大正13年)7月20日。
御黒門線「門前町」からの岩井町線の延長は、岩井町(この図では表示なし)までが1923年(大正12年)11月13日。
その先、下江川線「洲崎橋」~「日置橋」間に設置された「水主町(かこまち)」まで延伸したのは1923年(大正12年)12月22日 でした。
東郊線「小針」~「牛牧」、「高辻」~「滝子」間の開業は1923年(大正12年)1月25日。
高岳延長線「東新町」~「公園前」間の開業は1923年(大正12年)9月20日。
(参考)
中央本線を挟んで、当時未成線にもなっていなかった東郊線「公園前」~「小針」 間が繋がるのは1925年(大正14年)12月23日で、もう少し時代が下ります。
(発行年の特定)
以上の情報を元にすると、1923年(大正12年)1月25日から1923年(大正12年)9月20日の間であることが確定します。ふうっ。
名古屋市の東山動植物園。
そこにはかつてサフェージュ式を日本国内で初めて採用したモノレールがありました。
今も動物園の片隅に保存されています。
今日は、NPO法人名古屋レール・アーカイブスに寄贈された品の中の一つの紹介。
昭和30年代、40年代は飲食店を中心に、様々なところでマッチが配布されていました。これも間違いなくその一つ。1964年(昭和39年)の開業当時、このマッチはどこで配られれていたのでしょうか?ちょっと知りたい。
名古屋市営地下鉄の記念スタンプ。
昭和52年(1977年)3月18日、地下鉄3号線開通。「地下鉄3号線」とは、名古屋市民であってもその名に馴染みがない。
消印をよく見れば電車の形と区間で「鶴舞線」の最初の開業だ!とは分かりますが、鶴舞線はあくまでも「愛称」なので敢えて正式名称で「地下鉄3号線開通記念」消印としたような気がします。何故って言えば、鶴舞線は最初から鶴舞線の名前があったからです。
ところでここでの消印は3月19日の日付。恐らくこの郵便書簡を購入された方は、開業日の翌日にこれを手に入れたものと推察しています。
一方こちらの電車。一般的には「3000形」の方が通りが良いと思うのですが何故か3800型」。方向幕の「伏見」からすれば確かにこちらは「3800」番台。
数字の3801が読めるので敢えて形式名ではなく、個別の型番にしたのかな?
名古屋市交通局地下鉄東山線の電車の話。
私は2017年11月5日、地下鉄開業60周年記念イベントの一つ「ミュージックトレイン」 に乗車していました。(この写真は当日撮影)
そしてその後、「地下鉄開業60周年記念 特別列車運行中! 地下鉄開業60周年を記念して、東山線を走るN1000形1編成の高畑側先頭車両(N1615号車)車内に特別な装飾を施し、特別列車として運行しておりましたが、ご好評につき、当面の間、運行を継続することとなりました。ぜひご乗車ください。」というアナウンスが名古屋市交通局からあり、その時は「そうなんだ」とだけ思っていました。
ところが昨年末の12月31日、たまたま乗った電車がこの電車!何だか懐かしい友と出会った気分。
個人的にはこのデザイン、気に入っています。
※N1115編成の高畑側先頭車両(N1615号車)
窓を開けた地下鉄車内(写真は桜通線)。
すっかり日常風景となっています。
もっともそのせいか冬になり暖房が入っても車内が暑くありません。以前ならコートを脱いだりもしていましたが、今冬はその必要が無さそうです。
地下鉄名城線・名港線の可動式ホーム柵が徐々に増えています。
これは昨日の矢場町。栄・市役所方面の可動式ホーム柵は既に使われていますが、金山方面はこれから供用開始となります。来年の3月までに全駅の設置完了とのことですが、まだまだ先だと思っていたのがもう随分、近くになってきました。
大学1年生の春休み。アルバイトと旅行に明け暮れる中、この日の直前に実家に戻りました。
61号系統の南の終点、名古屋市港区の昭和町電停。文字通りの最終電車は「市大病院」行きでした。
大江町電停。真っ直ぐ行けば熱田神宮前方面となりますが、同年の2月16日に廃止となっており、一見現役の路線に見えますが、全廃より一足先に電車が走らなくなっていました。
当時、実家のあった桜本町一丁目電停で下車。高校に通っていた頃は、ここから毎日乗って市大病院に向かっていた(そこからバスに乗り換え)のですが、最終日は何と、市大病院行きから降りるという幕切れ。何せ市大病院まで乗っていっても戻ってくる電車はなく、それはそれとしてもバスで帰って来るという発想はありませんでした。今なら間違いなく最終電車の終点まで乗ったいったことでしょう。
葬式鉄と言う言葉はなく、この最終電車も混んではいても乗り切れないほどではなく、なんとも平和な時代でした。
最終日の最終電車の運行表。何故にこれがあるかと言えば、最終電車の運転士さんからもらった記憶あり。一番前に陣取っていたら「市電が好きか?」と聞かれ、「毎日、市電で学校に通っていました」と答えたら、「やるよ」と言われてもらったような、、、。
名古屋市交通局にこれが残っているかどうかは不明ですが、私にとってはとても大切な宝物です。10歳の時に桜本町に引っ越してきてそれから10年弱。学校だけではなく繁華街の栄も、叔母の家に行く時もいつも市電に乗っていました。いまだに鮮明な記憶にある名古屋市電。資料を整理しつつ思い出が蘇り、作業が進まない日々。