2020年05月14日 22時53分
2020年(令和2年)5月18日、三陸鉄道の田老(たろう)駅~摂待(せったい)駅間に新田老(しんたろう)駅が開業します。
それを祝って【5.18新田老駅開業記念!限定100セット】「オンラインさんてつ」を駅弁気分でおうちで楽しむセットをオンラインショップで注文していたところ、本日家に届きました。
5月18日の晩御飯はこれに決定!うちで鉄活、旅気分。
2020年(令和2年)5月18日、三陸鉄道の田老(たろう)駅~摂待(せったい)駅間に新田老(しんたろう)駅が開業します。
それを祝って【5.18新田老駅開業記念!限定100セット】「オンラインさんてつ」を駅弁気分でおうちで楽しむセットをオンラインショップで注文していたところ、本日家に届きました。
5月18日の晩御飯はこれに決定!うちで鉄活、旅気分。
豊橋鉄道の夏の風物詩、ビール電車。その電車の運行を今夏はしないという発表が出ました。
流石に現在の状況では致し方ないですね。何せ車内は間違いなく3密だからですが、今は未来に目を向けて、呑み仲間の皆さん、いつかまたお会いしましょう。
一方こちらは大井川鐡道。今月一杯、朝の3本の列車を除き、終日バスでの代行運転となりました。しかも昼間はそのバスも運転されないという極端な運転形態となります。
かつて岐阜県を走っていた北恵那鉄道はその末期、廃線までの数年間、昼間の運行をバス代行としていましたが、新型コロナウイルスの影響はそれよりも更に深刻であることは間違いありません。
私にとってこれまでの鉄道は主には趣味の対象でしたが、今は存続をかけ、各社が行っている施策から目が離せない状況です。公共交通が風前の灯となっているエリアは限りなくあります。特に民営のバス会社の経営の厳しさは察するに余りあります。
三陸鉄道。
旧JR山田線の宮古~釜石間が昨年3月に三陸鉄道リアス線として復活した時に、早々に乗りに行こうと思っていたもののなかなかチャンスに恵まれませんでした。
そこに今回の新型コロナウイルスの発生があり、いつ行けるかは全く分からない状況となっています。
そこでうちで出来る細やかな三鉄乗車気分。
夏に向けてサイダーのセット。
生きていればきっと三鉄に行ける日が来る。
今は昔。
かつては広告媒体としてマッチのラベルが使われていました。
例えば喫茶店などではマッチはほぼ置いてあり、その箱は概ねそのお店のオリジナルデザインでした。企業においてもそれは同様で、中京テレビでもかつてはそうしたマッチがありました。で、ここまで書くと「どうしてこんなにマッチが世間にあったのですか?」という声が聞こえてきそうです。その答は喫煙者がとても多かったということになるのですが、今と違って、全国どこでもいつでもタバコが吸える時代があったのです。
名鉄の広告。
名古屋市営地下鉄東山線の栄町~池下が開通したのは、1960年(昭和35年)のこと。
生命保険会社のマッチ。写真のぼかしの部分は個人名が書いてあり、保健勧誘時に「担当者名」を覚えてもらうためのツールの一つであったことは容易に想像がつきます。
いえてつ!=発見の日々。
かつて岡山県を走っていた同和鉱業片上鉄道の乗車券。記念乗車券とはいえ「うちわスタイル」はかなり珍しいはず。参考までに私が知っている「うちわスタイル」はこれだけです。ひょっとするとオンリーワン。
乗車券面もユニークですね。
この同和鉱業片上鉄道は、『片上鉄道保存会』の手で保存活動が行われています。もしその会がこの乗車券を所蔵していないならば、いつかは寄贈をしたいと考えています。
私は駅のスタンプをかつては積極的に押していました。もっともそれも20代の頃までで、熱心に押さなくなって早40年近くが経過しています。
そのスタンプはご覧のようにアルバムに整理して貼ってあり、今回、これを初めてスキャンしました。いえてつ!の一環です。
1972年3月に出かけた大糸線の旅。18歳の春。ではなく、浪人が決まった春でした。それはさておき「DISCOVER JAPAN」が懐かしいですね。
こんな写真を撮りつつ大糸線をいったり来たりしながらスタンプを押していました。
私は乗り鉄です。もともとはどこかに出かけるのが好きな子供でした。その後、大学生になり全国を旅しました。さていよいよ大学を卒業する段になり、改めて時刻表の路線図を見てみれば、全国津々浦々結構乗っていることに気づき、だったら日本中の鉄道路線を乗ってみようと決意したのは、就職直前の2月に入ってからでした。それは昭和52年のことで、乗り鉄のバイブルとも言える宮脇俊三さんが書かれた『時刻表2万キロ』(昭和53年刊)が世に出る前でかつ『いい旅チャレンジ20,000km』キャンペーンが始まったのが1980年(昭和55年)ですから時代を先取りしていたのかもしれません。
私の乗り鉄で一番残念なのは、そもそも全路線を乗ろうと思って旅をしていたわけではないので、『いい旅チャレンジ20,000km』のようなルールを自分に課していなかったこと。駅名標と自分が一緒に写るどころか、駅舎の写真も、ホームに停車中の列車の写真もほぼなし。あるのは私がつけていた乗車列車に関する記録ノートのみ。まあ趣味の世界なのでそこに嘘やごまかしは無いとはいえ、時計は逆には回ってくれません。
ところで全線完乗を達成したのは1980年(昭和55年)8月24日。キャンペーンの完乗ルールが発表されてからということもあり、それ故上記の「残念」に繋がるのでした。
さて今日は「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンのテーマソングのレコードを見つけたので、本格的な乗り鉄になったきっかけを書いてみました。
1974年(昭和49年)2月8日から25日まで北海道を旅していました。何でよりによって夏ではなく冬に行ったかと言えば、特段の考えがあったわけではなく、氷点下二桁の世界を体験したいとか流氷が見たいとか理由は多少あったりしたもののそれは取るに足らないものでした。
その後社会人となり、仕事やプライベートで渡道するようになって思ったことは、冬の北海道はどこに行っても白一色で、景色の代わり映えがしないこと夥しいと言うことでした。もっとも白い世界を2週間以上旅することは、時間にゆとりのある大学生ならではであって、冬の北海道では列車の運休や遅延は日常茶飯事だったのでまあ良い体験をしたとも言えます。
当時流行っていた途中下車印集め。その右下の方に…。
ありました。廃止された「新十津川」駅の途中下車印。この駅は1986年(昭和61年)に無人化されていますが、昭和49年当時は「乗り鉄」趣味が一般的ではなく、そもそも私自身が乗り鉄を始める前なのですが、この駅で下車したほんの数人の内、明らかに鉄道趣味者と覚しき人は私だけでした。
●札幌駅発13:08 627D 新十津川駅着15:34
駅員さんがいるということは入場券あり。「0367」の数字は裏面にある発行No.です。
この日、この後は駅近くを通る路線バスで滝川駅に抜けています。
●新十津川駅近くの橋本町発15:58 滝川駅前着16:13(国鉄バス沼田線)
JR東日本秋田支社のウェブサイトで、「そうだ!“家”で“鉄道”を楽しもう」「んだ!いえてつ!」を見つけました。
●ぬりえギャラリー
●動画ギャラリー
●ポスターギャラリー
●いえてつ!検定
以上の4コンテンツがあり、それぞれ担当者の工夫が生きていると思います。このブログからのリンクが貼ってtいませんので、詳しくはご自身で検索~アクセスをお願いします。
ということで私も家で、「んだ!いえてつ!」中。
一見古そうな感じですが、
新幹線が開業する4年前の1960年(昭和35年)の発行ですから相当な年代モノ。
何せ私が小学校に入った年の発行です。
その中の記事に、特急「つばめ」「こだま」で電話が使えるようになったという記事を見つけました。
因みに通話料。今の物価と比較すると、さすがに高いですね。
参考までに、100円では40~43キロ、300円では123~127キロ乗ることが出来ます。
今の運賃にしますと、100円=770円、300円=2310円。やはり高い!けどそっちに私が驚いたのではなく、昭和35年に列車内に公衆電話があったこと。もっとも一部の近鉄特急に公衆電話が設置されたのはそれよりも早かったはず。
不要不急という言葉ですが、鉄道の歴史に興味を持つ人間にとって遠い存在ではありません。
第二次世界大戦中、鉄道省(後の国鉄)であったり民営鉄道において、かなり多くの路線が「不要不急線」ということで休止され、他線への転用であったり金属供出のため線路が剥がされました。
この写真は紀勢本線(1959年以前は参宮線)阿漕駅から高茶屋駅方面を撮影したものですが、この阿漕~高茶屋間は戦争前は複線だったのが、不要不急線ということで単線化されました。
その後、複線に戻されることはなく今も単線のままですが、この区間が複線だった言う事は、鉄道の歴史に詳しい方に教えられ、その時は随分驚いたものです。
もっとも調べてみれば戦前の参宮線はかなりの区間が複線で、それだけ乗客が多かったということでしょうし、一方で戦争の激化で複線区間の「不要不急線」としての単線化は止むを得ない状況だったのはきっとその通りなのでしょう。
参考までに「Wikipedia」に記載の不要不急線の類型は下記のとおりです。
1)輸送量が小さく、撤去されても軍事輸送上影響の少ない路線
2)観光輸送などが主力の路線であり、軍事上重要度の低い路線
3)近接して並行路線があり、代替輸送が可能な路線
4)過剰設備となった複線の1線撤去による単線化
線路の配置を改めて見れば、成程かつて複線だったのかと得心が行きます。
この「不要不急」という言葉について、知人からその言葉がもとは鉄道用語という説があると聞き、今回ここに書いたのですが、戦時の不要不急線はかなりの路線がそのまま休止~廃止となっただけではなく、復活した路線もその後、廃止されたケースが多く見られます。
つまりそれが不要不急というものの実態なのでしょうが、今、自分自身の行動においての不要不急は何なのかが問われているのかも知れません。