2019年12月05日 19時59分
12月のインターネットラジオVoicy「野月・南田のエアトレインch.」はゲストあり。
気象予報士の藤富郷さん。現在、日本テレビ系で放送中の「スッキリ」の木・金担当で出演中です。
藤冨さんは大の鉄道ファン。主なジャンルとしては模型鉄。
この日、藤冨さんが録音会場に持ち込んできたのは…。
決して意外なものではないのですが、、、。
Voicy「野月・南田のエアトレインch.」でお聴きください。
12月のインターネットラジオVoicy「野月・南田のエアトレインch.」はゲストあり。
気象予報士の藤富郷さん。現在、日本テレビ系で放送中の「スッキリ」の木・金担当で出演中です。
藤冨さんは大の鉄道ファン。主なジャンルとしては模型鉄。
この日、藤冨さんが録音会場に持ち込んできたのは…。
決して意外なものではないのですが、、、。
Voicy「野月・南田のエアトレインch.」でお聴きください。
ナツメ社から「あつまれ子鉄!日本の鉄道路線図スーパーガイド」が出版されました。
まず内容はこどもたちを対象にした一冊であることは間違いありません。車両の解説なども子供の視点で分かり易く書かれています。
また路線図はディフォルメされていない実際の縮尺の地図となっています。これもポイントです。
駅名を含め、全ての漢字にルビが振ってあります。これで難読駅名を捜すのも良いかもしれません。逆に考えれば「駅名の読み方ってどうだったっけ?」とかを地図から調べることが出来ます。
ところでこの地図の矢印の部分をよく見て下さい。
つくばエクスプレスの線の形が途中で変わっています。これは交流と直流の違いを表しており、結構芸が細かい。これまでありそうで見たことがない直流・交流の種別が一目で分かる地図。
開通したばかりの相鉄新横浜線~東海道貨物線区間もちゃんとあります。しかも羽沢横浜国大駅を境に色が変わっていて、この駅でJRと私鉄が1本に繋がったことが確認できます。
保線車両の解説記事もあり、これが短い文章ながら意外と分かり易い。
ところでこの本の監修はSUPER BELL”Zの車掌DJ野月貴弘さん。中京テレビ製作のインターネットラジオVoicyの番組「野月・南田のエアトレインch.」のパーソナリティーでもあります。
ということは、これまで書いてきた内容紹介のような真っ当なモノだけでは終わりません。大きなおともだちの突っ込みどころがあったりして隅から隅まで目が離せません。
というような話を「野月・南田のエアトレインch.」でして盛り上がりました。
「野月・南田のエアトレインch.」https://voicy.jp/channel/798
カメラにおける世界のトップメーカーの一つであるニコン。そのニコンのカメラの歴史を展示する「ニコンミュージアム」が東京・品川にあります。
(住所)東京都港区港南2-15-3 品川インターシティC棟2F
(休館日)日曜日、祝日、および当館の定める日
(入館料)無料
これでもっか!というほどニコンのカメラが並んでいるのは壮観です。これがニコンミュージアムです。
そしてこのミュージアムの中にあるギャラリースペースで、企画展「鉄道の記録 1969–1976 名古屋レール・アーカイブス」が今日から始まりました。
展示パネル数は185枚。ニコンミュージアム史上最多だそうです。タイトルの通り、撮影時期はほぼ昭和40年代。撮影地は南は九州から北は北海道まで全国を網羅しています。また撮影に使われたカメラはニコンミュージアムだけあって全てニコンです。
ところでNPO法人名古屋レール・アーカイブス(以下、NRA)は、私も会員となっている鉄道に関する資料、写真等を収集し、公開している団体ですが、なぜ名古屋の団体の写真展が東京で行われることになったのでしょう?
ニコンミュージアムさんからの最初のアプローチは、「昭和40年代にニコンのカメラで撮影した鉄道写真はお持ちではないでしょうか?」「点数が揃えばそれで企画展を実施したい」でした。多くの方から写真の寄贈を受けているNRAなので、その時代の写真はあるものの、流石に撮影機材のリストはありません。さてどうしたものかと思ったものの、現役の会員さんに「昭和40年代にニコンのカメラで撮影していた方を大募集」と呼び掛けたところ、ドンピシャの写真が集まり、今回の開催に繋がりました。
おっと、何故「名古屋の団体なの?」ですね。実は法人でこうした活動を行っている団体が、東京にはありません。(趣味の任意団体はあります)
また鉄道系のNPOは他にもありますが、写真と資料収集だけを行っているのはどうもNRAだけのようです。調べが追い付いていない面もあるので、この件は「稲見調べ」とさせて下さい。
ということでこの会場で写真パネルの下に置いてあるこのカメラ、ニコマートFTN。私が使っていたカメラで、高校の入学祝に両親が買ってくれたものです。おかげさまで私の撮影した写真も展示されています。
もっともこの写真展を両親に見てもらえないのが残念でなりません。
※カメラは今回の展示用にニコンの方が整備されており、購入時の輝きが戻っています。(驚&嬉)
(おまけ)
写真はありませんが、この会場では昭和40年代の時刻表等々、全8冊を手にとってご覧いただくことも出来ます。何があるかは会場でのお楽しみ。
今日はバスのお話。
近鉄弥冨駅前には三重県桑名郡木曽岬町の自主運行バスが乗り入れています。
2路線あって、「中央線」は1時間にほぼ1本あり、利便性はまずまずではないでしょうか?
驚いたのはこちらのラッピングの無いバス。何とレンタカーでした。たまたまなのか、いつもこうして運行しているのかは不明ですが、どちらにしても住民の大切な足であることには変わりません。
話は集合場所の近鉄弥冨駅に戻ります。弥富市と言えば文鳥という事でこうした手持ち顔出しパネルあり。親しまれる鉄道を目指し、そして地元愛を前面に押し出すアイデア。
一方には文鳥+やはり弥冨と言えば金魚!と主張する看板あり!
最近、近鉄電車の名物広報マン/福原稔浩(ふくはらとしひろ)氏を中心とする仲間が協力し合い運営している「有志で巡る廃線跡シリーズ研究会」に参加させていただいています。会の趣旨は『歴史鉄が集まり、廃線跡をめぐり、歴史を知り、学び合って、知識を高める集いの場』で、一見ハードルが高そうですが、初心者でも楽しめるように工夫されており、毎度参加とはならないものの私の鉄活の定番の一つにしたいと思っています。
その会でこの9月23日(月)に「 近鉄名古屋線第1回 廃線跡散策&勉強会」を行いました。
午前中の廃線跡散策は、近鉄弥富駅を起点に旧木曽川橋梁まで歩くもので、近鉄、JRの車窓からも見えるこの橋なども間近に見ました。
※詳細な鉄道史の話は省きますが、近鉄名古屋線は、伊勢湾台風以前は狭軌(1067mm)の鉄道で、伊勢湾台風を契機に広軌(1435mm)化されており、この橋は狭軌時代に使われていたものです。
ところでこの橋の管理は今も近鉄が行っているとのことで、真ん中のブロックというか道路の上の部分の色が異なっているのは、定期的に点検を行い、道路を行き交う人や車に万が一にでも事故が起きないように補修を行っているからだそうです。
参考:この日、私たちが見た遺構は、11月9日(土)に開催の近鉄主催のハイキング『特別企画ハイキング・名鉄タイアップ企画(踏破賞対象)近鉄名古屋線改軌60周年記念ハイキング 近畿日本鉄道発展の礎を歩く(近鉄弥富駅~近鉄長島駅)』でも見られます。
午後は「伊勢湾台風と名古屋線」というテーマでの勉強会。福原さんと会の事務局の福田さん、そして近鉄OBで、伊勢湾台風が襲来したその年に就職された方から、台風被災からの復旧並びに広軌化工事について詳細な話をお聞きしました。
(以下、近鉄HPから転載)
名古屋線の広軌化を1958(昭和33)年9月から計画し、準備をすすめていたところ、1959(昭和34)年9月、伊勢湾台風により、名古屋線は甚大な被害を受けました。しかし、台風による水没区間復旧を機に、名古屋線80キロ標準軌化を一挙に(11月19日~27日)完工する大事業を完了し、62日間で全線復旧、広軌化を成し遂げました。
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近鉄名古屋線の広軌化は、木曽川に架かる橋梁など、重要な構造物が台風の襲来時点で既に出来上がっていたり、その他の準備でも終わっていたものもあったそうで、それもあって最終的に当時の佐伯社長が決断したとは聞いていました。ただ9月27日から11月27日まで鉄道を止めて代行バスを走らせていたのではなく、実は一部区間を除き狭軌のままで開通させ、その横で広軌化工事の準備を行い、最終的に上記の日程で一気に改軌をしています。
近鉄の社史等にはそれは書かれているとのことでしたが、勉強不足を改めて知らされた一瞬でした。
鉄道を止めない。鉄道マン一人、一人の気持ちが一つになって初めて成し得た大事業であったと改めて感じています。
またその根っこには佐伯社長の一言「罹災社員の救済は前例に関わらず徹底的にせよ」があったと聞きました。海外出張中だった佐伯社長からの、伊勢湾台風の報に接しての最初の電報は、「電車は動かせるのか」ではなくこれだったそうです。人があっての会社であり、その人が安心して暮らせることが会社の繁栄であるという信念があったのでしょう。
今年は近鉄名古屋線広軌化60周年の節目の年であり、それは名阪間を直通で結ぶ特急/ビスタカー2世の登場から60周年でもあります。伊勢湾台風が無くとも広軌化及び直通特急運転開始はつつがなく進んだものとは思います。
ただ被災した中で、復旧~運転再開と同時に広軌化工事をやり遂げたことは称賛に価すると私は思っています。
最後に一言。今回、弥富市内を歩いていて気になったのは、家の土台のかさ上げ具合。伊勢湾台風から暫くの間に建てられた家と、恐らく台風の記憶が薄れてから建てられた家(私の推測です)ではその差が歴然で、名古屋港で高潮対策が進んこともあるのでしょうが、地平から1m以上も盛土されたところに家が建っている理由を知る人は確実に減っていると思います。
参考:この広軌化工事の模様は半世紀前に制作された当時の工事記録映画「伸びゆく近鉄」として残されており、その全編がDVD「近鉄rail Go 2」に収録され、来月(10月)19日、20日に開催されます「きんてつ鉄道まつり2019in五位堂・高安」から発売が始まります。
個人的には是非ご覧いただきたいと思っています。最後の最後で佐伯社長が完成を祝う金の犬釘を打つシーンでは、私は思わず拍手をしてしまいました。
今から60年前の1959年(昭和34年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸した台風は全国的に大きな被害を出しましたが、特に伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が甚大で、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなりました。
ごく個人的な話ですが、当時の私は5歳で名古屋市瑞穂区に住んでおり、その日、山崎川の堤防が決壊したことから住んでいた家が床上浸水となり、更に水かさが増えることが予想されたことから父が胸まで水に浸かりながらも私を背負い、近所にあった(多分、4階建て)とある会社の寮に避難しました。
今から60年前の台風について、その避難だけは私の記憶にあり、父の背に負われている私の姿は、私の中にある生まれてから最初の記憶です。
その時、母が使っていたタンスには水の跡が残り、それはその後も現役で使われており、その高さからすると、当時の平屋の家でもしも避難していなかったとしたら、相当に危機的な状況となったであろうとは容易に想像がつきました。
テレビはまだ特別な存在で、当然私の家にはありませんでしたし、ラジオはあったもののどれほどの情報を提供していたのでしょうか?また伝達手段があったとして、「台風が来る」ということの備えはあまり出来なかったのではないかと思われます。そして水の中を避難するにしてもどこからその情報が伝えられ、どうして「避難」という判断をしたかを結局両親に聞く機会はありませんでした。
ただ台風の翌日から食料の調達が喫緊(きっきん)の課題で、母は水の被害が無かった方向に自転車を走らせ、そして開いている(片付けている)店を見つけたそうです。ただ財布を持ち出す余裕がなかった母はその時、現金を持っておらず、「銀行が開いたらお金を持ってくるので、野菜を売って欲しい」とお願いしたところ、そのお店の方はお金を受け取らず、またその後もお金を受け取ってもらえなかったそうです。
私の家はそんな状況でしたが、他の家の方たちはどうしていたのでしょう?水や電気などのインフラの復旧はどうだったのでしょう。
伊勢湾台風の被害と復旧について纏められた資料は数多くあります。これは国鉄中部支社が纏めた一冊。
死者の多くが名古屋市南部(南区・港区)に集中したこともあり、私の中でも「名古屋」の被災状況に目が向きがちでしたが、実際には、知多半島やこの写真にある弥冨駅(弥富市)周辺でも多くの方が亡くなっています。
水に洗われる線路が痛々しいですが、この水は暫くの間引くことはありませんでした。
長野県でも被害が甚大だたことが伺えます。
宙ぶらりんの線路の写真が福井県であることは驚きでした。
鉄道の復旧作業は、水が引く前から始まっていたことを知る人は、それほど多くはないと思います。私もこの写真を見るまでそうした事実を知りませんでしたし、この1枚が私に与えた衝撃は、ここに表現する言葉が見つからないほどで、それは今後も軽々に語れないと思っています。