東日本大震災から10年が経ちました。
宮城県南三陸町防災対策庁舎。(2031年まで宮城県が維持・管理)
2013年9月27日、地元の新聞社の協力を得て被災地で地元の方々の話を聞いていました。

この地の住所は宮城県本吉郡南三陸町志津川字塩入77。「塩入」というかってここに「津波」が来た事からついた地名の可能性があり、1995年(平成7年)の建設時には、町議会で高台に建設すべきではと反対する意見も出たが、県の補助金申請の期限があり、結局この建物の高さを超える津波は来ないであろうとこの地に建設されたそうです。
ところで南三陸町には縄文遺跡が多数あります。その遺跡は高台にあり、その場所はこの地震で津波に襲われることは無かったそうです。縄文人が津波の来ない高台に住居を構えたか、もしくは今ある遺跡が津波被害に遭わなかったことで現存しているかは定かではありませんが、実に示唆にとんだ事実と地元の方が話されていたのを今も思い出します。
当初の予想をはるかに越える高さの津波(当初6m、その後10m、実際には15.5m)が襲ったことが結果として被害を大きくしたのですが、それにしてもこの地に建設を容認した事への反省を口にする方がおられました。

石巻市立大川小学校。

児童ら84名が犠牲となりました。この小学校の出来事は「民事」裁判で最高裁まで行きましたが、結果原告の児童の保護者が勝訴しました。
この裁判の経緯は様々なメディア等で詳しく出ていますのでここでは割愛しますが、「山へ逃げよう」という児童の声をおさえた先生達(学校そして教育委員会)。その責任を問うことは、先生達も亡くなっていただけに、訴える側にとっても過酷な裁判でした。
ただ石巻市・石巻市議会の対応を含め、行政サイドは責任を取りたくないから責任を認めないとしか思えない対応で、原告の方は、「生き延びた子どもたちから聞いたことを教育委員会が(子どもの話は信用するに足らないとして)事実として認定せず、学校および教育委員会に責任はない」としたことで、「山に逃げよう」という子ども達の声が無かったことにされたことが裁判のきっかけとも話をされました。
その話を聞いた後、この裁判の行方を見ていたのですが、最終的に司法の判断が真っ当であり、これで原告の保護者の方達がやっと犠牲になった子ども達に報告出来るようになったであろうと思いました。

JR東日本石巻線女川駅。
2016年2月19日、2015年(平成27年)に高台移転で移設されたこの駅を訪問しています。

2013年9月28日の女川の町。震災から2年が過ぎていましたが、復興とはほど遠い状況でした。
3月11日は私にとり震災で起きた事、そしてその後どうなったかを思い出す日。それは「忘れない」ことが必ず来るであろう大震災への唯一の備えだと思うからです。