2021年05月13日 21時35分

絵はがきに見る鉄道史(51)豊橋名勝 停車場。

昨日紹介した「豊橋名所 豊橋停車場及ビ吉田駅」の続き。

豊橋停車場(駅)の真ん前に電車が停まっています。これは渥美電鉄(現在の豊橋鉄道渥美線)の電車でデテハ1000形。豊橋と田原を結ぶ渥美電鉄の路線が「豊橋駅前」に達したのは1927年(昭和2年)10月1日。ですので、この写真はそれ以降になります。

写っている電車、デテハ1000形は1926年(大正15年)に日本車輌製造で作られた電車なので、何れにしろそれでこの写真が撮影された時期が変わるものではありません。

また昨日の写真との比較ですが、今日の写真の真ん中、省線豊橋駅を出たところにある街灯が若干新しい感じもするので、この写真の方があとで撮影されたものと推察しています。

※なお向山公園聖積塔からは前記以上の情報は得られませんでした。

よって本日の結論は昭和初期とさせてください。

2021年05月12日 16時33分

絵はがきに見る鉄道史(50)昭和初期の豊橋駅。

「豊橋名所 豊橋停車場及ビ吉田駅」。

まず日本の鉄道における官庁の歴史を軽くおさらい。

●1871年(明治4年)工部省鉄道寮(のちの工部省鉄道局)

●1885年(明治18年)工部省が廃止され、内閣の直属に

●1897年(明治30年)現業部門は逓信省外局の鉄道作業局に分離

●1907年(明治40年)3月に帝国鉄道庁官制公布。同年4月1日に鉄道作業局を改組した帝国鉄道庁設置

●1908年(明治41年)鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道を新設

●1920年(大正9年)鉄道事業の権限強化・独立を目指して、鉄道省に昇格

ということで手前が「省線」の豊橋駅。今のJR東海/豊橋駅で、この駅名は1888年(明治21年)の開業当初から変わっていません。

奥の建物。豊川鉄道の「吉田駅」。

1897年(明治30年)豊川鉄道「豊橋駅」として開業。その後1899年(明治32年)に吉田駅と改称しています。

もっとも1943年(昭和18年)に豊川鉄道は国有化されたため、その時点で「豊橋駅」の名前に戻りました。

さて時代考証。吉田駅は大正末頃に改築されて写真の形になったということで、駅前の自動車からも察するに、昭和に変わった頃ではないかと思っています。

なお愛知電気鉄道豊橋線(現在の名古屋鉄道名古屋本線)は自社の線路ではなく、1927年(昭和2年)、豊川鉄道の線路を借りて吉田駅に乗り入れを開始しています。よってこの写真の駅舎から名古屋方面に向かったことは間違いありません。

2021年05月11日 12時25分

続々 絵はがきに見る鉄道史(49)名古屋市電車運転系統図。

名古屋市電車運転系統図の追記。普通の絵はがきでは見かけない「資料」としての価値。

ここにある乗車料は、当時の物価と比較していないのでその値段の“価値”が良く分かりませんが、系統図と一対と言えるでしょう。で、ここまでは納得。

こちらは各路線の延長。1923年(大正12年)頃の距離なのですが、区間と路線名と必ずしも合致していません。(詳細は略)

ただ運転系統から見ると「そうだよね」という事はありますが、一般の乗客からして、これって必要な情報かどうなのかはよく分かりません。

更に言えばこの車両数と定員数。散水車が4両あると言うことは、未舗装の道路区間がそれなりにあったと言うことでしょう。

ただ「趣味的には面白い」と思いもののやはり一般の乗客に必要な情報かどうかちょっと、、、。

なお当時のことをもっと知りたい方は、下記で調べることが出来ます。

【国会図書館 「市営十年」(昭和8年.名古屋市電気局発行)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1210924】

 

2021年05月10日 11時06分

続 絵はがきに見る鉄道史(49)名古屋市電車運転系統図。

ところでこの絵はがき(なのですが、その呼び方には多少の違和感あり)が、左下が欠けているにも関わらず入手したのは、資料性があると判断したから。

その一つが山口町線「赤塚町」~「平田町(へいでんちょう)」間が単独運転になっていること。

名古屋市営化後、1926年(大正15年)4月改正まで山口町線に線内で完結する「平田町」~「 赤塚町」間の系統があったことは「市営十年」(昭和8年.名古屋市電気局発行)に記載されているのですが、それを改めて確認した次第。公的資料があるとは言え、わずか0.5キロでの折り返し運転に「はてな?」が付くのは人情というものではないでょうか。

2021年05月09日 11時06分

絵はがきに見る鉄道史(49)名古屋市電車運転系統図。

「名古屋市電車」という多分、今では使わないであろう言葉。当時は「名古屋市電」の「電車」ではなく、「名古屋市の電車」ということでそう呼んでいたのでしょうか。

1922年(大正11年)8月1日に名古屋電気鉄道の軌道事業を名古屋市が買収し、名古屋市電気局による運営が始まりました。この運転系統図は恐らくその直後の発行ではないかと当たりを付け調査開始。

 

まず「市電未成線」に着目。大津町線「大津町」~「栄町」間の開業は1924年(大正13年)7月20日。

御黒門線「門前町」からの岩井町線の延長は、岩井町(この図では表示なし)までが1923年(大正12年)11月13日。

その先、下江川線「洲崎橋」~「日置橋」間に設置された「水主町(かこまち)」まで延伸したのは1923年(大正12年)12月22日 でした。

東郊線「小針」~「牛牧」、「高辻」~「滝子」間の開業は1923年(大正12年)1月25日。

高岳延長線「東新町」~「公園前」間の開業は1923年(大正12年)9月20日。

(参考)

中央本線を挟んで、当時未成線にもなっていなかった東郊線「公園前」~「小針」 間が繋がるのは1925年(大正14年)12月23日で、もう少し時代が下ります。

(発行年の特定)

以上の情報を元にすると、1923年(大正12年)1月25日から1923年(大正12年)9月20日の間であることが確定します。ふうっ。

2021年05月08日 22時38分

絵はがきに見る鉄道史(48)二七八清征記念碑。

自宅での絵はがきスキャンからの紹介。

「名古屋名所 二七八清征記念碑」。2020年12月05日にUPした「絵はがきに見る鉄道史(37)名古屋市電が右側通行だった時代。」でも同じ場所の写真を使っています。

「熱田神宮参拝記念」の押印がありますので、観光客がこの絵はがきを購入したのは間違いないでしょう。

※電車の番号は179。

タイトルは前の写真と同じ「名古屋名所 二七八清征記念碑」。

※電車の番号は181。

電車の番号から類推すると何れも大正時代前半(1915年頃)では無いかと推察しています。

※二七八清征記念碑は1920年(大正9年)にこの場所から移転している。

ただ電柱の有無の違いがあり、下の写真の方が、若干時代が古いような気がします。

ところで両方の絵はがきに「名古屋名所」とありますが、この場所が当時の観光名所であったことは間違いなさそうです。何故かと言えば、同じ場所(碑+電車)の絵はがきはオークションサイトでかなり多く見ることが出来、実は珍しいものではありません。ではどの写真に入札するかですが、上の写真で言えば、写真に占める電車の大きさ。下の写真で言えば、まるで写真館で撮影した写真が如くの枠がついていることにあります。

2021年05月07日 11時16分

ふるさと銀河線りくべつ鉄道の運転体験。

唐突ですが、今日は表題のふるさと銀河線りくべつ鉄道の運転体験の話題。

写真は2011年7月11日の陸別駅。

この日、私は運転体験に参加していました。(Lコース)

はるばるやってきた甲斐があったと感動ものでした。

時代が下り2013年の5月10日。再びりくべつ鉄道で運転体験。(銀河コース)

2011年では陸別駅構内での運転体験(約500メートル)だったのが、陸別駅から1.6キロ 先の本線上を運転し、下勲祢別まで行けるようになったからです。

その後、運転体験区間は1.2キロ伸びていた(新銀河コース)のですが、今年から更に延長され、陸別駅から北見方へ5.7km先の旧分線駅まで、日本一長い運転体験区間となりました。(分線コース)

私の銀河コースまでの経験ではこのコースを運転する資格はありませんが、いつかはチャレンジしてみたいと思っています。

ハードルは6万円という料金ですが、諸々の経費を考えれば妥当と言えば妥当。コロナ禍が一段落したら地域の支援&鉄印帳の旅がてら足を伸ばそうと心に決めた今日です。

2021年05月06日 16時40分

阪急 梅田~十三間三複線開通50周年記念。

「梅田~十三間三複線開通50周年記念」のタオル。

こちらが左半分。

で、右半分。

以前ならコレクションであって使うことはなかったでしょうが、最近、このような実用品は積極的に使っています。だって使ってこそのタオルですから。

それはさておき梅田~十三間が三複線となったのはいつのことでしょう?それは1959年(昭和34年)2月18日のこと。つまりこのタオルが販売されたのは2009年で、阪急名物の三複線はすでに60年を越える歴史があるのです。

ということを今回、改めて認識しました。

参考までに三複線化当時の社名は京阪神急行電鉄で、正に私にとっての阪急の起点となっている時代です。

その後1973年(昭和48年)に今の社名である阪急電鉄となっており、こちらも既に50年近い歴史があることにただただ驚き!!!もっとも阪急と阪神が経営統合し、阪急阪神ホールディングスが誕生したのが既に10年以上前の2006年(平成18年)で、もはや私の頭が追いつかない。私のつい「こないだ」は10年以上の歳月であることを改めて実感。

ということをこのタオルを使い始めて学びました。

2021年05月05日 18時07分

近畿日本鉄道 旅客運賃表。

1966年(昭和41年)1月20日改正。

どうして1月20日に改正したかは良く分かりませんが、新線の開業があったとか何かトピックな話題はあったということでは無さそうです。

一番安い運賃が20円の時代。名古屋から近鉄四日市までは130円。55年の歳月の経過を感じます。

2021年05月04日 17時10分

続 近畿日本鉄道案内図。

昨日UPしました「近畿日本鉄道案内図」。

近鉄の歴史をフィールドワークで探究している知人から思わずご教示がありました。それは…。

近鉄ではなく名鉄。

名古屋駅の北側にある「枇杷島橋駅」がその鍵。枇杷島橋駅があったのは1912年(大正元年)8月6日から1949年(昭和24年)7月31日の間。

そうすると信貴線の東高安駅がもとの「信貴山口駅」から改称したのは1948年(昭和23年)7月1日なので、この地図が作られたのは、表記されているものが全て正しいとした場合、1948年(昭和23年)7月1日から1949年(昭和24年)7月31日の約1年の間となります。

本来こうした発行年の無い印刷物、写真等の時代考証は、対象物を隅から隅まで俯瞰しつつ、敢えて重箱の隅を楊枝でほじくる着眼点が必要かと思います。そんな基本を今回、私はすっ飛ばしており深く反省!

ではありますが、こうした作業は面白いと思ってやっています。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!