2021年02月23日 22時04分
JR武豊線が開通したのは1886年(明治19年)3月1日。その100年後、半田郵便局発行のこの記念発行物にあるように「武豊線開通100年記念展」が開催されたようです。
日付が7月19日なので調べてみたら、半田市立博物館でこの企画展が開催されていたという情報が出てきました。(あくまでもネットでの情報です)
開通当時の半田駅。今と大きく変わった感じがしないのは気のせいでしょうか?
JR武豊線が開通したのは1886年(明治19年)3月1日。その100年後、半田郵便局発行のこの記念発行物にあるように「武豊線開通100年記念展」が開催されたようです。
日付が7月19日なので調べてみたら、半田市立博物館でこの企画展が開催されていたという情報が出てきました。(あくまでもネットでの情報です)
開通当時の半田駅。今と大きく変わった感じがしないのは気のせいでしょうか?
この地方の記念スタンプ。
1988年(昭和63年)1月31日。それまでのJR東海/岡多線(岡崎~新豊田)が廃止され、愛知環状鉄道が開業しました。なおかつこの日は新豊田~高蔵寺間が延伸開業した日でもあります。豊田郵便局の消印あり。
地下鉄桜通線の今池~野並間の延長は1994年(平成6年)3月30日。「名古屋市南区内地下鉄開通」という消印の文字に地元の喜びを感じました。
鉄道と道路の併用橋だった「犬山橋」。そこに道路橋が新設されてそれまでの犬山橋が鉄道専用となったのは2000年(平成12年)3月28日。消印の「ツインブリッジ」は道路橋の愛称だそうです。また郵便局名が「各務原東」となっていますが、愛知県側の郵便局で同様の発行があったかまでは分かっていません。1つ残念なのは名鉄電車の車両がないこと。もっともこの記念の消印は「道路橋」が主体なので、それは無い物ねだりでしょう。
毎月第3土曜日開講の鉄道模型講座。
ここからのスタート。
実は先回の課題の駅舎問題(と書くほどのことも無いのですが…)は途中で挫折しており、来月までの宿題として先延ばし。
もう一度先生の作品を確認。
紙の重ね合わせをチェック。私に出来るかな?
六十の手習いという言葉がありますが、私にとっては六十七の手習い。
この日までにカットした紙はあったのですが、私の紙の選択がアウト(自分ではそこそこの厚紙と思っていたが…)で、更に分厚い紙でやり直すことにした次第。
さてこの日の作業。まず真ん中の白い部分。
カットしたまでは良かったのですが、そもそもでこぼこな上に奥に向かって削り過ぎていたので、それを粘土で埋めて補修。「何とかなる」「何とかする」のが、ジオラマ造りの基本の一つだそうです。
若干テクニックに走っているきらいはありますが、それも教えてもらいつつ成長する私。(自画自賛)
そして手前の線路を土台に貼付け。その外側にある白いラインの秘密は…。また次回。
以前、鉄道郵便局という鉄道郵便を扱う郵便局がありました。
明治時代に始まり、1986年(昭和61年)にその歴史を閉じました。
その直前、1986年9月25日から9月30日まで「さようなら鉄道郵便局展」という催しが名古屋であったようで、これはその時の記念スタンプと思われます。
イベント名が「さようなら」で、消印が「さよなら」である理由は私には分かりません。
一方こちらは記念切手。
切手の発行年が1987、昭和62年となっており、かつ消印の日付が62年3月30日ですので、明らかに廃止後しばらくたってからの発行です。
いずれにしろ鉄道史の一コマであり、しかも郵便物が鉄道で運ばれていた時代の最後の貴重な資料です。
東海道電化完成記念郵便切手。
1956年(昭和31年)11月19日発行。電化にあたり、最後まで非電化だったのは米原~京都間。
EF58が牽く特急「つばめ」「はと」。当時の日本最高峰の列車です。
こうして書いていて思ったのは記念切手が発売されるという事は、やはりそれがその時代を象徴するような出来事であったという事。今、書きながら鉄道史をおさらいしている気分です。
NPO法人名古屋レール・アーカイブスに寄贈された切手と消印。
こうしたファイルに整理しています。
北陸トンネル開通記念。
北陸トンネルは1962年(昭和37年)6月10日、北陸本線の敦賀~南今庄駅間に開通しました。全長13,870 メートルは当時、日本で最長のトンネルで、今も地上にある狭軌トンネルでは日本最長です。
消印はED70形交流電気機関車。
切手のキハ82は大阪~青森、上野を結んだ特急「白鳥」。どちらも北陸本線の歴史の生き証人。
国鉄七尾線。1935年(昭和10年)7月30日、津端~輪島間の全線が開通。
1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道が継承。
その後、1991年(平成3年)9月1日に和倉温泉駅 ~輪島駅間がのと鉄道に経営移管され、2001年(平成13年)4月1日 に穴水 – 輪島間が廃止されました。
輪島郵趣会発行で、廃線でも第三セクター化でもないので、ここまでに紹介してきたローカル線の三セク化とは趣が異なります。
使用されている「さようなら鉄道郵便」の切手は同年の1987年3月26日の発行。タイムリーと言えばタイムリーな切手です。
中面はこんな感じ。数字の枠が並んでいますが、恐らくそこにその金額の切手を貼るようになっていたのではと推察しています。
昨日の続き。
「開業」あらば「さようなら」あり。
「さようなら国鉄明知線」、発行明知線沿線郵便局。
中を開くと「明知駅」の駅名標あり。あれっ?「明智駅」ではないの?
実は国鉄時代は「明知駅」だったのです。もっと言うと国鉄明知線開業時、明知は「明知町」でした。その後、町村合併で「明智町」となったのですが、「明知駅」が「明智駅」になることはなく、第三セクター「明知鉄道」の開業にともない、駅名は地名に合わせることとなりました。
そんな歴史の一端を感じるこのページ。
消印は「風景印」。恐らく特別なものというより、これまで使っていたものではないでしょうか?
そして、、、「▼キハ52型DL」はまあご愛敬と言うことで。
明知鉄道開業記念切手帳。
国鉄明知線が第三セクター明知鉄道として開業したのは1985年(昭和60年)11月16日。
ところでこの右上の消印の「串原」。今は岐阜県恵那市串原ですが、当時は恵那郡串原村。明知線の終点、明智駅のある恵那郡明智町(今は恵那市明智町)から更に南東方向に向かった人口1000人ほどの村で、東海3県の市町村を仕事でかなり回った私でさえ、この村に足を踏み入れた事はありません。
ところで岐阜市からこの村に向かうには明智経由が唯一の選択肢でしたので、この消印があるのは何も不思議ではありません。
ただ名古屋から串原に向かう際は、実際には豊田市経由で向かう事になります。私の知人に串原出身の方がおられ、『恵那市になったけど「恵那市」の中心地に行ったことが無い』と笑っておられました。