2020年10月12日 22時43分

絵はがきに見る鉄道史(22)伊勢の絵はがき。

一昨日UPした「伊勢神宮参拝御図絵」の続編。

1930年(昭和5年)10月7日の消印の絵はがき。

神都線の電車が停まっているのは山田駅前(後の伊勢市駅前)電停。右側の建物は「宇仁館」。こうやって見ると立派な建物で圧倒されます。

戦前にあって日本を代表する絵師、吉田初三郎にオリジナルの図絵を依頼する力があったというのは納得ですね。

「伊勢内宮電車停留所」。神都線の電車が「内宮前」まで到達したのは1914年(大正3年)。

さてこの絵はがきの年代特定です。写真右側の解説に「伊勢電車は山田駅前より外宮神苑前を左折し内宮及二見方面に至る、、、」とありますが、「内宮前」までの路線は神都線最後の開通区間であるため、まずは大正以降であることは確定。

写真に写っている電車がダブルルーフの単車でポール集電から考えると、開通からそれほど遠くない時期での撮影でしょう。

また1枚目の画像に写る電車との比較で、何となくですが大正時代というざっくりとした特定とさせて頂きます。

こちらは宛名面に昭和7年(1932年)12月6日の消印がある実際に使用された絵はがき。宛名面の文面が達筆すぎて私には内容が判読出来ませんでした。

さて左下の写真には「内宮前終点」の記載があり、上の写真と合わせて大正~昭和の内宮前の雰囲気が伝わってきます。

2020年10月10日 23時08分

絵はがきに見る鉄道史(21)伊勢神宮参拝御図絵。

伊勢神宮参拝御図絵。

伊勢神宮は日本の神道の中心地というだけではなく、戦前から日本でも有数の観光地でした。こうした図絵・絵はがきは相当の種類が出ており、恐らくそれを全て把握している人はいないのでは。とか思ったりしています。

鉄道省指定旅館宇仁館の発行。最初の画像で赤色の下地に黒文字が目に付きますが、全て宇仁館の施設です。

そこには朝熊山のケーブルカーもありますし、神都線(この図絵の頃は合同電気の時代。1944年(昭和19年)に三重交通となる)の路線も見えます。

さてこの図絵が描かれた時代ですが、参宮急行電鉄の線路が「山田」止まりでは無く、左の宇治山田まで続いています。よってこれが1931年(昭和6年)3月17日以降であることが確定します。で、先の画像にある朝熊登山鉄道は昭和19年に第2次世界大戦時の不要不急路線として営業休止となっていますが、時代の確定の役には立ちそうにありません。

絵はがきではなく図絵での出版が、この図絵に限らず一般的に何時頃まであったかは定か(私の調べという意味)ではありませんが、戦後まであったとは思えません。そこで私の結論ですが、ざっくり昭和10年前後とアバウトにさせてもらいます。

この図絵の裏面には営業案内があります。

そこで私の注目は著作権所有者。その名は「吉田初三郎」。鳥瞰図で名をはせた絵師で、鳥瞰図の研究家もしくは愛好家であればまず知らない人はいないだろうと思える方です。

ポイントはその名前ではなく、住所。名古屋市外犬山町日本ライン蘇江。名古屋市そといぬやま町ではなく、名古屋市外の犬山町。はともかく、犬山をベースに仕事をしていたとは知りませんでした。

2020年10月09日 22時14分

絵はがきに見る鉄道史(20)大名古屋。

「大名古屋」という絵はがき集。名古屋に「大」と付けるのはまあ昔からあるのですが、個人的には少々気恥ずかしくならないでもない。

やはり外せない「熱田神宮」。

名古屋駅前。活気が溢れています。

地下鉄名古屋駅。今はホームと地下街の2層が一度に見られる風景は見られません。それでもこの風景は私の記憶の中に薄らと存在しています。

ところでこれらの写真はいつ撮影されたのでしょうか?

その手がかりが同封の名古屋観光案内図。ポイントは地下鉄東山線が「名古屋」~「東山公園」間であること。そして名城線がまだ開通していないこと。

池下が終点だった地下鉄東山線が東山公園まで伸びたのは1963年(昭和38年)4月1日。一方で名城線の栄町~市役所間が開通したのは1965年(昭和40年)10月15日。以上から撮影期間は1963年~1965年に絞られます。

そこから先は…。名古屋駅前の名鉄バスも市バスも、ボンネットバスの姿がほぼ見えません。年代特定の決定打はありませんが、1965年でほぼ間違いなかろうかと思っています。

2020年10月08日 21時11分

Go To トラベル 京都編(4)保津川下り。

12:25、嵯峨野観光鉄道トロッコ列車の終点、トロッコ亀岡駅到着。

さて列車を降りてどうしようか?亀岡から京都/嵯峨嵐山への「保津川下り」の船遊びをすることは決めていたのですが、お昼時でもあり乗船場に直接向かわず、とりあえず食事をすることとして山陰線亀岡駅までの電車に乗るべく、馬堀駅まで歩きます。

電車は2216M快速京都行き。馬堀駅は通過です。

馬堀駅から1駅電車に乗って亀岡駅へ。

それにしてもこの区間で1時間に3本も普通電車があるのは隔世の感あり。(昨日UPした蒸気機関車牽引時代の山陰本線では、昼間の普通列車はざっくり1時間に1本程度でした。)

14時頃に「保津川下り」の船に乗る。この写真の馬車は「トロッコ亀岡駅」と「保津川下り」乗船場を結んでいるものです。乗ってみたかったものの予約をしていなかったため諦めました。次回、チャンスがあれば乗ってみたいと思う乗り物好きな私です。こどもかっ!と言われても甘んじて受けます。

乗船してしばらくは緩やかな流れなのですが、それでも3人の船頭さん達の竿裁き、彼らの技の数々は見惚れます。

流れの急なところでは尚更。運動量も半端ありません。その操船技術は京都府亀岡市の無形文化財に指定されており、これは実際の竿裁きを見れば納得です。

トロッコ嵯峨駅を14:02発の嵯峨野/リッチ11号をお出迎え。列車と船でエールの交換。
14:38の撮影は287系の特急「きのさき9号」。嵯峨野観光鉄道トロッコ列車は保津川に沿って走りますが、現在の山陰本線はくねくねと流れる保津川を串刺しするかの如く直角に走ります。この場所は「保津峡」~「馬堀」間。列車は右から左に走っていますが、少し先に行けば今度は下り列車が左から右へと向かったりします。
1258M、亀岡発京都行き。写真の場所は「保津峡駅」で、川の上、鉄橋が駅となっており14:58に停車中~出発と出会えました。
トロッコ嵯峨駅15:02発の嵯峨野/リッチ13号。保津川橋梁を渡って行きます。ところで今回撮影出来たトロッコ列車は下り2本。上り列車は撮影出来ませんでした。それでも撮れただけでラッキー。それは山陰本線の列車も同様。
何せダイヤの無い船からの撮影。しかも保津川下りの所要時間は川の水量によって60分~110分と幅があり、それでも運を天に任せるとは正しくこの事です。(この日の所要時間は1時間35分でした)
もっともそもそも今回の川下りは鉄道の撮影が目的ではなく、単純に保津川の景観を楽しむのが目的であり、それは十分に堪能しました。
かくして「Go To トラベル 京都編」は終了。この後残りの「地域共通クーポン」を使ってお土産を購入。さて今回の旅、「Go To トラベル」が背中を押してくれたことは間違いありません。宿泊した旅館では女将さんや仲居さん、買い物で入った店であれば店員さんと会話をしました。コロナ禍の中であったからこそいつもより多く言葉を交わしたと思います。
おまけ。この写真は2009年5月4日の天竜舟下り(長野県)の船からの1枚。飯田線の列車は本数が少なく、謂わば奇跡の1枚。それにしても毎度やっていることは同じ。

2020年10月07日 21時02分

Go To トラベル 京都編(3)トロッコ保津峡駅。

「Go To トラベル地域共通クーポン」を利用しての嵯峨野観光鉄道トロッコ列車。

保津川を眼下に走ります。

トロッコ保津峡駅。たぬきさんのお出迎え。

なにゆえたぬきと思ったら、ちゃんと解説の看板あり。なるほどね。

昭和45年、西暦で1970年4月1日の保津峡駅。

嵯峨野観光鉄道トロッコ列車は、1989年(平成元年)に複線新線への切替のため廃線となった嵯峨駅 -~馬堀駅間の線路を使い、1991年(平成3年)に開業した観光路線。

当時、周りに人家も見当たらず、ほぼ信号所としか思えないたたずまいでしたが、その風景は抜群でした。ただこの日はこの後天候に恵まれず、早々に撤退した思い出あり。

2020年10月06日 22時41分

Go To トラベル 京都編(2)嵯峨野観光鉄道トロッコ列車。

「Go To トラベル」で京都に一泊。そうすると「Go To トラベル地域共通クーポン」の利用が出来るようになります。

嵯峨野観光鉄道でそれが使えるから乗るわけではありませんが、「トロッコ列車大人片道乗車券(630 円)+トロッコオリジナル商品のセット」で千円という「トラベル地域共通クーポン」を活用したプランがあったことが背中を押したことを否定しません。ということでトロッコ嵯峨駅。

トロッコ列車の乗車券を買うと、このお土産引換券が付いてきます。

売店で販売している商品。これがセットとなっており、乗車券と商品を別々で買うよりお得です。

出発前に「19世紀ホール」を見学。まず気になったのが「人車」。もっとも京都のこの辺りに人車はなかったはずで、鉄道の歴史の一コマとしての展示と思われます。

蒸気機関車の展示。

D51 603はカットモデルになっており、蒸気機関車の構造がよく分かります。

折り返し12:02発の嵯峨野/リッチ7号に乗車。

2020年10月05日 14時25分

Go To トラベル 京都編(1)名古屋~米原~近江八幡。

10月3日(土)~4日(日)の二日間、Go To トラベルを活用し、京都に行ってきました。

京都までの足はジパング倶楽部なので「こだま」号乗車。ジパング倶楽部は今年に入りやっと2回目の利用。新幹線に乗っての県境越えは2月28日以来。

N700Sでもこれば嬉しいのだけどそれほど世の中は甘くない。

コロナ禍が無くても空いている「こだま」自由席ですが、これほどなのは驚きです。

米原駅で下車し、在来線(琵琶湖線)に乗り換え。停車中の近江鉄道100形(101編成)にご挨拶。本当ならば2月に「近江の地酒電車」に乗り、この夏には「ビア電」に乗っていたはず。でもこればかりは致し方なし。

米原から大阪方面の新快速乗車。

「換気が必要な場合、開けることができます」っていうこのステッカー。窓を開けられること自体は車輌製造時まで遡る話なのですが、ステッカーが以前からなのか今回のコロナ禍によるものなのかは分かりませんでした。

以前からあったとしても、今回の事が無ければ気に留めることは無かったでしょう。

2020年10月04日 21時19分

絵はがきに見る鉄道史(20)昭和32年?頃の名古屋。

昭和の絵はがき3題。稲見方式の時代考証の流れを紹介。

名古屋市営地下鉄栄町駅地下ホーム。

1957年(昭和32年)11月15日、 名古屋で初めての地下鉄である1号線(現在の東山線)名古屋~栄町(今は「栄」)間2.4キロが開通しました。

ということからこの写真は、その開業記念で発行されたことは間違いないと思われ、また乗客の姿が全く見られないことから恐らく開通直前の撮影ではないかと私は推理しています。何れにしろ昭和32年発行と考えて良さそうです。

こちらは名古屋駅前。

2006年(平成18年)に竣工したミッドランドスクエアがあるのがここに写っている2つのビルの場所です。

左側の「毎日新聞」の看板があるのが「毎日ビル」。工事中のブロックを挟んで右側にあるのが豊田ビル。

毎日ビルは1953年(昭和28年)に竣工。豊田ビルは昭和30年に竣工。

その間にある建設中のビルは何かというと、毎日ビルの2期工事で、昭和33年(恐らく11月)の竣工です。この写真の撮影年代の特定はその毎日ビルの工事の進捗をどう捕らえるかによります。

※上記(恐らく11月)としたのは映画館を運営する「中日本興業」の会社案内に、「昭和33年11月旧毎日ビル(名古屋市中村区)内に1劇場を開館。」との記述があり、それを参考にしています。

ということで私の推理は昭和31年後半から昭和32年の始め頃の撮影。ただ地上に、地下鉄の乗り場方面への出入り口が完成していて、人がその辺りに結構いることからひょっとすると、、、と思い調べたところ、名古屋駅の地下街は1957年(昭和32年)3月18日の開業(名駅地下街サンロードのHP参照)であることから、丁度その頃の撮影が妥当であろうと考えました。

それにしても市電はともかく、バスの色が多い。名古屋市営バス以外にも多くの会社のバスが乗り入れていたことが分かります。

名古屋市の市営ボンネットバスは、1966年(昭和41年)2月に最後のバスが引退しています。さてここに写っているボンネットバスは、多分近鉄バス。恐らく日野BH15。1961年(昭和36年)式があるのは分かっていますが、そもそもBH15で正解かが今ひとつ。

そして私の推理はここまでで力尽きました。決定打がありません。後ろの乗用車で何か分からないかと思ったもののメーカー、車種の特定に至らず。まあ昭和30年代であるというのは問題なかろうとした次第。

2020年10月03日 9時46分

名古屋市南図書館 伊勢湾台風資料室企画展

名古屋市南図書館にある伊勢湾台風資料室では今、企画展「伊勢湾台風と交通~なにが絶たれ、なにがつないだか」を開催中です。

https://www.library.city.nagoya.jp/oshirase/topics_event/entries/20200927_01.html

伊勢湾台風時、名古屋市南区では1,417名の犠牲者を出しており、それゆえここ南図書館に伊勢湾台風資料室が置かれ、南区、名古屋市に限らず伊勢湾周辺の資料が広く集められています。(全国:死者4,764名、行方不明者213名)

今回の特別展はその中でも「交通」にまつわる写真の数々を公開しており、小規模ながら奥深い展示となっています。中でも近鉄が行った1067ミリから1435ミリへの改軌工事の写真は名古屋市在住の方が撮影されたもので、貴重な記録と感じました。

開催期間は今月15日(木)までで、休館日は月曜日です。

(私と伊勢湾台風)

私自身、伊勢湾台風では自宅(平屋)が床上浸水しており、その当時5歳だったにも関わらず、私を背負った父が腰まで水に浸かりながら避難したことは、今も記憶にあります。(私の人生にあり最初の記憶)

(追記)

上記開催期間について10月5日(月)まで「休館日は火曜日です。」と表記しておりました。

この件で拙ブログをご覧になった方から指摘を受けるまで私はミスに気付いておりませんでした。その方に感謝申し上げると共にお詫びして訂正いたします。

2020年10月02日 11時52分

絵はがきに見る鉄道史(19)市営十周年記念 大名古屋祭花電車。その3。

1933年(昭和8年)8月発行の「市庁舎竣工 市営十周年 記念 大名古屋祭花電車」の絵はがき。

花電車のどこを見ても資金提供者名が見つけられませんでした。当の名古屋市が作ったものかも知れません。

電車のセンターに構える武将は誰?その右側は愛馬?深まる謎。

電車だけかと思っていたら「花バス」の絵はがきもありました。ところで「花バス」と書きましたが、写真の左下に「大名古屋祭花自動車」の文字があり、当時「花バス」という言葉はまだ無かったのかも知れません。

さて昭和8年の絵はがきを見てきましたが、そもそも「花電車」「花自動車」っていつからあるの?という疑問にぶち当たりました。これが今回の宿題。私が会員のNPO法人名古屋レール・アーカイブスで何か資料が見つけられないか探してみます。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!