2020年08月02日 19時56分
この6月19日、滋賀県長浜市にある長浜旧駅舎が日本遺産に認定され、今、長浜鉄道スクエア(長浜旧駅舎、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館の3施設)ではそれを記念し、ミニタオルなどを配布しています。
日本遺産は以前、四国の「森林鉄道から日本一のゆずロードへ ─ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化─」を回ったことがあります。それは2017年(平成29年)5月28日(日)のこと。

この6月19日、滋賀県長浜市にある長浜旧駅舎が日本遺産に認定され、今、長浜鉄道スクエア(長浜旧駅舎、長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館の3施設)ではそれを記念し、ミニタオルなどを配布しています。
日本遺産は以前、四国の「森林鉄道から日本一のゆずロードへ ─ゆずが香り彩る南国土佐・中芸地域の景観と食文化─」を回ったことがあります。それは2017年(平成29年)5月28日(日)のこと。
本日、「御礼」と記された宅配便を受け取りました。
くま川鉄道復興祈願切符。
駅名を書いた場所に入場券を入れてみました。
入場券…190円×14駅=2660円
乗車券…340円
以上を足し合わせて3000円。
オマケの硬券。ウルッと来た。
ささやかな応援。私に出来ること。
昭和45年頃はまだ名古屋でも、関西本線で蒸気機関車が見られました。その基地は稲沢機関区。D51形が主力で、間近に見るとその大きさと力強さに心奪われました。
蒸気機関車と言えば扇形車庫と転車台(ターンテーブル)。
ところでこの時代、住所氏名を備え付けのノートに書けば入れてくれる機関区は結構ありました。ここ稲沢もその一つでしたが、勿論入れて頂くので、職員の方がいれば私から先の挨拶は欠かしませんでしたが、その方達も「どこから来た?」「気を付けて動けよ!」とか声を掛けてくれ、人と人との触れ合いがありました。蒸気機関車が消えてから、機関区に足を運ぶこともなくなり、その内に機関区は私たちのようなマニアの立ち入りは禁止になっていました。
入換で使われていた9600形蒸気機関車。10年ほど前に、たまたま蒸気機関車の機関士をされていた方とお話しする機会があったのですが、昭和40年代にあっても既に老体だったこの機関車ですが、本線での運転はともかく構内での使い勝手がよく、それで蒸気機関車の終焉まで生き延びることが出来たそうです。ご長寿さんにはやはり長生きする理由があるということを知りました。
C50形も昭和46年の稲沢機関区無煙化までここで活躍していました。名古屋界隈で客車を牽いていたかどうかまで調べきれませんでしたが、入換用としては最後の最後までここで暮らしていました。
今日の〆はやはり転車台。モノクロームがこれほど似合う被写体は蒸気機関車以外に考えられないと改めて思う、
1970年8月1日は随分精力的に回っています。いろいろな記憶が入り交じっているので定かではないものの、恐らくは夜行の「きそ」に乗り、深夜にどこかの駅(木曽福島?)で降りて撮影したものと思われます。
そしてその帰り道。
北恵那鉄道中津町駅。国鉄中央本線中津川駅の裏手にその駅はあり、結構な距離を歩いたはず。
この鉄道の廃止は1978年(昭和53年)9月18日。最後までこの雰囲気はそのままでした。
実際に北恵那鉄道に乗ったのは1978年の8月12日。廃線となる直前でした。
ところでこの写真を撮影した頃はまだ電車が一日中下付知駅まで走っていましたが、およそ1年の後、昼間はバス代行となり、乗り鉄には極めてハードルが高い鉄道になりました。
(追記)
北恵那鉄道廃止時に、私はカメラマンとしてこの鉄道を撮影しています。ニュースの企画ものの取材で、車内や沿線での走りを撮って周り、幸せと寂しさが入り交じった複雑な気持ちでした。
1970年、高校2年生の夏休み。
8月1日は中央本線に同級生と撮影に出かけています。
ここは中津川駅~落合川駅間の落合峠。貨物列車はD51の重連で運転されていた区間です。
さてキハ181系。大出力エンジンを積んだ勾配区間の特急専用で、1968年にここ中央本線の「しなの」号でデビューしました。もっとも私はここ中央本線で181系に乗った記憶がありません。非電化時代の中央本線はもっぱら急行に乗っており、会社勤めをする頃には181系の姿はここにはありませんでした。
多分、宮ノ越駅近く。D51重連が牽く貨物列車を狙って中央本線詣でをする撮り鉄(当時、撮り鉄と言う言葉はまだ無かったと思う)さんが結構いました。もっとも夏場は威勢の良い煙が期待できないこともあり、それほど人は多くなかった記憶です。
D51単機の貨物列車。のんびりと撮影しており、ひたすら穏やかな時間が流れていました。と言うのも高校生なので当然、歩き鉄。駅から延々と撮影地を目指して歩き、あとは列車の到着までボーっと待っているだけ。
もっとも私たちだけではなく、車で撮影に回っている人はまだ少数派でした。(これは断言できます)
昭和45年の明治村。
明治村で運転されている京都市電は、1910年(明治43年)から1911年(明治44年)にかけて作られた電車で、この時点で齢(よわい)60歳。今では100歳超のご長寿さん。
尾西鉄道の1号機関車。今と当時の違いは展示されている場所。
12号機関車は1874年(明治7年)にイギリスから輸入されました。今と当時の違いは、1974年(昭和49年)3月18日から動態保存、つまり動く機関車として再度命を吹き込まれたことです。齢(よわい)146歳。実際に動く車両としては日本では一番古いものです。
もっとも若い人は、この機関車がこの写真のように動かない、つまり静態展示されていたことの方が驚きかも知れません。
暫くの間、昭和40年代の鉄道をご覧頂きます。ということで今日は名古屋市電。
若い方には名古屋に市電があったことを知って頂き、年配の方には懐かしんで頂ければ幸いです。
ここは老松町の電停。100メートル通(若宮大通)の中央本線と名古屋高速都心環状線の丁度中間辺りです。電停があったのは東行きと西行きの真ん中で、鶴舞駅のほぼ北です。
私が好きだった名古屋の電車、1300形。武骨と言えば聞こえは良いですが、単にゴツゴツしていただけだったとも言えます。この電車に乗り、たいした速度でもないのに、右に左に思いっきり揺られていたのは今でもいい思い出です。
新栄町。地下鉄の新栄駅は錦通にありますが、ここはその一本南の広小路通との交差点。道幅が狭かったので、名古屋市内では珍しく安全地帯がありませんでした。
安全地帯がないのはこの写真の方が分かり易いですね。
1969年(昭和44年)10月26日。
京都。何故京都?分からない。お小遣いがあったとも思えない。かと言って親が一緒だったような気配も無し。
京福電車で人生初の流し撮り。まあ出来ているというより雰囲気。
地上時代の京阪四条駅。京都市電との平面交差があるのですが、それを撮っていない。
同じく地上時代の京阪三条駅。銀色の飾りバンパーのついた電車は当時は目を惹いた。当時の関西の電車では、京阪が一番好みだったと思うが、他社の電車には乗っていない。本格的に乗り鉄を始めるのはこの写真から5年の歳月が必要だった。
コロナ禍の中で、外出を控える日々が続き、家の中の鉄道写真の整理と資料の整理&減量に取り組んでいます。
1969年(昭和44年)9月30日の名古屋駅。関西本線名古屋口の蒸気機関車が牽く最後の旅客列車です。
美しく装飾されたその姿は、お召し列車を牽いた(その姿を私は見たことがありませんが…)機関車として、最後とは言えこの栄えある場所に立つに相応しいものでした。
リニア・鉄道館に展示されているC57139号機。(2011年3月7日、関係者向け公開にて撮影)
50年の月日を超えて、今もなお私の中でこの機関車が動く姿は生きていると言っても過言ではありません。
ところで今考えれば信じがたい場所での撮影。多分、あおなみ線のホームの辺りでしょうか?当時はそんな場所でも撮影ができましたが、もっとも普段でもOKだったかと言えば、それは分かりません。ただこの時は国鉄の関係者が回りで私たちの安全を確保されていたことは記憶にあります。
そしてこれらの写真が私の一眼レフ撮影の実質デビューでした。これ以前にも数回試し撮りをしていますが、慣れるのに必死で、撮っているというよりただシャッターを押していただけ。
さて撮影したこのカメラ。今もシャッターは軽快な音を立てて切ることができます。(写るかどうかは別です)
先日電池を替えたら露出計も動きました。フィルムでもう一度撮影してみようかなと思う日々です。
※一番上の写真は、リニア・鉄道館のC5739号機の解説で使って頂いています。(名義はNPO法人名古屋レール・アーカイブスで私の名前はありません)
東海道新幹線が開業した1964年(昭和39年)10月1日は木曜日。つまり平日。
最近のイベントは、日付よりは曜日優先で日程が決まっているような気もしますが、東海道新幹線は10月1日に拘ったのだと思います。
ということで当日(1964年10月1日)は夕刊があり、そのトップは勿論新幹線の開業。
そして7面にも記事があって大きく扱われたニュースではありますが、それでも1面から8面まで「新幹線」でぎっしりと言うことはなく、例えばこの紙面でも「新幹線」「オリンピック」「赤い羽根」が同等の扱いです。その辺りは新聞らしい紙面構成ですね。
また新聞ですので「広告」があるのですが、個人的にはそれも目を引きます。会場ではそれもお楽しみの一つです。
さて名古屋レール・アーカイブス資料展「走れ!夢の超特急~世界が認めたSHINKANSEN」ではこの新聞の現物を展示しています。鉄道愛好家の方から寄贈された資料を整理していてたまたま見つかったのですが、それも5月に入ってから(以前にもこのことを書いています)で、運命の神様が引き合わせたくれたと思っています。
そして読みやすさは別にして、敢えて本物の現物展示にしたのはこの時代がかった色が理由です。同じ記事を読むにしても、当時の紙の上の文字を見てもらうことで時代の流れも感じ取って欲しいと言うのが狙いの一つだったりもします。