最近、近鉄電車の名物広報マン/福原稔浩(ふくはらとしひろ)氏を中心とする仲間が協力し合い運営している「有志で巡る廃線跡シリーズ研究会」に参加させていただいています。会の趣旨は『歴史鉄が集まり、廃線跡をめぐり、歴史を知り、学び合って、知識を高める集いの場』で、一見ハードルが高そうですが、初心者でも楽しめるように工夫されており、毎度参加とはならないものの私の鉄活の定番の一つにしたいと思っています。
その会でこの9月23日(月)に「 近鉄名古屋線第1回 廃線跡散策&勉強会」を行いました。

午前中の廃線跡散策は、近鉄弥富駅を起点に旧木曽川橋梁まで歩くもので、近鉄、JRの車窓からも見えるこの橋なども間近に見ました。
※詳細な鉄道史の話は省きますが、近鉄名古屋線は、伊勢湾台風以前は狭軌(1067mm)の鉄道で、伊勢湾台風を契機に広軌(1435mm)化されており、この橋は狭軌時代に使われていたものです。
ところでこの橋の管理は今も近鉄が行っているとのことで、真ん中のブロックというか道路の上の部分の色が異なっているのは、定期的に点検を行い、道路を行き交う人や車に万が一にでも事故が起きないように補修を行っているからだそうです。
参考:この日、私たちが見た遺構は、11月9日(土)に開催の近鉄主催のハイキング『特別企画ハイキング・名鉄タイアップ企画(踏破賞対象)近鉄名古屋線改軌60周年記念ハイキング 近畿日本鉄道発展の礎を歩く(近鉄弥富駅~近鉄長島駅)』でも見られます。

午後は「伊勢湾台風と名古屋線」というテーマでの勉強会。福原さんと会の事務局の福田さん、そして近鉄OBで、伊勢湾台風が襲来したその年に就職された方から、台風被災からの復旧並びに広軌化工事について詳細な話をお聞きしました。
(以下、近鉄HPから転載)
名古屋線の広軌化を1958(昭和33)年9月から計画し、準備をすすめていたところ、1959(昭和34)年9月、伊勢湾台風により、名古屋線は甚大な被害を受けました。しかし、台風による水没区間復旧を機に、名古屋線80キロ標準軌化を一挙に(11月19日~27日)完工する大事業を完了し、62日間で全線復旧、広軌化を成し遂げました。
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近鉄名古屋線の広軌化は、木曽川に架かる橋梁など、重要な構造物が台風の襲来時点で既に出来上がっていたり、その他の準備でも終わっていたものもあったそうで、それもあって最終的に当時の佐伯社長が決断したとは聞いていました。ただ9月27日から11月27日まで鉄道を止めて代行バスを走らせていたのではなく、実は一部区間を除き狭軌のままで開通させ、その横で広軌化工事の準備を行い、最終的に上記の日程で一気に改軌をしています。
近鉄の社史等にはそれは書かれているとのことでしたが、勉強不足を改めて知らされた一瞬でした。
鉄道を止めない。鉄道マン一人、一人の気持ちが一つになって初めて成し得た大事業であったと改めて感じています。
またその根っこには佐伯社長の一言「罹災社員の救済は前例に関わらず徹底的にせよ」があったと聞きました。海外出張中だった佐伯社長からの、伊勢湾台風の報に接しての最初の電報は、「電車は動かせるのか」ではなくこれだったそうです。人があっての会社であり、その人が安心して暮らせることが会社の繁栄であるという信念があったのでしょう。
今年は近鉄名古屋線広軌化60周年の節目の年であり、それは名阪間を直通で結ぶ特急/ビスタカー2世の登場から60周年でもあります。伊勢湾台風が無くとも広軌化及び直通特急運転開始はつつがなく進んだものとは思います。
ただ被災した中で、復旧~運転再開と同時に広軌化工事をやり遂げたことは称賛に価すると私は思っています。
最後に一言。今回、弥富市内を歩いていて気になったのは、家の土台のかさ上げ具合。伊勢湾台風から暫くの間に建てられた家と、恐らく台風の記憶が薄れてから建てられた家(私の推測です)ではその差が歴然で、名古屋港で高潮対策が進んこともあるのでしょうが、地平から1m以上も盛土されたところに家が建っている理由を知る人は確実に減っていると思います。
参考:この広軌化工事の模様は半世紀前に制作された当時の工事記録映画「伸びゆく近鉄」として残されており、その全編がDVD「近鉄rail Go 2」に収録され、来月(10月)19日、20日に開催されます「きんてつ鉄道まつり2019in五位堂・高安」から発売が始まります。
個人的には是非ご覧いただきたいと思っています。最後の最後で佐伯社長が完成を祝う金の犬釘を打つシーンでは、私は思わず拍手をしてしまいました。