2019年09月26日 16時10分
今から60年前の1959年(昭和34年)9月26日、和歌山県潮岬に上陸した台風は全国的に大きな被害を出しましたが、特に伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が甚大で、「伊勢湾台風」と呼ばれることとなりました。
ごく個人的な話ですが、当時の私は5歳で名古屋市瑞穂区に住んでおり、その日、山崎川の堤防が決壊したことから住んでいた家が床上浸水となり、更に水かさが増えることが予想されたことから父が胸まで水に浸かりながらも私を背負い、近所にあった(多分、4階建て)とある会社の寮に避難しました。
今から60年前の台風について、その避難だけは私の記憶にあり、父の背に負われている私の姿は、私の中にある生まれてから最初の記憶です。
その時、母が使っていたタンスには水の跡が残り、それはその後も現役で使われており、その高さからすると、当時の平屋の家でもしも避難していなかったとしたら、相当に危機的な状況となったであろうとは容易に想像がつきました。
テレビはまだ特別な存在で、当然私の家にはありませんでしたし、ラジオはあったもののどれほどの情報を提供していたのでしょうか?また伝達手段があったとして、「台風が来る」ということの備えはあまり出来なかったのではないかと思われます。そして水の中を避難するにしてもどこからその情報が伝えられ、どうして「避難」という判断をしたかを結局両親に聞く機会はありませんでした。
ただ台風の翌日から食料の調達が喫緊(きっきん)の課題で、母は水の被害が無かった方向に自転車を走らせ、そして開いている(片付けている)店を見つけたそうです。ただ財布を持ち出す余裕がなかった母はその時、現金を持っておらず、「銀行が開いたらお金を持ってくるので、野菜を売って欲しい」とお願いしたところ、そのお店の方はお金を受け取らず、またその後もお金を受け取ってもらえなかったそうです。
私の家はそんな状況でしたが、他の家の方たちはどうしていたのでしょう?水や電気などのインフラの復旧はどうだったのでしょう。
伊勢湾台風の被害と復旧について纏められた資料は数多くあります。これは国鉄中部支社が纏めた一冊。
死者の多くが名古屋市南部(南区・港区)に集中したこともあり、私の中でも「名古屋」の被災状況に目が向きがちでしたが、実際には、知多半島やこの写真にある弥冨駅(弥富市)周辺でも多くの方が亡くなっています。
水に洗われる線路が痛々しいですが、この水は暫くの間引くことはありませんでした。
長野県でも被害が甚大だたことが伺えます。
宙ぶらりんの線路の写真が福井県であることは驚きでした。
鉄道の復旧作業は、水が引く前から始まっていたことを知る人は、それほど多くはないと思います。私もこの写真を見るまでそうした事実を知りませんでしたし、この1枚が私に与えた衝撃は、ここに表現する言葉が見つからないほどで、それは今後も軽々に語れないと思っています。