2010年05月17日 9時05分

シベリア鉄道 ロシア号の寝台車内

シベリア鉄道(ロシア号)に乗車する
外国人乗客は、原則、ハードクラス寝台車で
4人1部屋のコンパートメント。
(2等寝台車とお考え下さい)
2段ベッドが合い向かいになっており
トランクは下段のベッドの下に入れたり
していました。
それにしても室内は結構、狭いです。
車掌からコンパートメントの鍵を渡され、
仲間内が1部屋なら、鍵をかけて
食堂車に行くことも可能でした。

また、日本の寝台車では、
昼間はベッドを解体しますが
ロシア号の寝台はいつもこの状態。
シーツ&毛布の類は全線通しではなく
乗客が入れ替わるとその乗客用に新しいセットが
渡されていました。(まあ、当たり前ですが…)

日本人とロシア人が同室になることも多く
そうでなくても、ロシア人と仲良くなって
コンパートメントでの国際交流も
多くありました。

2010年05月16日 19時15分

三重県紀和町紀州鉱山 仕事中

珍しく(?)仕事中の私です。
この写真は、同行の取材スタッフが撮影してくれました。

注目してほしいのは取材用カメラです。
今時、民生用はデジタルカメラが当たり前で
記録媒体がDVDやHDD、メモリーカードという時代ですが、
昭和50年代前半の取材と言えば「フィルム」の時代。
使っているカメラは西ドイツ製(当時は東西分裂の時代)の
『アリフレックス』。
フィルムサイズは16ミリ。
タングステン光用ポジフィルムを日常的に使っており
屋外ではASA100を選択。
何故か、テレビの現場ではデイライト用の
フィルムはあまり使いませんでした。
このため色調整に「フィルターワーク」を要求され、
当然の事ながら「自動絞り」ということもあり得ず、
更にフィルムの交換は、ダークバッグにカメラを入れ
手探りで行うという
恐ろしいほどの緊張感の中で仕事をしていたと
記憶しています。
※ダークバッグ…カメラがすっぽり入る
 光を通さない袋とお考え下さい。

また、このカメラには音声を同時に録音する機能がなく、
音が必要な時は、オープンリールのテープレコーダーを
持って行ったものです。
今では映像と音を同時に撮るのが当たり前の時代ですが
こんな時代もあったのです。

2010年05月16日 7時05分

シベリア鉄道 ハバロフスク駅のドタバタ

ハバロフスク駅の構内で撮影した
たった一枚の写真がこれです。

何で?
13:09発のロシア号に乗るのに
再集合の時間が確か12:50だったと記憶していますが
待てど暮らせど戻らない乗客が2名いたのです。
*ハバロフスク駅の外国人乗客の
 案内人ははっきり言って怒ってました。
 当然です。
 因みに遅れたのは日本人でした。情けない。

13:00頃この2名が戻り
それから列車に向かうのですが、
重いトランクを引きずりながら
広い駅構内の地下道をダッシュで走り
やっとホームにたどり着き
乗車する号車まで案内され
とりあえず振り返って撮影したのがこの1枚。
直ぐに列車に乗り込み
自分の席に着くまでもなく
ロシア号は“定時”で出発しました。
(ああ、しんど…)

2010年05月15日 18時03分

三重県紀和町紀州鉱山 湯の口温泉駅

湯の口温泉駅の構内です。

この写真の選択のポイントは
「ポイント」です。
ズラッと並んだ手動転轍機。

「美しい!」と感じるのは私だけではないはずです。

この鉱山鉄道では、自動はもとよりスプリング式等の
転轍機ですら見かけませんでした。
旧国鉄でもこれだけ見事な光景は
記憶にありません。

湯の口温泉は今も「生きた」駅ですが
この姿はどうなっているのでしょうか?
多分、もう残っていないのでしょうね。

2010年05月15日 8時00分

シベリア鉄道 ハバロフスク駅

1991年10月5日(土)、
いよいよロシア号に乗車です。

ハバロフスク駅は、町の交通の拠点で
人の流れも多く賑やかでした。
真ん中にある「像」は「レーニン」像ではなく
地名の由来にもなった「ハバロフ」像と聞きました。

この駅には「外国人ツーリスト」専用の待合室があり
そこに集合し、乗車メンバーの確認が行われた後
再集合となりました。

写真はありませんが、トイレについて一言。
トイレは思ったより清潔でしたが
「大」の方はちょっとビックリ。
和式の便座と思っていただいてよいのですが
個室にドアが無く、代わりにカーテンがありました。
しかもそのカーテンは下まで無く、
ほんの少し隙間が開いているのです。

そもそもドアが無いとか個室の仕切りが無いとか
結構トイレの形態の経験値はあるつもりでしたが
カーテンは初めてでした。

2010年05月14日 20時37分

三重県紀和町紀州鉱山 小口谷駅鉱車

曖昧な記憶で申し訳ありませんが
多分、小口谷駅だと思います。

沢山の鉱車が並んでいますが
ほぼ全てに鉱石が積まれているのが
お分かり頂けますでしょうか?

閉山直前でも鉱山(やま)は生きていました。
実は、写真では1枚もないのですが
私は地下の坑道での作業も取材しており
これらの鉱車は、一両ずつエレベーターで
地上に運ばれていました。
※エレベーター!です。
 昭和53年4月30日に
 この話題を放送した時のフィルムが
 当社の映像ライブラリーで見つかり、
 それを確認しました。
 また、その当時の坑道は
 海抜0メートルよりも低いところだったと
 聞いた記憶もあります。

この写真は日本を代表する銅鉱山の宴の終焉まで
残すところあと僅かの最後の打ち上げ花火のような
一瞬だったのでしょうか?

2010年05月14日 8時00分

シベリア鉄道 日本を出発

1991年(平成3年)10月4日(金)
新潟空港からソ連/ハバロフスク行
アエロフロート812便に搭乗しました。

ハバロフスクからモスクワまで8531キロ、
シベリア鉄道「ロシア」号の
旅を楽しむためです。

機体はツポレフ154型。
機内は簡素で、シート間隔が非常に狭い上に
壊れかけた椅子もあったり、
食事も「機内食」という夢を根底から覆す
“質素”と言うのもはばかられる代物でしたが
この時はまだ食事ができることが
どれほどの幸せかということに
気付いていませんでした。
※機内食は、製造費の関係で、
 ハバロフスクで作ったものを
 往復分積み込んできているとのことでした。
サービスという感覚は全くなく
さすがソ連国営航空会社でした。

当時、個人手配でシベリア鉄道に乗ろうとした場合
ハバロフスクを起点にするのが一般的だったため
このルートとなったのですが
いきなりパンチを食らった気分でした。

2010年05月13日 19時19分

三重県紀和町紀州鉱山 惣房駅613号の雄姿

小さな機関車もこの角度で撮影すれば
「ご立派」に見えます。

613号は「日本輸送機器」という会社が
昭和37年に製造した機関車です。

軌道の間隔は確か610ミリ。
電圧は600ボルトと記憶しております。

3月1日にUPした
炭鉱鉄道「釧路コールマイン」同様
ここ紀州鉱山でも架線方式の機関車と
バッテリーロコもありましたが
板屋~惣房間の人車は
見た限り全て電気機関車が牽いていました。
参考までに、現在の観光用トロッコは
バッテリーが牽いています。

現在、この鉱山のあった場所に「紀和鉱山資料館」があります。
この鉱山鉄道に関する展示もあるので
興味のある方は一度お出かけください。

2010年05月13日 9時07分

シベリア鉄道 1991

1991年(平成3年)の秋、
私はシベリア鉄道に乗りました。

写真は、モスクワから357キロの
ダニロフ駅停車中の
「ウラジオストック」発「モスクワ」行『1』列車、
「ロシア」号です。
『1』列車と言えば、言うまでもなくその国を
代表する列車です。

先頭の機関車から最後尾の客車まで
多分、20両位連結されていました。
最後尾をこの写真で確認することはできません。
実は、先頭から列車全体を撮影した写真は
この1枚だけです。

明日から毎朝、シベリア鉄道の乗車記録を
UPします。しばし、お付き合いください。

なお、駅名と距離数は
「地球の歩き方 シベリア&シベリア鉄道の旅
 ’92~’93版」(ダイヤモンド社)を
参照しています。

2010年05月12日 18時34分

三重県紀和町紀州鉱山 惣房駅

鉱山鉄道人車が惣房駅到着です。

写真では分かりにくいですが、
パンタグラフはトンネル内では低く、
外に出ると高くなっていました。
パンタを揺らしながら“にょきにょき”と
伸びていく様はユーモラスでさえありました。

この鉄道は、ほとんど全線がトンネルで
駅のある部分と他にほんの一部が
地上に顔を出しているのみ。

因みに人車に電灯の類は無く、
トンネルを走っている間は真っ暗。
また車内は極端に狭いこともあり
体を七重八重に折りたたんで小さくし
乗車中はただひたすら『押し黙って我慢』という
状況でした。
トンネルでの唯一の灯りは、
電気機関車のほの暗いヘッドライトだけですが
それも人車内に届くことはありません。
もう一つ、とにかく走行音がデカい!
車内で隣の人との会話ですら
相当に困難だったことを思い出しました。

このままトンネルの中で列車が止まり
「一生出られないのでは?」という
恐怖と戦った数10分間でした。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!