2010年06月10日 18時08分

シベリア鉄道 ウラン・ウデ駅車両の点検

1991年10月7日、
ハバロフスクを出て3日目の
定時なら現地時間午前11時59分着のウラン・ウデ。
ハバロフスクから2884キロ
モスクワまで5647キロ地点です。

この駅は12分停車。
ここで鉄道マンが車体足回りの点検作業を黙々と
行っているのを見つけました。
台車周りを様々な角度からハンマーでたたき
カーンというその音の響きで具合を調べ上げていきます。

全線通しで9297キロのロシア号。
多分、私が気付かなかっただけで
他の駅でもこうした作業が
黙々と行われていたと思われます。

全世界共通ともいえる鉄道で働く人の
安全運転を支える心意気を感じました。

2010年06月10日 9時04分

シベリア鉄道 モゴチャ駅 日独共同作業

ハバロフスクから1601キロ、26時間58分。
昼下がり(現地時間14:48着)のモゴチャ駅です。

この駅で何をやっているかと言えば『窓ふき』。

乗車した時から気になっていたのですが
とにかく窓が汚い!
窓外の風景が滲んで見えた位です。

で、これが始まったのです。
肩車をしている男性とされている女性は日本人で
手前の男性はドイツ人です。

ロシア号では外国人は原則10号車と決まっていたようで
ドイツ人の10名ほどの団体と同じ車両でした。
列車の中では、風景を見ることしか本当にすることがなく
「窓を拭こう!」と話しがまとまったのです。

この後、イルクーツクからモスクワ行に乗車した時も
同乗のお客さんと窓拭きをしています。
※こちらは車掌さんからモップを借用しました。

これも今となっては良い思い出です。
といっても私は窓拭きをしておらず
「写真撮影」をしていました。
※この写真は帰国後、日本人2名には送り
 最終的に義務をちゃんと果たしました。

2010年06月09日 17時48分

シベリア鉄道 グッズ???

シベリア鉄道の車掌さんの帽子と
「ロシア号」のバッジです。

何れもロシア号の車掌さんから売込みがあり
購入しました。

本物は本物ですが、公式な販売物で無いことだけは確かで
払ったお金(ルーブルではなく米ドル!を要求された)は
車掌さん本人の懐に入ったものと思われます。

この車掌さんは、片言の英語(私よりも上手かった)を話し
それで商談をしました。
※本人写真もありますが掲載はご容赦ください。(笑)
確か32~33歳で、2~3歳の子供がいて
『生活が大変』と言っていた記憶があります。

私がロシア号に乗った当時(1991年10月)は、
ソ連崩壊(1991年12月)の直前で国内は大混乱しており、
シベリア地方では冬を越せず“餓死者がでる”のではと
日本でも報道されていました。

そんな中でも庶民たるロシア号の乗務員たちは
したたかに生きており、
ロシア号も時に遅れることはあっても
比較的定時に近い時間で走っていました。

2010年06月09日 9時05分

シベリア鉄道 乗車券

シベリア鉄道の乗車券です。

黄色の枠をつけた部分が列車番号。
栄光の『No.1』です。

緑色の枠内が『10号車 席番24』です。

笑ったのが赤い枠内で
『5191』と書いてあります。
何の数字かと言えば、
モスクワからイルクーツクまでの
距離数です。
※私のロシア号によるユーラシア大陸横断は
 1)ハバロフスク~イルクーツク(2泊3日)
 2)イルクーツク~モスクワ(3泊4日)
 の2回に分けており、
 イルクーツクでお風呂(シャワーですが…)に
 入るため一旦下車しています。
 そのため、この乗車券は後半戦のものです。

日本ではここまで細かい距離数を
記載した乗車券の記憶がないのですが
皆さんはいかがでしょうか?
また、今もロシアではこのパターンなのでしょうか?

ともあれ乗車券一つにもお国柄がありますね。
因みに、ハバロフスクからイルクーツクまでの
乗車券は私の手元にはありません。

2010年06月08日 18時31分

シベリア鉄道 キロポスト

かろうじて6030の数字が
読めますでしょうか?

シベリア鉄道のキロポスト(距離標)です。
※モスクワから6030キロ地点。

日本とは随分雰囲気が違いますね。

このキロポストと時計を使って
列車の時速を割り出したのですが
フルスピード時で
大体100キロちょいオーバー程度と思われました。

ただ、100キロの時は揺れがひどい…、
と思って窓から先頭車方向を見ていた時
ある事実に気がつき愕然としました。

そもそも路盤があまり良くないのか、
整備状況が良くないのか、
先頭の機関車が何故かある時、一瞬小さく沈むのです。
その後、1両づつ同じ場所で次々と沈み
最後に自分の乗った車両も瞬間沈みました。

道にちょっとした穴があり
車でそこを通り過ぎて「ガタン」となったと言えば
ご理解いただけるでしょうか?

サッカー・野球の試合のウェーブじゃあるまいし、
これだけは願い下げたいと思いました。
⇒日本なら間違いなく徐行運転だ!!

2010年06月08日 8時58分

シベリア鉄道 ロシア号快走中

シベリアの大地は想像を絶している!

ハバロフスクを出発し、3日目。
この写真には、
モグゾン(モスクワから6060キロ)から
ペトロフスキーザボード(モスクワから5750キロ)の間で
撮影というメモがありました。
実際にはこの間にもロシア号の停車駅(ヒロク)が
1駅あった訳ですし、そもそも310キロも距離のある
撮影ポイントメモは何だったのだろう。
名古屋起点で考えれば、東では小田原のはるか先、
西なら大阪を越えてさらに姫路を通り過ぎる距離です。

おそろしく大雑把ですいません。

で、ウラジオストック方面に向かう列車とのすれ違いですが
1991年当時、旅客列車はともかく貨物列車は
少なくとも10~30分に1回程度は
すれ違っていた記憶があります。
広大なソ連にあって、トラック輸送はとても現実的とは
思えず、冬は凍てついてしまう海もあてにならず
結局、鉄道が貨物の主役と思えました。

2010年06月07日 19時00分

シベリア鉄道 ロシア号寝台車上段

大変ご無沙汰のシベリア鉄道です。
(5月17日以来です)
*これまでの話しは、『カテゴリー』の
 『海外』でご確認ください。

お久しぶりにもかかわらずいきなり
むさ苦しい写真で申し訳ありません。
ロシア号ハードクラス寝台車の上段です。

ベッドの幅は問題なかったのですが
万が一の時にガードするものが何もない!

私の寝相の悪さは人後に落ちないものがあり
さすがに転落は避けたかった。
そこで洗濯用に持っていたロープを
写真のように張って
何とか緊急の事態に備えたのです。

で、これは役に立ったのでしょうか?
同室の日本人の方から、
「稲見さん、ロープに体が食い込んでいましたよ」と
言われたことが2~3度あり、
やはり、何事も『備えあれば憂いなし』と感じた次第です。

因みに、他のコンパートメントで
「ドサッ」という音を深夜に聞いたことがあるので
落ちた人がいたみたいです。
※この話しは作っていません。実話です。
 他にも聞いた人がいます。
 但し、上段とは限りませんが…。

今も、ロシアの寝台車はこんな風なのでしょうか?

2010年06月07日 9時08分

門司港レトロ観光線 ボランティアスタッフ

門司港レトロ観光線(やまぎんレトロライン)には
想像以上に多くの人が関わっていました。
その大半が地元を中心としたボランティアだそうです。

まず、途中駅を含め各駅に数人の『駅員』がいたり
車内も各車両に1名ずつの案内兼車掌(扉の開閉も担当)の
女性がおり、その他にも1名の男性車掌がいました。

正確に数えた訳ではありませんが、多分、
運転士を入れて20名以上の人がいたかと思います。

1編成の最大定員は立ち席をいれて100名で
多くの人が往復していたことを考えると
全列車満席の場合の1日の収入は次の計算式となります。
(往復500円×100名×14往復=70万円。)
春から秋の季節運転で、しかも土休日運転。
『門司港レトロ』全体への貢献も勘案する必要はありますが
決して安閑としていられる状況ではないことは分かります。

それでもこの鉄道が成り立っている大きな理由が、
スタッフの大半がボランティアであるということだと
思われます。

今のところ順調に推移しているようですが
『特定目的鉄道事業者』は“継続性”は問われないようなので
突然、見限られる事態が到来する可能性はあり得ます。

私はこの小さな機関車とトラの組み合わせが、
地元ボランティアとの協働でいつまでも長生きしてほしいと
切に願わずにはいられませんでした。

2010年06月06日 17時53分

門司港レトロ観光線 地ビールを楽しむ

オハフ33488の座席に座り
関門海峡を行き交う大小様々な船を見ながら
カフェで買った地ビールでノドを潤す。

ゆったりとした時間だけが静かに過ぎていきます。

クーっ、男のロマンですよね。

オハフは復元されたとは言っても
何点かは異なる部分があります。
カフェコーナーの設置もそうですが
ボックスシートの真ん中には写真でもわかるように
固定テーブルが置かれ
これは、一般の利用客には人気ですが
多分「鉄」にはさぞかし不人気のことと思います。

また、トイレ・洗面は使用できませんし、
以前は当然のようにあった灰皿もありません。

ともあれ、この写真をみていると心が「レトロ」モードで
一気に爆発しそうです。

2010年06月06日 9時00分

門司港レトロ観光線 オハフ33

関門海峡レトロ観光線「関門海峡めかり」駅に保存の客車は
『オハフ33 488』です。
昨年この地に来たのですが、その後大改修され
今年の3月に製造時の美しさを取り戻しました。

この写真で一番奥、出入り口の左上に2枚の銘板があります。
※写真では分からないと思いますが…。
その内の一枚には「鉄道省 小倉工場 昭和23年」とあり
この車両が昭和23年に製造は分かるのですが
『日本車輌』製なのに『鉄道省小倉工場』と
書いてあるのは何故?

もう一枚には
「更新修繕 門司港レトロ室 平成22年」とあり、
こちらは多分、
北九州市産業経済局門司港レトロ室が
改修工事を発注したためとと思われます。

また、分かりづらいですが車内の一番奥はカフェになっていて
コーヒーやビールを販売しており
昔の客車のシートに座り、関門海峡の景色を楽しみながら
ゆったりとした気分でそれを味わうことができます。
(注)何も買わなくても車内設備は使用可。

こうした背中が直立のボックスシートは
昨今見かけなくなりましたが
昭和50年代まではこれがまだ現役でした。

空いた夜行ならこのシートに横になり、
混んでくると直立不動で座るか
誰かが床に新聞紙を敷いてそれに体を横たえるという
“上下分離方式”を取り入れたりしていました。
※今回はレトロ観光線の話しなので
 どうしてもこの“オチ”を書きたかった。

それにしても、こんな客車に2~3連泊しながら
乗りつぶしをしていたとは昔日の感ありです。
(さすがに荷棚をハンモックにした経験はありません)



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!