2010年07月02日 18時08分

1991年にシベリア鉄道に乗った目的

1991年のシベリア鉄道によるユーラシア大陸横断は、
“乗り鉄の夢の実現”で行けた訳ではありませんでした。

写真は1991年当時、ソ連の『ホワイトハウス』と
呼ばれたロシア共和国最高会議ビルで、
この年の8月19日にクーデターが起き
このビルが占拠されました。

ビルの前にあるのは、その時に作られた“バリケード”で、
クーデターから2か月近く経っていたにも関わらず
そのまま放置されていました。

またクーデターは直ぐに鎮圧されたものの
このあと、世界に大きな衝撃を与えた『ソ連』崩壊は
1991年の12月25日でした。
私が見たソ連は、その狭間の正にドタバタの時期でした。
※『ベルリンの壁』崩壊は1989年。

食糧事情の悪さや、多少の危険に遭遇する可能性が
あったにしても、そこに踏み込み『正に歴史が動く』瞬間を
目の当たりにしたいという私の強い願望は、
シベリア鉄道経由でもOKという思わぬ形で
会社が認めてくれました。
※限られた夏休みの日数ではシベリア鉄道乗破は困難だった。

実際にシベリア鉄道に乗り、車内のみならず
途中の街々での1週間の出来事は
私に多くの経験を与えてくれ、
まさしく、公共の交通機関の中にこそ
庶民の真実が見えることもあると感じました。

皆さんはどんな“乗り鉄”をされているのでしょうか?

シベリア鉄道 完。

2010年07月02日 9時09分

シベリア鉄道 クラスノヤルスク駅

昨日のダニロフ駅から大きく後戻りした
10月9日の現地時間12時過ぎ。
モスクワから4104キロのクラスノヤルスク駅です。
この駅はまだアジアで、ヨーロッパまで
まだ2327キロあります。
※ヨーロッパに入ったのは、翌10日の
 午後6時前位と思われますが、
 オベリスクは既に漆黒の闇の中でした。

戻った理由は、単純に一番多くの車両が
写っていたからですが
これからする話しの中身とは全く関係がありません。

堅い話しで恐縮ですが、
丁度この駅辺りから『考えさせられること』に
何回か遭遇したからです。

1)昼間に駅に着くと、10号車辺りに
  子供たちが集まってくる。
 ⇒10号車は、外国人が乗車しており、
  子どもたちはそのボディーを叩いて
  「チョコレート」「ガム」と大声で叫んでいました。
  ※日本史で出てくる
   第2次世界大戦直後の「日本」ではありません。
2)食堂車の食事の質は、時間を追って悪化しているのに、
  何故か駅に着くと「食堂車」から食糧をおろしている。
 ⇒食糧をおろすと、当の本人である
  食堂車のオバちゃんは、相手から
  現金の束を受け取っていました。
  どうみても横流しです。
  食糧事情の悪い当時、
  ロシア号からの食糧の仕入れは案外、
  堅い手法だったのかもしれません。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!