2010年10月26日 18時02分

大阪万博の足、北大阪急行。

写真は、大阪万博の足として“大活躍”した
『北大阪急行電鉄』です。

写真は昼間ですが、乗ったのは「万博の夜景」も
堪能した後でした。
※帰りはこの電車で新大阪に出て、
 そこから新幹線に乗りました。(の、はずです。)

実は、この「乗車記録」は何と私のデータベースには
入っていません。

その頃、『乗りつぶし』は全く意識していませんでしたが
鉄道にちょっと遠くまで乗った場合は、
一応記録としてメモを残していました。
※昭和44年8月28日から記録あり。
 このブログでは3月9日にUPした中で触れています。

ところが、この大阪万博行きは全く記録がありません。
交通機関の混み方が半端でなかったのと
「鉄」ではない同級生と一緒だったことが敗因(?)ではなく、
多分、『大阪万博に行った』という事実の重みの方が
大きかったということでしょう。

今、当時のことを思い出しながらこのブログを書いていますが
ひょっとすると、高校生の時より今の方が
「鉄」に対する執着があるような気もしています。

廃線になった「万国博中央口」~「千里中央」の
記録を取り戻したいと願う今日の私でした。

(PS.)
この日発行された『往復』『無効/名古屋』の印が押された
「名古屋~摂津富田・千里丘」の乗車券が
手元にポツンと残っています。
新幹線で帰った記憶はあるので、車内で清算?

2010年10月26日 8時08分

大阪万博の足、モノレール。

上海万博が今月末で閉幕します。
入場者数が大阪万博の6421万人を越えたのが今月16日。
それもつかの間、7000万人も越えてしまいました。
凄いですね。

そこでちょっと日本の万博の話しを…。
●写真は、1970年(昭和45年)に開催された大阪万博で
 入場者の足として活躍したモノレールです。

私が大阪万博に行ったのは8月27日。
高校1年生だった私は、家の比較的近かった同級生と
その妹の3人連れで出かけました。

「鉄」としての行動ではなかったため
写真もなければ、乗車記録も残っておらず
ここからは“記憶”です。(参照;当時の時刻表)

名古屋発7:30 401M/急行「比叡1号」
京都着9:31
京都発9:37 749M
茨木着10:00
ここまではの記憶は間違いありません。自信あり!!
そこからバスで万博会場へ。
※東海道線の快速は、万博がきっかけで茨木に
 停車するようなり、話題になっていました。

モノレールは撮影しましたが…、確か乗っていません。
しかも写真はこれ1枚です。
当時、大量『輸送機関』としてのモノレールは
「東京モノレール」がありましたが
中学校の修学旅行で東京へ行った時、
羽田空港の見学があったにも関わらず
モノレールを見ておらず、私にとっては初めてみる
観光施設以外のモノレールでした。
(名古屋の人限定…東山公園のモノレールは乗っていました)

今思えば「乗っておけば良かった」の一言に尽きますが
その時はどうやってお目当てのパビリオンを
効率よく回るかしか頭に無く、
そこまで気が回っていませんでした。

その時一緒だった同級生とは
もう何年会っていないのでしょうか?
年賀状のやり取りだけは今も続いていますが…。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!