2010年11月20日 18時08分

昭和47年の名古屋市電「花電車」。

市電の晴れ姿と言えばやはり「花電車」!!!

昭和47年10月15日の名古屋市電の「花電車」です。
撮影したのは『市立大学病院』(旧・桜山町)。
※南側の歩道橋上から桜山交差点方向を撮影。
 縦方向に走る市電を撮影するには
 歩道橋が結構便利だった。

いきなり余談ですが、私はこの停留所名が
「桜山町」から「市立大学病院」に変更になった時、
本当にガッカリしました。
確かに、ランドマークの名前(名古屋市立大学病院)を
停留所に付ける事自体は、
利用者に便宜を図る意味合いはあるのでしょうが、
あまりにも味気ないと感じていたからです。
その後、地下鉄桜通線が開業し「桜山」の名前が復活した時は
やっぱり“これでなくっちゃ”とさえ思ったほどです。

さて、この写真を撮影した昭和47年の「花電車」は
名古屋の表舞台(名古屋駅前)から消え、
それでも最後の踏ん張りを見せていたといった所でしょうか?
特に3両の電車が雁行する姿は、花電車以外では、
既になかなか見られなくなってきた時代でした。
※この時の「花電車」のスポンサーは
 撮影した写真から「日立」「三菱電機」「大須ういろ」の
 3社までは確認できました。
 電車の両サイドが同じスポンサーだったか
 それとも異なっていたかまでは判別できませんでした。

この3両の「花電車」は、当時の運行表がないため
定かではありませんが、多分、このまま南下し、
「昭和町」で折り返して「熱田神宮前」方面に向かい…、
といった風に走っていたと記憶しています。
※「花電車」の主要停留所の通過時刻は
 “新聞”に掲載されていた。
 その“新聞”を『スクラップしておけば良かった』と
 今、つくづくと感じている。
※市電の「熱田神宮前」停留所と同じ場所にあった
 市バスの停留所名は当時も「神宮東門」だったはず。何故?

●写真左側の電車は、「51」号系統(市立大学病院⇒船方)。

2010年11月20日 8時45分

昭和47年2月29日の名古屋市電。

昨夕と同じく、昭和47年2月29日の名古屋市電、
「鶴舞公園」電停です。

改めて写真を見てガッカリしたことが一つ。
この当時、この電停では安全地帯に辿り着くのに
歩道橋しか選択肢が無かったんですね。
高齢者や乳幼児を連れた方、障害のある方には
さぞかし優しくない状況だったでしょう。
当時(今もそうですが)が、如何に車優先の社会であったかが
見て取れます。
●一方で当時、私はこのように道路を横断せず
 立体交差で、歩道橋から直接安全地帯に下りるスタイルは
 もの凄く新しく、先進的でかつ安全であるとさえ
 思っていました。 
 確かにこの写真には“大都会”の香りが漂っています。
 (私だけ?そう思っているのは…)

昨今の市電(=路面電車)は
低床化などバリアフリー化が進み、
弱者に利用しやすい移動手段として、特に欧米で評価され、
日本でもその方向で進歩しつつありますが、
この時代はそのような事に思い至ることはまだまだあり得ず、
何しろ、市電に乗る際の段差に難渋する
お年寄りの姿を見ることは日常茶飯事でした。
(これは低床化されていない市電では今も見られますが…)

それはさておき、右側の1台目は1601号の
『34』号系統(東新町⇒堀田駅前)。
2台目は殆ど姿形は見えませんが
1433号の『35』号系統(東新町⇒港東通)。
左側の車両は1437号で「臨時」。
※最終日とあっての「臨時」だったと思われます。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!