2011年03月06日 18時02分

昭和50年、夏の「尾小屋」(2)「尾小屋駅」。

もともとは「尾小屋鉱山」の貨物も運んでいた「尾小屋鉄道」。
鉱山の閉山に伴い貨物を運ぶことが無くなり、乗客も減っていく中、
何故この鉄道が営業を続けてこられたのかは
『謎』といっても良いほどの輸送実績で、
かつ沿線の風景も“需要”があるとは思えない、
呆れるほどの長閑(のどか)さでした。

それでもここ「尾小屋駅」には、規模は小さいもののかっての
隆盛を忍ばせるには十分の風格を感じました。
さて、駅前のさほど広いとは言えない場所で
「縄跳び」をする子供達が印象的でしたが、
今はこうした風景を町で見かけることはすっかり無くなりました。
この時の子供達は今も「尾小屋」に住んでいるのでしょうか?

最近、『乗りつぶし』時に「駅写真」等を撮る際、
出来る限り“人”が写りこまないように留意しています。
“肖像権”という言葉が独り歩きし、その対応のためだったりしていますが、
私が『乗りつぶし』をしていた最盛期の昭和40年代~50年代
では
そのようなことに気を遣うことは殆ど無く、
この写真も、“自然”に撮影した一枚でした。
でもこうして人の写った写真にこそ、当時の時代背景を感じることも多く、
私達は今、少し『残念な時代に生きている』と思わざるを得ません。

最後に、駅舎の話しを少し。
この駅舎は、当時、『川の上にある駅』として知られていました。
駅舎の右側に、橋の欄干が見えているのが分かりますでしょうか?
それが、『川の上にある駅』を物語っています。

2011年03月06日 9時33分

昭和50年、夏の「尾小屋」(1)8月22日。

夏の緑が目にも鮮やかな山懐、架線の無いナローの線路上に
タンク式の蒸気機関車(C15 5)と
特徴ある形態の客車(ホハフ3)がひっそりと佇む風景。
それは当時、時刻表に載っている鉄道では、
全国ただ一か所、ここ石川県の「尾小屋鉄道」でしか見られないものでした。

昭和50年8月22日。
この日は、朝一番で福井鉄道の福武線に乗り、
武生駅から4005M特急「北越2号」大阪発新潟行きに乗車。
国鉄「小松駅」に到着したのが10:28。
直ぐに尾小屋鉄道の「新小松駅」に向かい、
10:40発の尾小屋行きにギリギリ間に合い、
ここ尾小屋鉄道「尾小屋駅」に到着したのは11:30でした。

なお、交通公社の時刻表では「尾小屋駅」着11:29と
掲載されていましたが、
何故か「尾小屋駅」に掲出の(到着)時刻表では“11:30”とあり、
他の列車が全て同一であっただけに不思議でした。

ところで、当時、私は鉄道に乗ることだけで精一杯で、
なおかつ今のように「鉄道」の情報が溢れているわけでもなく、
『時刻表に載っている鉄道』の一つとして、
そしてそれが井笠鉄道廃線後、日本で“最後”の非電化ナローぐらいの
情報しか持ち合わせないままこの場に立っていました。

(私がこのタイミングで「尾小屋」を訪れた理由)
昭和50年8月23日~24日にかけ、「夕焼け祭り」という
オールナイトの音楽祭が石川県の山中温泉で開かれ、
そこに行くべく私は名古屋をちょっと早めに出発し、
北陸のローカル私鉄を乗り歩いていました。

(今回の主な参考資料)
1)ネコ・パブリッシング「尾小屋鉄道」著者/寺田裕一
2)「尾小屋鉄道ホームページ」
3)日本交通公社「時刻表」
4)その他、「鉄」仲間の助言など



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!