2011年03月07日 21時30分

昭和50年、夏の「尾小屋」(4)「尾小屋」な風景。

私がこの訪問時に撮影した写真の中で、一番「尾小屋」らしい風景と
思っているのがこの一枚です。

11:30に「尾小屋駅」に到着した写真左側のホームに停車中の『キハ1』は
折り返し「尾小屋駅」発11:55となります。
※「新小松駅」着12:47。

この折り返しの25分間は、私にとって至福の時間であったことだけは
間違いなさそうです。

こんな小さな車両が1日8往復の“私鉄”尾小屋鉄道。
「新小松」の発時間は
6:50、8:05、10:40、13:30、16:10、17:20、
18:50、20:30.
「尾小屋」発は、5:57、6:49、8:07、9:25、 11:55、
16:12、17:22、18:52、

この発時間と、片道50分の道程を重ね合わせると、
何と途中で交換をしていたことが見て取れます。
ただ、どの駅で交換しているかが時刻表では読み取れませんでした。
何故なら時刻表には“途中駅名”はなく、起終点のみの記載でした。
※当時は、大手私鉄でも関東を除けば全駅掲載でない鉄道会社が
あった位ですから当たり前と言えば当たり前でした。

(お詫び)
3月4日にUPした、「サプリメント」の自動販売機ですが、
『あそびにん』さんから「無くなっていました」との
コメントを頂きました。
早速本日、名古屋駅に出向き確認したところ
設置されていた場所に、自動販売機が置かれていた痕跡は
確かに残っていましたが、本体は影も形もありませんでした。
撮影したのは昨年の11月6日で、それ以降、この自動販売機が
現時点でもあるかどうかの確認を怠っていました。

どうやら期間限定、マーケティングのための設置だったようです。

ここに、お詫びするとともに訂正いたします。

今後、このようなことが起きないよう留意します。
申し訳ありませんでした。

2011年03月07日 9時01分

昭和50年、夏の「尾小屋」(3)「尾小屋駅」の駅名看板。

「尾小屋駅」に到着し、駅柱に取り付けられた『をごや』の
駅名ホーロー看板を見つけた時、私は、
何て“時代がかった”仮名表示か!とでも感じたのでしょう。
そうでなければこうして写真が残っているわけがありません…。

開通した大正9年から私が訪れたこの昭和50年、
そしてそれから廃線となった昭和52年3月19日まで、
「をごや」を見つめてきたひょっとしたら数少ない
生き証人だったのかもしれません。

(一枚の写真)
昭和50年当時の私の写真事情ですが、現代のデジカメ時代とは
明らかに違い、
目に付いたものは取りあえずシャッターを押すなどという
“蛮行”はあり得ませんでした。
特に学生にとっては、一眼レフは使ってはいたものの
フィルム代、撮影後の現像代、さらにネガの場合にはプリント代など、
その出費の負担は各段に重く、
それゆえ現像まではしてもプリントしていない写真も多く、
1枚の写真の重みは桁違いです。

一方で、それゆえに未整理写真も多く、
撮影した記憶のある写真がなかなか探し出せない?現実があります。
前にも書いたと思いますが、私は「乗り鉄」の乗車券代はある種、
惜しみなく使っていましたが、写真をあまり撮っていない理由が
ここにあります。
それだけに、この写真は、私にとって撮影時に何がしかの“思い”が
あったのは間違いないのでしょう・・・。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!