2011年05月21日 19時35分

島原鉄道(6)線路は続くよ!どこまで???

「島原外港駅」は、「Wikipedia」によれば平成9年に交換設備が
撤去されており、平成20年までは有人駅だったようです。
また、「島原外港駅」が今もあるのは島原市の“要望”とありました。
『やはりそうなんだ』と改めて感じました。

その「島原外港駅」から「加津佐」方面には、写真のようにまだ
線路が残されています。本線とも繋がっており、線路の撤去費用の捻出が
きっと出来ないのだろうと思い、ついでに言うと、この先、踏み切りの
あったところはどうなっているのだろうと心配になってしまいました。
その理由ですか?それは、車で「踏切」を横断する場合、本来
『一時停止』義務があるのですが、廃止となった「踏切」にはその義務が
ありません。ところが「踏切」がそのままの姿で残されていた場合、
“廃止”を知っていようがいまいが、無意識で一時停止してしまいそうです。
その時、後続の車に「一時停止」する気が無ければ、追突されるのでは
などと心配になってしまったのです。

話しは脱線しても、列車を脱線させてはいけません。
この写真は、列車の車内から撮影したものですが、この駅で折り返さず、
このまま「加津佐」方面にそのまま走り出しそうな感覚に囚われました。

既に3年の月日が流れているとはとても思えない「島原“夢幻”鉄道」の
巻でした。

2011年05月21日 9時00分

島原鉄道(5)やっと島原鉄道「島原外港」駅です。

フェリーの島原港から歩くこと5分、島原鉄道の「島原外港駅」です。
はっきり言って島原港が近くに無かったとしたら、多分、現在の島原鉄道の終点は、「南島原」になっていたのではと思える駅です。

それはともかく、フェリーが時刻どおり到着し、というより定刻の
15:20が、船からの下船時間であれば、「島原外港駅」発
15:28の「諫早駅」行きに頑張れば間に合うのではと淡い期待を
抱いていたのです、やはりそんなことはなく、15:53発に乗ることに
なったため、20分強の余裕が出来、その分、「島原外港駅」周辺を
探索できました。

駅は、2面2線の内、旧・下り線(加津佐方面)ホームの1面1線を利用し、
折り返す構造となっています。(写真では左側)
なお、右側の旧・上り線(諫早方面)は、本線とは寸断され、
繋がってはいません。

また、「矢印」の奥の掘っ立て小屋のような建物が待合室で、
中には時刻表と運賃表の掲示があるものの、見ようによっては
ローカル線の途中駅の風情で、考えてみればもともとが中間駅であり、
終着駅のイメージをそこに求めること自体に無理がありました。

右側に今も残るホームには、昔ながらの屋根付き待合所が存在しており、
いつ列車が到着してもおかしくない雰囲気でした。
話しは飛びますが、その待合所の直ぐ後ろに三角屋根の建物が見えます。
私はこの駅に到着したとき、その建物が旧・島原外港駅舎に
見えてしまいました。が、近づいてみてそれは全くの見当違いであることが
分かったのですが、改めてこの写真を見ていたら、あながち“勘違い”も
致し方ないと自分を慰めています。

2011年05月20日 17時29分

島原鉄道(4)昭和50年の島原鉄道の入場券。

上が「島原駅」の入場券。
下が今は無き「加津佐駅」の入場券です。
券面中央の赤帯が何とも言えない味を醸し出しています。
今も、島原鉄道の有人駅ではこうした硬券を売っているのでしょうか?
参考までに、現在の島原鉄道の有人駅は
*南島原*島原*多比良町*吾妻*愛野*本諫早の6駅です。
起終点が無人で中間駅に有人が存在するのは、熊本電鉄も同様ですが、
比較的珍しいのではないでしょうか?

また当時、島原鉄道は非電化私鉄の「九州の雄」、
場合によっては「西の雄」と謂われていたと記憶しており、
「諫早」~「加津佐」間の1路線78.5キロという長さは、
非電化私鉄では当時、日本最長であったと記憶しています。
※「東の雄」…関東鉄道。
 「西の雄」…元々は江若(こうじゃく)鉄道。今のJR西日本
/湖西線沿いにあった鉄道で、昭和44年に廃止。

また非電化私鉄では唯一の特別料金(急行料金)の必要な列車が
1日4往復設定されていた他、国鉄への乗り入れ列車も1日2往復の
「長崎」発着の他、「佐世保」、「博多」から長駆「小倉」まで
足を伸ばす列車等、5往復が設定され、鹿児島交通の「西鹿児島」への
3往復や有田鉄道の「湯浅」への4往復、小田急「あさぎり号」の4往復の
「御殿場」乗り入れをはるかにしのぎ、定期運用の乗り入れ数は
当時、いわゆる“相互乗り入れ”や少々事情の異なる“伊豆急”
“伊豆箱根鉄道”を除けば日本最多だったはずです。

昭和50年当時、如何にこの鉄道が島原半島を支えていた交通機関で
あったかが見て取れます。

2011年05月20日 8時04分

島原鉄道(3)昭和50年の島原鉄道。

昭和50年3月10日、山陽新幹線の博多開業日に合わせ、
私は九州を目指しました。
(開業日の乗車は私にとっては画期的)
その時に、島原鉄道を写真の乗車券で完乗しました。

当時は、国鉄の『完乗』などまだ夢にも思っていなかった時代で、
単なる鉄道旅行というか、「観光と鉄道」というテーマ設定というか、
それでも山陽新幹線だけは乗っておこうと思ったのは間違いなく、
ただ、3月10日に名古屋を出て新幹線で九州を目指したところまでは
良かったのですが、小倉で下車しており、博多まで到達したのは翌11日。
さらに巡り巡って14日に「諫早駅」に到達しました。
その「諫早駅」までも、何故か佐世保線の「武雄駅」
(現在の「武雄温泉駅」)から『九州急行バス』に乗っており、
当時の私の「鉄」らしくないこと夥しい行動は、「乗り鉄」を本格的に
始めるだからこそのエピソードといえます。

私の島原鉄道初乗車は、「諫早駅」発12:01の“急行”「加津佐」行き
(何と「佐世保」始発)で、「島原駅」着は12:47。乗車券には
『下車前途無効』とあるものの、ちゃんと途中下車して、
島原市内の「武家屋敷通り」を始めとした観光地を巡り、
「島原駅」発17:43のディーゼルに乗車。「加津佐駅」着18:58で
島原鉄道を完乗しました。
こうして書いてみると、単なる観光旅行のついでの“乗り鉄”ですが、
そもそも島原市内の観光をしている時の写真はあるものの、
当時の島原鉄道の写真は1枚も残っていません。

話しを戻して、『途中下車』の件ですが、当時は弾力的に
運用していたということでしょうが、一方で、国鉄で弾力的運用は
あまり記憶にありません。

もう一点、「諫早駅」から乗車した“急行”は信じられないほど混んでおり、
座れないどころか乗降ドアから乗って、そこから一歩も動けず、
しかもその場所からは、窓外が全く見えず、「島原駅」までは
本当にただ乗っただけの島原鉄道で、
今回、私は初めて島原鉄道の車窓を堪能しました。

●「島原外港」~「加津佐」間は平成20年4月1日に廃止となり、
現在の姿となっています。まだ4年しか経っていないんですね。

2011年05月19日 18時53分

島原鉄道(2)島原港到着。

『オーシャンアロー号』が島原港に到着すると、島原半島の象徴
「雲仙岳」が出迎えてくれます。

写真を見る限り、穏やかな山容ですが、火山であり、過去に大きな被害を
もたらした噴火活動もあります。
平成3年に発生した火砕流では多数の犠牲者が出たことでも知られており、
その際には島原鉄道も寸断されました。
一般的には「雲仙岳」の当時の最高峰『普賢岳』の名の方が通りが
いいのかも知れません。

それにしても熊本港を出航したフェリーは、ズーっとこの「雲仙岳」を
目指して航行しており、僅か30分強の乗船時間とは言え、
船旅を満喫した気分になったのは、刻々と迫り来る「雲仙岳」の存在の
賜物とも言えるのでしょう。
実は、定刻では乗船時間は30分(島原港着15:20)なのですが、
この日は風が強く少々の遅れがありました。
それでも船のダイヤは路線バス以上に当てになることはなく、
殆ど誤差の範囲で到着したのは流石といっても良いでしょう。

私は「鉄道」が好きですが、大多数の方の共感は得られると思いますが、
単純に“乗り物”が好きといった面もあります。
特に、船旅は時間が許せば、是非にでも選択したい方で、
ひょっとするとそれは、北海道に行くのに、飛行機か連絡船しか無かった
時代を生きてきたからかもしれません。
※当然、その選択肢は「連絡線」。にしても強引すぎる展開です。

今回は、諸般の事情で『合理性』から選んだルートですが、
「乗り鉄」さんの参考になれば幸いです。

●国鉄・私鉄全線を乗破したのち、新規で開通した
予讃線「内子」~「向井原」に乗るのに
ダイヤモンドフェリーに乗船して、大阪から松山まで移動したことを
思い出しました。

2011年05月19日 8時00分

島原鉄道(1)いざ、島原へ!

今回は、「鉄」分はありません。予めご了承下さい。
単なる移動手段の話しです。

平成23年3月25日、熊本電鉄(2回目の完乗)・熊本市電
(2回目の一部区間乗車)と乗った私は、殆ど思い付きの
島原鉄道・長崎電軌に向いました。

で、選んだルートは「熊本」~「島原」間、船の旅です。
鉄道の未乗区間がある場合には、こういう選定にはならないのですが、
“時間の節約”と“お金の節約”を合理的に考え、
「熊本」~「鳥栖」~「諫早」~「島原外港」という陸路
(鉄道)ルートを放棄しました。

ということで「熊本交通センター」(市電の辛島町の近く)発14:00の
『熊本港シャトルバス』に乗り、14時半過ぎに「熊本港」着。

そこから熊本港発14:50の熊本フェリー『超高速フェリー・
オーシャンアロー号』(写真上段)に乗り込みました。
『オーシャンアロー号』は、ご覧の様にカッコいいスタイルで、
一見すると「どこの大型クルーザー」かと言いたくなるほど。
またそのスピードは『超高速』というだけあって流石に速く、
フェリーも様変わりしていると実感した一時でした。

また、この『オーシャンアロー号』の名物が下段写真で、
船の運航に合わせカモメが船の周りを飛んでおり、餌をあげる
ことが出来ます。
北海道の知床半島の観光船をはじめ何度かこうした経験をしているのですが、
「フェリー」では初で、“忙中閑あり”といったところでしょうか。
(忙しくは無いのでこの言葉は相応しくないですね)
※一人で餌やりをして写真を撮っているのでピンボケをお許し下さい。
※餌は船内で販売しています。

ところで…。
私は「乗りつぶし」をしていた時も、こうしたショートカットは
結構やっています。
有明海の横断は初めてですが、他では主にバス、たまには徒歩、
はたまたタクシーを使ったこともあります。
バスで言えば、時刻表に掲載が無くても『目的地』間を結ぶ路線は
意外とあったりし、今のように“ネットで検索”が無い昭和の時代には、
車掌さんや駅員さん、地元の方に聞いて情報を得たりして、「時間」と
「お金」の一挙両得を目指していました。ひたすら乗ることに執念を燃やし、
心に余裕の無い、私の個人的な話しです。

2011年05月18日 18時12分

熊本市電(9)再訪を期して。

この写真は、平成23年3月25日、熊本を去る直前、
「熊本交通センター」から撮影したものです。
昭和の時代からは、その街並みや走っている車が変わっているのでしょうが、
変わっていないのは「吊架線」のある風景位でしょう。
最近は『センターポール方式』が“景観”のみならず“防災上”の観点も含めて
進められていますが、その利点は数多(あまた)あるものの、
私の様な年配者からすれば、この写真の様な風景の方が“馴染がある”と
言えそうです。

ただ一方で、この車道の幅での『センターポール』化は
難しいのだろうとも思い、逆にこの風景(車道は1車線)こそが
“市電”を都市路面交通の主役から追いやったとも言えます。

ところで…。
昭和から変わらないのは「吊架線」のある風景と書きましたが、
実はもう一つ変わっていないことがあります。
それは『ほっかほっか亭』ラッピングの「1203号」です。
今回UPした昭和の「熊本市電」の中に、この「1203号」が
写っていました。
もっとも変わっているといえばラッピングが変わっており、
当時は『SONY』でした。
正解は先回の「上熊本駅前」停車中の電車で、その写真サイズでは
「1203号」と確認することは出来ないと思われ、
私はほとんど「いじわるばあさん」状態です。
※「いじわるばあさん」をご存じない方は検索してください。
(ますますもって「いじわるばあさん」)

とまあ、「熊本市電」の最終回が何とも締まらない結末になってしまいました。
要は、この“電車の走る風景”がいつまでも続くような町であれば、
その町は交通弱者に優しい素敵な土地と言う事で…、ご容赦を。

2011年05月18日 9時00分

熊本市電(8)「新水前寺駅前」電停は移設工事中。

写真は電車内から撮影した移設工事中の「新水前寺駅前」電停です。
(現在の「新水前寺駅前」電停は、工事中の場所より手前にある)

この電停名は、熊本市の「市電移動円滑化整備計画」に基づき、
この3月1日、「水前寺駅通」から改称されたのですが、
その3月1日に行われた熊本市電の“整備”内容は既に書いている
系統名の変更のほか、運行系統の色分け、電停名を利用者に
分かりやすくするための改称、電停のナンバリング等々となっています。

この改称なった「新水前寺駅前」電停は、現在の場所から、
奥にある高架橋に近づく訳ですが、この高架橋はJR九州「豊肥本線」で、
この写真の左側にその「新水前寺駅」があり、最終的には、
高架線の手前に歩道橋が設置され、それとこの電停が階段で繋がります。
またその歩道橋は、そのままJR「新水前寺駅」に繋がる計画で、
市電とJRの乗り継ぎは正に『直結』と言える状況となります。

電停の完成はもう間近と思われましたが、最終的に歩道橋で
市電の電停とJRの駅が直結するのは今年の7月頃のようです。
因みに電停と駅舎の距離ですが、現在の150メートルが
50メートルまで短縮されるとの事で、
熊本市東部から豊肥本線を利用してきて熊本市の中心部に行く利便性が
格段に向上することは間違いなく、都市交通の基幹としての路面電車の役割が
遺憾なく発揮されそうです。
電車の低床化、大型化も含め熊本市は素晴らしい町ですね。
(都市の公共交通の観点であり、「鉄」の感想ではありません・・・)

2011年05月17日 18時06分

熊本市電(7)「田崎橋」点景。

昭和53年1月29日、熊本市電「田崎橋」電停。
停車中の電車は「1207号」です。そうっ!これが奇跡の再会。
この写真の約2時間半前、「健軍町」で出会った電車だったのです。
実は今回、このブログを書くために過去の写真を発掘中に発見しました。
当然、当時は気付いていません。自分が乗った電車にも普段、
あまり注意を払わない私ですが、さすがにこれからは、
多少は気にしようと決意をせざるを得ませんでした。

話しは電車に戻し、「1207号」の車齢は私より少し若い程度で
既に50歳を越えていますが、この電車というか「1200型」は、
この昭和53年から冷房化改造が始まり、日本発の「冷房付き路面電車」として
話題になりました。もっともこの写真を撮影した時点では
「1207号」は冷房化されておらず、暫くこの姿で走っていたはずです。

またこの電車は、私が「熊本市電」を完乗した記念すべき電車であるということも
合わせて報告しておきます。
(だから何なんだということはさておき・・・)

ところで書いていて思い出したのが、乗車時、
「水道町」から乗った電車の乗客は、「熊本駅前」で殆ど下車し、
この「田崎橋」までの乗客が極めて少なかったこと。
写真を改めて見ても道路の真ん中に『ポツン』と止まっているだけで、
人影がありません。当時は、写真を撮影するときにそれほど
“人の写り込み”を気にした時代ではないので、
本当に人がいなかったと思われます。

今はいかが相成っているのでしょう?
それよりも、サイドリザベーション化なった「田崎橋」までこの際、
行けば良かったと今更ながら後悔しております。
優先順位の付け方なのですが、そもそも今回の「熊本市電」訪問も実のところ
結構思い付きだったりして、これでは『都市交通の在り方』等と
えらそうに書く資格は無いですね。

2011年05月17日 8時00分

熊本市電(6)「上熊本」電停はいい感じ。

路面電車の終点というのは、幾つかのパターンがあります。
当時、私が知っている市電の終点の風景は、やはり名古屋市電の
イメージが強く、道路の真ん中に、ポツンとあるというものでした。

そのためこの電停に上屋のある風景は私にはとても新鮮に映り、
まるで地方の小私鉄のターミナルのような感想を持ちました。
それはそれとして、電車を待っている人たちの服装(特に女性)に
時代を感じさせます。電車だけで時代を感じることもありますが、
やはりその時代時代を生きている“人”のいる日常の光景こそ
『時代を写している』といっても良いのでしょう。
もっともこの写真は『肖像権』を気にしなくてもいいから
UP出来た訳ですが・・・。

この写真で時代を感じさせるものがもう一つあります。
小さな画面でご覧の方は分かりにくいでしょうが、
電車の左奥にトラックが止まっており、その更に奥にある建屋には
荷物が山積みされ、おそらく「上熊本駅」から貨物列車で出荷されるか
到着したものと思われます。

現在、こうした小口扱いと思われる貨物が駅から消えて久しくなりますが、
現代の“効率”論から考えると当時は『良き時代』だったのでしょう。



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2011年5月
« 4月   6月 »
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!