2011年07月16日 18時10分

7月14日の北海道(3)「新得駅」のお詫びの掲示。

平成23年7月14日(木)、この日、全国でもどうやら北海道だけが
前線通過に伴う豪雨となり、一部地域では避難勧告が出され、
床下浸水した家もあったほどで、
北海道各地で鉄道の運休&遅れ、道路の通行止めがありました。

写真の説明の前に、『もしも鉄道が終日駄目』だったことを想定し、
高速バスで札幌に向かう(お隣の「十勝清水」にバス停あり)ことも
考えたのですが、「新得駅」にいた他の乗客の方達の話しから、
「帯広から札幌に向かうバスは運転される(残り8席)ようだが、
高速道路が閉鎖されており、一般道(日勝峠経由)となり時間が
かかりそうだ」ということがわかり、時間の限界まで
『ここにいるのが良さそう』だとの結論を私なりに出しました。

さて上段写真は、その時の「新得駅」です。
既に雨は少し落ち着いているように見えましたが、たまたま駅に
「気象庁」のバッジを着けた方がいたので、天気の状況を聞いたところ
「これからピークを迎える予想ですが、状況は変わることもあります」と
言われ、私は段々事の重大さを感じ始めていました。
※駅員さんの話しでは、前夜から明け方にかけてが凄い雨だったそうです。

下段写真は、駅に提示された「運転見合わせ」の案内ですが、
『10:46頃 新狩勝~広内間で大雨のため運転を見合せています。…』
と書いてありました。

まあ、地元の人にはこれで通じる(???)のかも知れませんが、
「新狩勝」と「広内」は信号所であって、“駅”ではありません。
(つまり時刻表に掲載されていない『名前』が書かれていた)

地元以外の人には、正直言って、どこが通れないかは分かりません。
しかもその順番ですが、ここ「新得駅」からは「広内」の方が近く・・・。
などつらつらと考えつつ、“飛行機に間に合わない”可能性が出てきて
心の余裕は無くなってはいたものの、まだまだ12時台。
間に合わないと決まったわけではありませんでした。

15:30の新千歳空港の発時間から逆算し、14:45までに
「南千歳」に着けば何とかなりそう。
徐行運転を考慮し、13:00頃までに「スーパーとかち4号」がくれば
間に合う(定時運転で1時間27分)などと計算していました。

それにしても「スーパーとかち4号」はここ「新得抑止予定」と
あるにも関わらず、到着する気配がありません。
それにしても、乗客への案内と言うより“業務連絡”に近い掲示ですね…。

2011年07月16日 8時00分

7月14日の北海道(2)2432Dは、「新得」で打ち切り。

写真は11:39、定刻から16分遅れで根室本線「新得」駅に到着した
2432D「滝川」行きです。

2432Dは、「新得」の一つ手前の駅「十勝清水」までは
定時運転だったのですが、「十勝清水」到着時に、
『ここから大雨の影響による徐行運転を行います。』との案内放送が入り、
確かに帯広でも朝から強い雨が時折降っており、「しょうがないなあ」
「まあでも、『新得の駅そば』は食べられるだろう」と、まだその時点では
ノンビリ構えていました。

徐行運転の最高時速25キロは、私がそれまでの「運転体験」で出すことを
許された最高速度と同じで、営業運転では如何にも“遅い”です。

車内では、「新得」からバスを乗り継いで自宅に帰る『病院帰り』の
お年寄りが顔見知りと話しをされており、
「バスの時間に間に合いそうに無い」などとこぼしたり、
バス停が見え始めたら「バス停に人がいないなあ…。歩くにしても、
この雨では何ともならないなあ~」とか、
「ハイヤーに乗って帰ろうか…」と、そんな話し声が車内中に
響いていました。
※「歩く」という話しですが、聞こうとしていたわけではないのですが、
1時間以上の距離のようでした。

そんなお年寄り達は、「新得」に列車が着くとそそくさと降りていったので、
その後のこの列車の乗客達の命運は知らないと思いますが、
私が駅舎に向かうべく、跨線橋の階段を上り始めたら、駅員さんの声が
車内から漏れてきました。「この列車は新得で打ち切りです!」
・・・。
そこで思い出したのが車内のお年寄り達の会話。
「あれ?今日はホームが違うぞ!」を思い出しました。

後続の列車と言っても、早々にはやってきません。
どうするのかと思ったら、駅のコンコースに、狩勝峠を越えていく
(確か…)5名が集められ、全員が少なくとも「富良野」まで行くことを
確認したうえで、JR北海道手配の「ジャンボタクシー」に
乗り込んでいきました。
ただ、富良野からの列車の接続は、「その先のダイヤも乱れているので
そこで確認して欲しい」と説明していました。
なお、この2432Dの打ち切りは北海道新聞のweb版でも出ていました。

ところで私は、この時点でもまだ今起こっていることの全体像が
掴めていませんでした。

2011年07月15日 18時05分

7月14日の北海道(1)豪雨でダイヤが混乱。

昨日(7月14日)、私は北海道にいました。
他のスタッフより一足早い「夏休み」を取り、北海道「鉄」旅を
楽しんでいました。
(「鉄道の旅」ではなく「鉄」旅です。その話しは改めて後日。)

今日(7月15日)が仕事だったため、10連休とはなりませんでしたが、
それでも6連休は充実した日々でした・・・。
『・・・』の訳は、名古屋では多分、知っている人は殆どいないと
思いますが、昨日の北海道は前線の通過による豪雨の影響で、
一部のJRでダイヤが大幅に乱れるというなかなかな一日で、
実は、私も途中駅で足止めされて、名古屋(中部国際空港)に
5時半頃戻る予定が、結局夜の10時過ぎとなってしまいました。
それでも家族からは「帰れただけまし」と言われましたが…。

写真は根室本線「帯広駅」で、左側に停車中の『キハ40-1765』が、
2432D帯広発10:13滝川行きです。

この日、新千歳空港から15:30発中部国際空港行きの
スカイマークが予約してあった私は、まずはこの列車で「新得」
(到着時刻は11:23)まで行き、
そこでお約束の『駅そば』を食べ、「新得」発12:05の
『スーパーとかち4号』で「南千歳」(到着時刻は13:32)経由、
「新千歳空港」に向かう予定でした。

しかし、それが・・・。
ただ、この「帯広駅」の時点では、この日の行程が大きく変わることなぞ
予想だにしていませんでした。

「近江鉄道の旅」の連載は、一寸お休みし、タイムリー(?)な話しを
させて頂きます。

2011年07月15日 8時05分

近江鉄道の旅(4)加太の大築堤を行く。

(上段写真)関西本線を「亀山駅」でJR東海の電車から、
JR西日本のディーゼルの乗り換え。
広大な駅構内にポツンと停車する239D「亀山」発9:55「加茂」行きは、
『キハ120-14,303』の2両編成で、
乗客はゴールデンウィークだからと思われるのですが、相当数の方が
立っており、私の下車した「柘植」までその状態でした。
キハ120形気動車は、かって高山本線の猪谷駅で見かけたことが
あったものの、乗車するのは初めてでした。
ただ“感無量”という域までは達しませんでした。

(下段写真)昭和の時代、蒸気機関車の終焉を前に、多分、
「撮り鉄」の方にとっては最も有名だった場所の一つと思われる
『加太の大築堤』(加太~柘植間)です。線路が左にカーブした先のあたりに、
いつも多くの鉄道ファンが待ち構えていました。
そして貨物を牽くD51の重連の迫力は、蒸気機関車の最後の力闘を
私たちに見せてくれていました。
※ここを蒸気機関車が走っている写真は、昨年の3月11日にUPしています。
よろしければご参照ください。

思い出深い所をキハ120形は軽快に駆け上っていき、
それはそれでよいとしても、私にとってはあまりの余韻のなさに愕然としつつ、
ただ呆然と前方を眺めるしかありませんでした。
※でも、景色は良いですよ。もっとも最前部に座席はありませんが…。

2011年07月14日 18時53分

近江鉄道の旅(3)亀山駅。

電車は定刻の9:34、亀山駅に到着。一体何年ぶりの「亀山」で
あろうかと思いつつ、そう言えば、上段写真の様な構内への入線を、
先頭車から眺めるのは始めての経験であることに気付き、
この位置からの視点で眺めているとここ「亀山」がかって国鉄の
一大拠点の『大駅』で“あった”ことを思い起こさせてくれました。

昭和48年に旧国鉄伊勢線が開業するまでは、名古屋から南紀方面へは
ここ「亀山」のスイッチバックはマストであり、また関西から伊勢参りや、
伊勢志摩への観光に向かう人の乗り込んだ列車が、全て停車していました。
また貨物列車の本数も多く、いつも賑やかな駅でした。
私は、伊勢線の無い時代にここ「亀山」に降り立ってはいるのですが、
残念ながら南紀に向かう列車でのスイッチバック体験は持っていません。

(余談)
伊勢線開業後の話しですが、“乗りつぶし”は別にして、
名古屋から南紀に向かう際、「くろしお号」との時間が折り合わない場合は、
近鉄で松阪に向かい、そこから三重交通の特急バスで紀伊長島や尾鷲に
行っていました。トータルでの時間はともかく、利便性に負けていました。
これは私に限らない話しです。

話しを戻して、下段写真は「亀山駅前」なのですが、
こんな大鳥居が目の前にあったとは知りませんでした。
(記憶に無いというほうが正解かも)
扁額の文字がかすれ、読み取りにくかったのですが、
亀山市内の能褒野(のぼの)神社だそうです。
考えてみれば「亀山」への取材は殆ど来たことがなく、
来たとしても大抵は車で、こうして駅前に降り立ち、
駅前の風景をじっくり見たことはかってありませんでした。

2011年07月14日 8時24分

近江鉄道の旅(2)加佐登駅を撮影した訳。

「四日市駅」を出て16分、「加佐登駅」に9:24の到着です。
何でこんな小駅かと思われるかもしれませんが、ちゃんと理由があります。

今の時刻表で三重県鈴鹿市の代表駅は、近鉄鈴鹿線の「鈴鹿市駅」で、
市役所への最寄り駅であり当然として受け止められていますが、
以前、交通公社の時刻表では少なくとも昭和48年10月号までは
ここ「加佐登駅」が鈴鹿市の代表駅でした。(稲見調べ)
※その後、国鉄伊勢線(現在の伊勢鉄道)鈴鹿駅に変わり、
更に今の形になっています。

私の率直な感想として、当時、国鉄監修の時刻表にあっては、
市の代表駅はあくまでも「国鉄駅」であり、私鉄は例外という
扱いだったのではということです。ことの真偽を確かめていないだけに
書きっ放しで恐縮ですが、私がそう感じるほど、実際の町の中心と
“代表駅”との乖離に違和感がありました。
ただ、「加佐登駅」に停車する急行列車もあり、
その体面はかろうじて保たれており、また乗降客は少ないものの、
それでも他の駅よりは少々多かった印象です。
何れにしろ、鈴鹿市を横断する鈴鹿川の北側にあって、
『街』というイメージはありませんでした。

とは言うもののたった1回だけですが、日本を代表するサーキットである
『鈴鹿サーキット』へ仕事で行く際、この駅から『鈴鹿サーキット』へ
向かった記憶があります。
ただ、昭和の時代でも、『鈴鹿サーキット』へ鉄道で向かう際は
近鉄名古屋線の「白子」駅を使うのが一般的で、その時の理由は
「白子駅」から『鈴鹿サーキット』への渋滞回避だったのを思い出しました。

とまあ、そんななんやかやの「加佐登駅」ですが緑の窓口もある駅であることを
紹介しておきます。

2011年07月13日 18時48分

近江鉄道の旅(1)名古屋を出発、目指せ!貴生川。

雑誌でも取材から掲載が2か月以上遅れることはあまりないはず。
で、今更ながらの5月4日(水)の私の行動をUPします。
題して「近江鉄道の旅」ですが、近江鉄道に辿り着くまでにも
相当な回数を要することになりそうです。先に釈明しておきます。

実は5月4日と5日に『近江鉄道発「三陸鉄道」支援の手』という話題で
2回UPしており、近江鉄道を訪れた目的はその通りなのですが、
その際、折角なのでということで近江鉄道(除く八日市線)を乗り直しており、
今回はその記録ということでご理解ください。

ということで、話しはJR東海「名古屋駅」からスターとします。
乗った電車は4311M「名古屋」発8:13「亀山」行きです。

休日とあって乗客も多く、立っている人もいました。
私は少し早めに名古屋駅に着いたこともあって、余裕で座りました。
まあ、この日の長丁場を考えればここで立っているわけにはいきません。

四日市駅では下段写真の入替用DL(山九株式会社の名前がありました)を
見たりして、のんびりと各駅停車の旅を楽しんでいました。

(余談)
目的は分かりませんが、私と同様の明らかに「鉄」の方が何人か
車内にいました。どこへ行ったのでしょうか?
えっ、何でそんなことが分かったかって?
それは、四日市駅停車中に、私同様このDLの写真を撮影していたからです。

2011年07月13日 8時06分

品川駅の郵便ポスト。

さて、先回の『ゼロキロポスト』の隣には電車型の“郵便ポスト”が
あります。
右の写真は『ゼロキロポスト』込みで、左側の写真が、
まさに左サイドから見た“郵便ポスト”です。

“郵便ポスト”の方は単なるオブジェではなく、ちゃんとした『現役』で、
平成17年10月1日、品川駅の駅中ショッピングモール
『ecute品川』誕生を記念して作られたものです。
(ご存知の方も多いかと思いますがお許しください。)

正直、何故ここにポストを設置することになったのか?とか、
「ポスト」=「郵便を運ぶ列車」で何故『クモユニ70形』を選択したのか?
などということはさておき、この“郵便ポスト”は良く出来ていると
思っています。
まず原型となったのが『クモユニ70形』であることは、
左側写真の車体部の下辺に「クモユニ74001」とあることから
間違いありません。ただ、クモユニ74形のトップナンバーは
「クモユニ74000」であり、なぜこの番号となったかまでは私の力量では
分かりません。
●若い人に『クモユニ70形』と言っても、殆どの人はピンと
来ないでしょうね。

まあ、そんな本筋とも横道ともとれる話しは気にせず、
このポストからは「クモユニ74形」の雰囲気が実に伝わってきます。
特に、郵便物の投入口あたりの処理(電車で言えば正面窓)は“上手い!”
の一言です。
それ以外にも車輪等のあしらいも良く、その昔、長距離電車の先頭に立ち、
風を切って走っていた時代を思い起こさせてくれました。
(東海道線でも活躍していた)
と言っても、私はそれほどその現役時代を知っている訳ではありません。
ただ、鉄道で「郵便物」を運んでいた時代そのものを思い起こさせてくれるには
十分でした。

2011年07月12日 18時42分

品川駅の「ゼロキロポスト」。

品川駅のコンコースに、何故か写真の“ゼロキロポスト”があります。
左側写真では、ゼロキロポストの天辺に「品川駅 東京駅起点6,780m」の
文字が見えますが、ここまで細かい数字の書かれたゼロキロポストは
見たことがありません。

その下の左右に何やら数字みたいなものが見えますが、
それが右側写真で、品鶴線・山手線の『0km』の「0」です。

このゼロキロポストは既に知られた存在ではあると思いますが、
私はいつもこの横を通り過ぎるばかりで、写真を撮ったのは、
東京モノレール乗車後の6月4日が初めてでした。
何せ、名古屋から東京に来るときはほぼ100%出張で、
品川駅での新幹線と在来線との乗り継ぎはいつもせわしなく、
名古屋から来た時は、目的地へまっしぐらで、一方戻りは、
1分でも早く名古屋に向かう新幹線に乗ろうとしており、
ノンビリと品川駅のコンコースを歩くなど通常では考えられないことなのです。

(ところで)
このゼロキロポストですが、まあ、正式なモノではないのですが、
それはそれとして、品鶴線・山手線の線路の位置関係ですが、
実際には「品鶴線」と書かれたサイドに山手線のホームがあり、
「山手線」と書かれたサイドに横須賀線のホームがあります。
その理由は???

2011年07月12日 8時40分

東京モノレール(4)いざっ!!空港快速乗車!

「羽田空港国際線ビル駅」発14:23の『空港快速』に乗車。
下段写真の列車案内表示の“赤い文字”が何となく誇らしげに見えました。

で、上段写真ですが、その『空港快速』ではなく、その前を走り、
私の乗った電車が「昭和島駅」で追い越した普通です。

実は、『空港快速』の到着も撮影したのですが、“可動式ホーム柵”で
車体の見え方が中途半端なのと、他の乗客の方が沢山写っており、
このブログでUPするにはふさわしくなく、結局追い抜く電車ではなく、
抜かれる電車の方を使いました。

余談はさておき、では「昭和島駅」での追い抜きは私にとって
如何なものだったのでしょう?
まずはホームが意外に狭く、“可動式ホーム柵”無しでは『危険』とも
思えましたし、何より追い抜いた普通がとても近くに見えました。
京浜急行との競争激化の中で、速達列車の必要性は歴然で、
様々な方策を考える中で、車庫の立地を生かしていると思われるこの駅での
“追い抜き”は最善の選択肢でしょう。

そもそもモノレールでの快速運転(追い抜きも)は、
日本ではここだけでしょうが、世界的に見ても珍しいか、そもそも例は
あるのでしょうか?
ひょっとしたら「世界でここだけ」なら、“楽しかろう”と思い、
「羽田空港国際線ビル駅」付け替え区間の初乗車と合わせて
今回の乗車となりました。

快速電車はスピード感もあって結構な“旅”でした。
それはきっと“空港”からの出発という「非日常」的な気分の高揚が
あったからかも知れません。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!