2012年05月11日 18時49分

「風見鶏」のある駅舎の『坂上(さかかみ)』駅は、平成の市町村大合併までは、岐阜県吉城郡宮川村(今は岐阜県飛騨市)の代表駅でした。
(宮川村の思い出)
宮川村の名前の由来は、正に高山本線沿いを流れる『宮川』にあります。その『宮川』沿いに高山本線が敷かれました。それはともかく、そんな宮川村を昭和62年の冬、「ふるさとわが町ベスト10」という東海3県の市町村を巡っていく番組のディレクターをしていた私は、取材のため2度、この村に通いました。(昭和62年3月29日放送)
ここは私の仕事の中でも特に印象が残っている市町村の一つで、人口は確か1400人ほど(昭和62年当時)で、岐阜県では揖斐郡坂内村(今は揖斐川町)よりは人口が多かったものの、山国・岐阜県にあっても人口の少ない方の村でした。
今は雪の季節ではありませんが、高山本線はこの3月までDE15のラッセルが走っていたことで知られており、それだけ行き深い土地柄と言うことなのですが、私の取材した年は正に雪の当たり年で、撮影にあたり、いつもは3日から4日だったロケ日数を増やし、4泊5日かけて撮影しました。それでも毎朝、旅館の前を除雪車がやってくるまで何ともならなかったことはよく覚えています。そんな中、旅館から徒歩で行ける撮影場所には、膝上まであった雪をラッセルしながら向かいました。
そんな冬の時期に取材に行った理由は、やはり『雪』です。そして強く印象に残り、今も覚えているのは『宮川中学校・坂上小学校』に冬の間だけの寄宿舎があったことです。
当時、宮川村では小中学校から離れた地域に降雪時、直ぐ除雪ができないこともある道路があり、そのため週末を除いて家ではなく寄宿舎で生活する小中学生が5人いました。その寄宿舎も道路の除雪作業が、速やかに行われるようになり、昭和62年3月をもってなくなることが決まっており、その最後の子供たちの様子をどうしても取材したかったからです。子供たちの思いも様々でしたが、親からは「これからは真冬でも毎日、子供の顔が見られる喜び」の声があったことが印象的でした。
東海3県は、隅から隅までと言いたくなるほど私は取材に行っており、その場所は、特急で通過してもあまり思い出すことはないのですが、普通列車で通ると何故か胸の奥から当時のことが湧き上がってくるのです。
風見鶏のある駅舎は当時木造で、駅員さんもおられました。