2012年09月08日 22時04分

「名古屋レール・アーカイブス」資料展開催中。

NPO法人「名古屋レール・アーカイブス」の第5回資料展『鉄道風景 名古屋の駅』(昭和そして平成の駅を訪ねる)を只今開催中です。

*9月12日(水)まで名古屋・栄地下街『ギャラリーチカシン A室』にて。

今日は正に今朝の中日新聞朝刊の市民版で紹介されたこともあり、1日で350人を超える方においで頂きました。ありがとうございました。

そこで今回は展示写真の中から2枚を紹介します。

上の写真は昭和39年(1964年)10月1日の東海道新幹線開業日の名古屋駅の式典の様子です。一方、下段は昭和62年(1987年)4月1日のJR発足記念式典です。JR(旧国鉄)名古屋駅で言えば、こうした式典もあれば宅配便が登場する前の時代、鉄道で運ばれる小荷物であふれる駅のホームと言った日常的なモノも展示しています。

ところで今日、ご来場頂いた方とお話していて、(このブログでは紹介しなくて申し訳ありませんが)『瀬戸電』(名鉄瀬戸線)の駅を懐かしむ声を多くの方から聞きました。「乗った」という方もいましたが、それより“お堀電車”で親しまれていたこともあり、愛知県庁、名古屋市役所、名古屋城等に出かけた際に、お堀を走っている電車を覚えているという方が多くいらっしゃいました。

(写真のお詫び)

会場で展示してある写真をそのままカメラで撮影したため、アルミフレームの写真の上にある透明なプラスチック板に会場が反射で写りこんでおり、申し訳ありませんが私自身が入っています。その点はご容赦下さい。会場で見た限り、人間の目ではそれほど写り込みは気にならないと思います。

パネルに入れる前に事前に撮影しておくべきでした。反省しています。

2012年09月08日 21時32分

「天竜浜名湖鉄道」(天浜線)文化財めぐりの旅(14)。

天竜浜名湖鉄道「天竜二俣」駅では、毎週金・土・日・月曜日+祝日の10:50~、13:50~に『転車台・鉄道歴史館 見学ツアー』が開催されています。

予約不要ということで、この日の最大のイベントは、列車を下車して12分後にスタートしました。

入場料金は100円で、見学記念硬券が発行されます。

表紙もなかなかGOODですが、硬券もなかなか味があります。ただ唯一惜しかったのは“番号”が振られていないこと。まあっ、贅沢ですね、これは。

出札窓口で100円払い、「待合室」といっても出札窓口の目の前で集合し、早速「目指せ!転車台」です。

この写真は目的地への道すがら(やや大袈裟な表現ですね)撮影したもので、いよいよ“禁断”(普通では入れないという意味です)の場所に突入です。だんだん気持ちが盛り上がっていきます。

2012年09月07日 20時54分

「天竜浜名湖鉄道」(天浜線)文化財めぐりの旅(13)。

一週間ぶりの「天竜浜名湖鉄道」です。シリーズが断続的になることが多くて恐縮です。

いよいよこの日(平成24年7月28日)のハイライト、天竜浜名湖鉄道の中心駅「天竜二俣」駅に到着です。13:38の定時に到着。乗ってきたのは左側のTH2107号。右側のホームに停車中のTH2113号は、ここ「天竜二俣」始発の新所原行き(13:46発)です。「西気賀」で行き違ったTH3501の列車が遅れていましたが、取り敢えずこの時点での下り列車は定時のようでした。

その「天竜二俣」で私を出迎えてくれたのはこの恐ろしく錆びついた駅名標です。またこのほぼ正方形の形には違和感がありますが、決して横方向を短く変形させたものではなく、これが本来のものです。馴染みが無いモノを見ると人間は何がしか反応してしまうものですが、私はこの駅名標に思わず写真を撮るという行動に出てしまいました。私の知識力の無さの証左かもしれませんが、こんな形をした駅名標を少なくとも私は見たことがありません。

てな具合で改札を出て駅舎をパチリ。この「天竜二俣駅本屋」も登録有形文化財で、そして・・・という繋がりは日本語的にはあまりよろしくないですが、この駅舎内には「ホームラン軒」というラーメン屋さんがあり、この日の昼食は「西気賀」にするか「天竜二俣」にするかは、私にとって実は究極の選択だったりしました。

2012年09月06日 21時59分

明治村の蒸気機関車と京都市電、復活!

一昨日(9月4日)の中日新聞朝刊17面(愛知総合)に「SLと京都市電 雄姿再び」の見出しが躍り、明治村での運転が再開されることが報じられていました。

一昨年(2010年)の12月に無期運休となる直前、地元だということもあり、さて乗りに行くかと思案したのですが結局諦めました。その後、正直いささか後悔し、乗りに行けばよかったと何度も思いました。無くなって初めて気づくその『価値』と言ったところでしょうか…。

 

この京都市電は昭和45年(1070年)4月29日に明治村に出かけた際に撮影したものです。

同じ日に撮影したもう一枚。この時はまだ「12号」は静態展示の状態で、明治村で再び命を吹き込まれ、動き始めたのはその4年後でした。明治村の一角に置かれていた時、別段走っていなくともそれだけでその存在は十分に“明治”であったと言えます。という感想は今、写真を見て思っていることです。

会社に入り、明治村には少なくとも5~6回、恐らく10回は取材で出かけた記憶がありますが、ここ10年以上出かけていません。それにしても取材で京都市電も蒸気機関車の列車も乗っています。ところが取材であるがゆえか一枚の写真も残っていません。とはいうもののカメラを持って下見やロケに出かけたこともあったので、明治村で活躍する京都市電と蒸気機関車の写真を撮影しなかったのは運命の悪戯かもしれません。

でもそれが遂に復活運転!!動態保存の鉄道は日本国内で各所にあるものの、明治村の鉄道の価値の高さは改めて書くまでもないでしょう。一方、これまでの自分を反省し、運転再開後は直ぐに・・・と書きたいところですが、油断しているわけではないものの、予想される初期の大ブームが落ち着いたら出かけようと思っています。

(もう一つ)

昭和45年の『1号』のナンバープレートはなぜか逆様でした。いつまでひっくり返っていたのでしょう?

 

 

2012年09月05日 22時57分

明日から「鉄道風景 名古屋の駅」展開催。

私が会員となっているNPO法人「名古屋レール・アーカイブス」の第5回資料展、「鉄道風景 名古屋の駅」(昭和そして平成の駅を訪ねる)が、明日(9月6日)から名古屋・栄地下街にある『ギャラリーチカシン A室』で始まります。

写真はその準備風景で、仕事終わりの会員が集まりました。

今回の展示写真は名古屋市内の「駅」に拘り、そして昭和の時代を確実に感じさせることに拘って選びました。(対比のために一部、今の風景も並べて展示してあります)

例えばJR「名古屋」駅の写真では国鉄「名古屋」駅時代の、しかも今はなき情景の数々であったり、その他の駅でもいつも使っているはずなのに、若い人にはとっては見たことも聞いたこともない昭和の時代の“駅”の数々がここに集まっています。また国鉄~JRだけではなく、名鉄・近鉄・地下鉄の駅も展示しています。栄での展示ということもあり、『瀬戸電』の懐かしい“駅”の風景も揃えました。

一方、平成の写真もあります。私がこのブログの「名古屋・鉄道散歩」地下鉄桜通線シリーズ(今年の7月~8月に不定期連載)で紹介した『壁画』の写真です。

この「鉄道風景 名古屋の駅」は9月12日(水)まで開催しており、時間は10:00~19:00(最終日は16:00)となっています。

お時間があれば一度お寄りください。

2012年09月04日 21時32分

市営交通9〇周年(3)。

ところで名古屋市交通局90周年の写真応募の『優秀作品』の記念品をここで紹介します。

応募チラシには10,000円相当とありましたが、メインは写真の真ん中下方にある『マナカチャージ券』(1,000円×10枚=10,000円分)です。実は『マナカチャージ券』の存在は知ってはいたものの“実物”を見たのは今回が初めてで、「これがそうかっ!」と嬉しさよりも先に思わず見入ってしまいました。「鉄」の方でもあまり見たことがないのでは?

※一部、日頃の感謝を込めて家族に分配しました。

左上のある茶色の車両のペーパークラフトは338号で、名古屋市電として最初に登場した新製車です。

左下は市バス・地下鉄の路線図、そして右側にあるのは可愛い絵柄のクリアファイルです。

写真では写さなかったのですがこの他にもストラップ(名城線2000形)を頂きました。

 

何せ応募条件が昭和40年代までと言うことでしたから、趣味とはいえ、一つ事を長く続けるのも良いものだと思う一方、単純に「趣味」を持つことの良さも実感しています。

 

2012年09月03日 20時32分

市営交通9〇周年(2)。

名古屋市交通局HPの「市営交通を楽しむ」→「市営交通資料センター」→「市営交通歴史探訪」に“花電車”の話しが出ています。そこには昭和48年(1973年)に名古屋市電最後の“花電車”が走ったとありました。昭和49年3月の市電全廃を前にした年でしたが、私は昭和48年に大学に入学しており、大学1年生がその時期に名古屋に帰るべくもなく、残念ながら最後の“花電車”を見ていません。

ところで“花電車”は昼間にも運転されていました。その写真がこれです。半逆光であまり褒められたものではありませんが、当時の私の感覚ではこれでも“良し”としていました。もっともそれは今もあまり変わりませんが…。ただ道路を走っている電車に車が被らないのは『運』に左右されるところもあり、その点だけは“良し”でしょう。

一方、日が暮れればこのようになるのですが、人間の目では街並みも見えているのですが、ノーフラッシュの写真では、と言うよりは私にはこれが限界。当時、ストロボなどいうものは私にはなく、一回ずつ球を取り替えるアマチュア用の「フラッシュ」は持っていたものの、その光量では街並みを写すのはとても無理だったでしょう。一方、三脚は持っておらず長時間露出は夢もまた夢であり、もっともあったとしてもどれ位の露光時間にするかなど経験的に知ることはなかったでしょう。何せフィルムそのものが高校生~浪人生が気楽に手を出せるものではありませんでした。と言っても当時でも『撮り鉄』の友人は「全てを犠牲にして」一枚の写真にかけていました。要はそこまで私が熱心ではなかったということでしょう。

 

それにしてもデジタルカメラの時代となり、撮影できる枚数もさることながら、少ない光量の中でも被写体を浮かび上がらせる時代が到来したのは驚嘆に値します。

 

最後に報告ですが、このブログの連載が1500回を超えました。いつ報告しようかとチャンスを窺っていた(大袈裟ですが本音です)のですが、私のプロフィールにあるように「路面電車」が好きになったのは間違いなく高校通学で毎日乗っていた名古屋市電のおかげだと思っており、このタイミングで皆様に伝えることにしました。

ブログを始めたきっかけは制作番組「芸能界鉄道研究会 鉄研」ですが、ここまで続けてこられたのは読んでくださる皆様のおかげです。ありがとうございました。

2012年09月02日 20時34分

市営交通90周年(1)。

大正11年(1922年)、当時の名古屋市電気局が名古屋電気鉄道から名古屋市内の区間を買収し、名古屋市電として『名古屋の市営交通』の歴史が始まりました。そして時が流れ、今年は90年と言う節目の年となりました。

今回、名古屋市交通局ではその90周年の記念イベントの一つとして、広く市民に昭和40年代までに撮影された名古屋市電や市バス・地下鉄の写真を募集しました。この写真はそれに応募した私の写真で、昭和47年(1972年)10月15日に撮影した花電車です。

場所は「桜山交差点」(停留所名は「市立大学病院」)で、今の地下鉄桜通線の「桜山」駅のある場所。

余談ですがもともと「名古屋市立大学病院」という“病院”は今の「名古屋市博物館」の場所にあり、移転前の場所にあった電停名は「市立大学病院前」と記憶しています。

この写真を撮影した当時の電停名「市立大学病院」は、そもそも「桜山町」を名乗っており、私にとっては昭和47年当時も“桜山”の方がしっくりしていました。(バス停には平成24年の今も「市立大学病院」の名があります)

 

さて私事で恐縮ですが、思いもかけず今回の写真は、名古屋市交通局の写真募集で“優秀作品”5点の内の1点に選ばれました。8月22日発行の中日新聞(名古屋市民版)、8月23日の読売新聞をご覧になった方もおられるかと思いますが、中日新聞には私の名前も出ており、知人から連絡も頂きました。

 

既に愛知県日進市にある「レトロ電車館」では全応募作品が展示されていますが、今日から地下鉄「今池」駅(桜通線の改札近く)でも展示が始まりました。こちらには私も名前付きで写真が出ています。

写真について一言。ピントは先頭車ではなく、よく見ると分かるのですが、三両目の今まさに、交差点を曲がっている電車に合っています。夕刻であり、明かりが足りないことから全体にピンが来るまで絞れず、被写界深度が浅くなることは分かっていました。

そのため、どこにピントをどこに置いておくかが思案の為所だったのですが取り敢えず交差点を右折するために顔を出す電車を狙いました。何せ3両がセットで運転されているのは承知していたのですが、どんな風に回ってくるかは皆目見当が付かず、何もかもが私にとって新しい挑戦でした。結果論からすれば、先頭車の正面にピントがくっきり合っていた方が良かったのでは?ということはあったものの、電車の走りに合わせてピン送りをするような写真は(当時も今も)私の技量で撮影できるはずもありません。もっとも今改めてこの写真を見てみれば、主役の“電飾花電車”がくっきり見えているのでそれはそれで良かったのではと思っています。

そんな迷いもある写真でしたが、それでもこの写真で応募したのは、左側に停まっている『51系統』の電車も含め、往時の花電車の走る“街”を感じることができるのではないかと思ったからです。

なお、撮影の時間と場所選びですが、一応、電飾がついてかつ街並みも写るであろう時間を考え、かつ3両を縦位置に並ばせないことも念頭に「桜山交差点」南にある歩道橋から撮影することは決めていました。

何故かこの一枚だけはそんな当時のことを鮮明に覚えています。不思議です。

最後にこの写真をお選びいただいた名古屋市交通局の方々に感謝します。

2012年09月01日 21時46分

「天竜浜名湖鉄道」(天浜線)文化財めぐりの旅(12)。

「西鹿島」多分着発13:33。ここは遠州鉄道とのジャンクションです。どのタイミングで「シャッターを押そう」等と考えるまでもなく、取り敢えず1枚。というか今回の遠州鉄道の写真はこれだけです。天浜線の「西鹿島」駅からは駅の構造上、『遠州鉄道』側の風景は見えませんでした。それ故かなり必死だった結果がこの写真です。

 

“国鉄”二俣線に最初に乗車したのは、昭和51年(1976年)6月27日で、区間は「西鹿島」~「新所原」間です。この日、東京から一時帰宅する途中で遠州鉄道全線「新浜松」~「西鹿島」間を乗っており、その終点「西鹿島」から二俣線に乗ったのです。そして二俣線の残りの区間「西鹿島」~「掛川」間は結局、昭和54年9月16日に乗りました。この時の遠州鉄道の乗車は相当に思いつきだったようで、実は短期間の帰省にはカメラを持っておらず、今現在、写真が見つかっていないという状況ではなく、そもそも写真を撮った覚えがありません。その代わり車内補充券を購入しています。

注目は「新浜松」の下にある「馬込」「遠鉄浜松」の駅名。遠州鉄道は昭和60年に浜松市の中心部の路線を高架化されており、その時に無くなった駅名です。私はその後、昭和61年(1986年)10月5日に「新浜松」~「曳馬」間を乗り直しています。私の「乗りつぶし」ルールでは、通常“線路の付け替え”による乗り直しはしないのですが、流石にこの区間は『新線扱い』で乗りに行きました。

因みにと言うほどでもないのですが、遠州鉄道に最初に乗った昭和51年当時は、“鉄道全線完乗”等と言う野望はまだ持っていませんでした。だからカメラを持ち歩いていなかったとも言えます。

(注)

「馬込」駅は、始発駅を出た次の駅がスイッチバックというのが珍しく、当時、毎度新幹線で「東京」~「名古屋」を往復する経済的な余裕が無かった私は、在来線の車窓からその風景をいつも興味深く見ていました。今思うと写真が無いのが残念です。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!