2013年02月18日 21時15分

1991年のドイツ(3)ヴッパータールの元祖モノレール。

1991年10月19日(土)はデュッセルドルフからほど近い、ヴッパータールの町に向かいました。

目的は世界最古のモノレール「ヴッパータール空中鉄道」です。1901年の開通でこの写真の撮影時で90年、今では1世紀を超える歴史があります。ランゲン式と呼ばれる懸垂式モノレールで、日本初のモノレールが上野動物園内に開通したのが1957年ですからそれを遡ることは半世紀以上前からもうこのヴッパー川の上を走っていたことになります。

川の上をモノレールが走る風景は思いのほか雄大で美しく、かつ橋げたが大きな山型というユニークな構造で、更に言えば乗っていて目の下に構造物が何も見えないのはモノレールならではです。

ここを訪れた理由は、1980年代後半に入り、日本国内で都市型モノレールの開通が相次いでいたこと。私には当時、モノレールという選択をするという必然はどこにあるのだろうという疑問がありました。

とまあ小難しいことはさておき、まずはホームに上がり電車を待ちこと暫し。思ったよりも小さい電車がやってきました。

車内は見た通りやはり狭く、一旦作ってしまうと、軌道の間隔を広げるのはモノレールではまず不可能でしょうから、これからもこの大きさの列車が走り続けることになりそうです。

 

(参考資料)

今回、Wikipedia「ヴッパータール空中鉄道」を参考に書いていますが、1991年当時、ここに行こうと思ったきっかけとなった書籍か何かがあったはずなのですが、何も見つかっていません。情けない…。

2013年02月17日 8時54分

SLあおなみ号の運行記念

「SLあおなみ号」に名古屋市がどれほどの取り組みをしているかということが、結構感じられたこの1週間でした。今日1日、盛況のうちにこの実験走行が終わるのを祈るばかりです。

これは「ささしまライブ24」地区の観覧場所で頂いたシールとボールペン。

会場では鉄道グッズの販売も行われていたのですが、その横で「SLあおなみ号」と「あおなみ線」についてのアンケートを行っているテントがありました。「ご協力ください」と呼びかけられるままそこに入り、アンケート用紙に記入しました。そしてアンケートと引き換えにシールをもらい、「成程、こんな記念品を作ったんだ!」と思いつつボールペンを返そうとしたらそれも記念品ということで、私は驚きつつ有難く頂戴しました。

そこには「SLあおなみ号」運行記念 平成25年2月16日、17日」という文字とともにこの列車のイラスト+いつものあおなみ線の電車のイラストがありました。

観覧場所からの帰途、こんなに人がいるのをかってこの駅で見たことがない!と思ったあおなみ線「ささしまライブ」駅から1駅、「名古屋」駅で降りて改札を抜けたキヨスクの壁にこんな看板を発見!単なる案内看板かそれとも記念撮影スポットかは分かりませんでしたが、ここで子どもたちの写真を撮る方が途切れることはありませんでした。

この大きさですが、下から上までで恐らく2メートルはあったと思います。

2013年02月16日 21時02分

SLあおなみ号、快走!

2013年2月16日(土)、SL実験走行がいよいよ始まりました。

朝9:50、1986年以来の蒸気機関車の汽笛が名古屋の街に響き、そしておもむろに煙が上がり、それがゆっくりとささしまライブ24地区の観覧場所に近づいてきて、9:53に私の目の前を通り過ぎていきました。

撮影場所は、実はフェンスの外側の歩道にあたるところで、撮影の規制があるかと思いきや、そんなことはなく周りの人と融通しあって撮影しました。またこの写真で左隅の方に某テレビ局のカメラが三脚を高くして頭一つ抜けていたのですが、誰かが「少し下げてください」とお願いしたようで、通過の5分ほど前に高さを下げて、かつその局のスタッフの方が私たちの方までやって来て「この高さなら大丈夫ですか?」と聞いて回っていました。少し嬉しい出来事でした。

ところで場所の選択ですが、名古屋の高層ビル群を背景にすることは最初から決めていたので、それなりにいろいろな場所を見て回った上でここにしています。また会場にいる人は写りこんでしまったのではなく、写りこませるつもりでした。ある種、記録写真を意識しています。

ところで今回の規制状況ですが、これは「ささしまライブ」駅のところにある跨線橋の上り口にあった看板です。

こちらは「ささしまライブ」駅から西に向かう道路(というより通路)の規制の案内で、どんな通行券なのか思わず見たくなりました。

最後に駅の改札窓口の貼り紙。今回、あおなみ線に入場券がないのを初めて知りました。

 

2013年02月15日 20時31分

「SLあおなみ号」試運転時の出来事。

平成25年2月13日午後2時頃、向野橋を歩いていたら、名古屋車両区にキヤ97がいました。普段ならもっと注目を集めるのかもしれませんが、この橋の上にいる方たちの目的は「SLあおなみ号」の試運転ということもあり、写真を撮っていたのは私だけ?と思うような状況でした。もっとも私の到着以前にきっと撮影していたのでしょう。

この写真を撮影し終えると同時にエンジンがかかり、おもむろに出発していきました。

さてこちらは14:17頃、名古屋に向かって走る試運転列車です。あおなみ線の電車と貨物の共演は、まるで饗宴(今一つ洒落になっていませんでした)のようでした。C56が小さいのが少々残念ですが、まあ私の撮影場所からすればこんなものでしょう。

そして振り向いて、後ろ打ちです。DD51875がここまで移動してきました。このシーンを撮ろうと思っていたわけではありませんでしたが、何だか得した気分です。

この写真、撮影時間は15:29です。よ~く見ると一寸不思議。実はこれ、名古屋駅を出発した列車ではなく、名古屋駅に向かう上り列車で、複線の向こう側を走っています。煙の向きが左から右に流れているのは、速度が遅い中で風が強かったことによります。

ともかく明日・明後日が本番。今はただただ成功裏に、そして無事に終わってほしいと、名古屋市民として願っています。

もし明日・明後日、SLを見に行けない方は18日(月)の夕方の中京テレビ「キャッチ!」をご覧ください。名古屋への回送から、たっぷりと放送の予定です。

私は…と言うと、どこかで汽笛と煙の匂いを楽しもうと思っています。

2013年02月14日 21時43分

実験走行!!あおなみ線をSLが走る!

今週末の16日(土)、17日(日)の2日間、C56160の牽引する列車「SLあおなみ号」があおなみ線を走ります。今更ここで書く必要もないくらいですが、やはり名古屋の一大イベントですのでUPさせてもらいます。

撮影したのは昨日の試運転の時で、撮影場所は「向野橋」、時間は14:40です。試運転は昨日と本日の2日で5往復ずつ行われ、あとは本番を待つだけとなっています。

この場所では多くの「鉄」の方プラスちらほらと“一般”市民の姿もあり、市民レベルの関心の高さを感じました。そうそう、ここの直ぐ西にある「黄金陸橋」の 上にも結構人が出ている感じでした。

こちらはあおなみ線「ささしまライブ駅」西側の場所。 時間は15:51頃です。実は前の写真もこの写真も中京テレビの撮影クルーに同行しています。

今回の『実験走行』を前に取材スタッフと撮影場所の相談をしたのですが正直、あまり思いつきませんでした。

11日の回送については長時間停車の「米原駅」、「木曽川駅の北」(定番スポット)などなどを話しつつ、試運転では「ささしまライブ駅」周辺、「向屋橋」、「黄金陸橋」、本番で公開される「九重地区」しか思いつかず、どこか俯瞰で街中を走りゆくSLをズーっと追いかけらえる場所はないモノかと思案したものの結局そこは飛び道具(ヘリ)に任せようという結論になりました。

放送の方は、とりあえず今日の夕方18:15からの「キャッチ!」の中で、今日正に行われたマスコミ公開での取材を中心に、名古屋市内を走る昭和30年代のSL列車や、昭和61年の「愛知の鉄道100年」で武豊線等を走ったC56160の映像を紹介しました。

ところで今回スタッフがいろいろ調べて分かったのですが、C56160のナンバープレートの地の色は黒ですが、「愛知の鉄道100年」の時は赤だったんですね。

また所属札は今回は「梅」ですが、100年の方では「名」でしかも独特の文字になっていました。ただ今回、そのあたりはあまり話題になっていません。

最後にこの「SLあおなみ号」は週明けの18日(月)にも「キャッチ!」の中で大特集をする予定です。是非、ご覧ください。

2013年02月13日 22時12分

1991年のドイツ(2)ケルン到着。

そう言えば1991年当時、市街地と郊外を結ぶ路面電車の事を「シュタットバーン」と言っていたと思いますが、最近はトラム・LRTと言う言葉に集約されているような気がします。

※ドイツの都市には「Sバーン」という電車が走っていますが「シュ」と言っても「Sバーン」の「S」ではありません。

さて、このブログを書くために今日、ルフトハンザ航空の日本語サイトを見たら「ニュールンベルグ」ではなく「ニュルンベルク」でもなく「ニュールンベルク」となっていました。外国の地名はまことに奥が深いと思いつつ、デュッセルドルフ空港までは1時間ほどのフライトで、確かそのまま宿泊先のホテルに荷物を預け、予定通りケルンに向かいました。

ここからが今日の本題で、今でも十分近代的デザインといえるケルン中央駅に降り立ったのは確か午前中です。

その真ん前には巨大と言う表現がぴったりの「ケルン大聖堂」が聳えており、まず目の前に飛び込むのがこの風景。

そして少し回り込むと大聖堂の正面になります。ところでこの地を訪れた目的はこの大聖堂の見学ではなく、勿論大聖堂の中はゆっくりと時間をかけて見学しているですが、ケルン中央駅の地下から出ている“首都”「ボン」行きのシュタットバーンに乗ること。

ドイツ有数の大都市から、人口規模は小さいものの「西ドイツ」~「ドイツ」の当時、首都だった「ボン」に、国鉄ではなく、路面電車に乗って向かうというそのシチュエーションが気に入ったというより『気になった』というのが正解でしょう。

日本では比較できる存在がないのですが、感覚的には阪堺線とか、もしくは阪神・国道線だったり西鉄・北九州線に通しで乗るようなモノと言ったところでしょうか?

2013年02月12日 22時15分

1991年のドイツ(1)ニュールンベルグから飛行機???

1991年10月18日。さてニュールンベルグに着き、ここからデュッセルドルフまではどこをどうやって移動しようかと思いつつ、ホテルを変更しようにもそんな英語力はなく、ドイツ語に至っては「ありがとう」しか知らず万事休す。そんななんやかやで取り敢えず「ニュールンベルグ」駅に降り立ってみたら、どうやら「デュッセルドルフ」に行く飛行機が8:00にあるのが分かりました。

そして「ニュールンベルグ」空港に直行。空席があると聞き、直ぐに搭乗手続き。そしてそそくさと搭乗。

思いがけない、そして後にも先にも一回限りのドイツ国内の飛行機の旅はこうして始まりました。眼下に広がるニュールンベルグの町に一旦別れを告げ、「鉄道博物館」への再訪を誓いました。

町のシンボル、送信塔(テレビ塔)が「待ってるよ」と言っているような気がしました。(画面の真ん中のマッチ棒みたいなものなのですが…。)

ところでこの「デュッセルドルフ」行きの便の最終目的地はイギリスの「バーミンガム」。面白いと思ったのはつまりこの便が国内線だけど国際線ということで、回りくどい言い方ですが、私のようなデュッセルドルフまでの乗客ではなく、バーミンガムまでの乗客はデュッセルドルフで降りることもなく、何というかあたかも国内線の経由便の如くでした。まるで国際列車の「国内区間」に乗車した気分でした。

2013年02月11日 19時38分

1991年のコペンハーゲン~ニュールンベルグ(ドイツ)。

1991年10月17日、日本を出る時の予定では、コペンハーゲンからはドイツのケルン行きの夜行列車に乗るはずでした。

ところがストックホルム駅の切符売り場で乗車希望日のその列車の一等寝台が満室!とのこと。そこで止む無く行先を変更。(30分以上、駅で悩んでいました)

思案に思案を重ねた結果、同じドイツでもニュールンベルグ(私のメモではこの読みですが、wikipediaをはじめ「ニュルンベルク」の方が多そうです。)を目指すことにしました。これでコペンハーゲンで4時間少々あったはずの余裕が無くなりました。

(当初)

「コペンハーゲン」着16:50

「コペンハーゲン」発21:05のケルン行き

(結局)

「コペンハーゲン」着16:50

「コペンハーゲン」発19:05のミュンヘン行き

※時刻は全て定時の場合で、実際にどうであったかのデータは残っていません。

話しが飛んでしまいますが、翌10月18日はデュッセルドルフのホテルが予約してあり、夜行を降りて朝一番からケルン市内をゆっくり回るつもりだったのですがそれは半ば諦め、取り敢えず夜行列車でゆったり眠り、朝もやの中を疾走しながら朝食を摂るという細やかな“夢”を叶えることにしました。

何せコペンハーゲンまでの列車は「ハンブルグ」行きで、その終着駅到着時間は22:31だったので、下車後、ホテルを捜す…という選択肢もありました。

デンマークからドイツへ連絡船(フェリー)で渡るルートは、俗に「渡り鳥コース」と呼ばれ、当時、地上交通の大幹線となっていました。そして連絡船の中には当然のように両替所(銀行)がありました。またヨーロッパは当時でも消費税(付加価値税)が高かったことから船の中の免税店は大いに賑わっており、しかも日用品の品揃えが良かったという微かな記憶があります。

ところで乗車した夜行列車は、船内では保安上の理由から船に降りられる出入り口が限られ、1等寝台車からは降りられず隣の2等車に階段が置かれていました。

なお、1等寝台車入口では車掌さんがいてズーッと乗客の部屋を監視しており、安心を与えてくれていました。

そして車両はこんな風に固定されており、この取り付け金具は連絡船に乗らない車両にはないのか、それともそもそも一般的な車両にもついているものかどうかが気になりました。

2013年02月10日 20時34分

1991年のスウェーデン・ヘルシンボリ~コペンハーゲン。

スウェーデン「ヘリシンボリ」からデンマーク「ヘルシンゲル」までの航送区間がいよいよ始まります。

私の乗った客車を連絡船の押し込んだ「616」のナンバーをつけたDLが徐々に離れていきます。20年以上前の記憶なぞとうに無くなり覚えているはずもないのですが、この写真を見ていたら不思議にその時の感情が蘇ってきました。

そして船は岸壁を離れていきます。日本なら「蛍の光」の音楽が鳴り、銅鑼の音が鳴り響くのかもしれませんが、、、すいません。これは私の単なる大型客船の出航のイメージです。

それにしてもこの「ハンブルグ」行きは、この先、デンマークからドイツへの国境越えも連絡船に乗せられて向かう列車で、何と1本で2度美味しいという某お菓子メーカーのアーモンドチョコレートのような存在でした。窓越しに見た客車と海の風景は何とも旅情が溢れています。因みに私が乗っていたコンパートメントには、私同様にユーレイルパスで旅をする悠々自適となり気ままな旅をするアメリカ人女性の2人連れと、「仕事は世界中にある」と言っていたとコンピュータプログラマーの若いブラジル人男性でした。拙い英語の会話でしたが、それが出来たのも私が若かったんだと思います。それにしてもスウェーデン人もデンマーク人もいないとは考えようによっては凄い!

おまけの1枚。連絡船内では客車から下車できます。そこにはこんな階段がありました。ところで私の記憶では「ヘルシンゲル」でも写真を撮影しているはずなのですが、何故かネガもポジも見つかっていません。やっぱり撮っていなかったのかも知れません。

2013年02月09日 17時44分

自戒と反省の日々。

写真は、ストックホルムから乗車した「X2000」をヨーテボリ下車直後に撮影したものです。撮影した時間が昨日UPした写真より巻き戻っています。

ところで今日の タイトル「自戒と反省の日々」ですが、私はこのブログを書いた後2~3日して、もう一度読み返しています。実は日本語の「てにをは」の間違いや、内容に影響の少ないと思われる一寸したミスは時折それで見つけ、時には人知れず直し、一方で明らかな間違いはこのブログ本記で誤った部分について訂正させていただいています。

今回の記事は、そうした明らかな間違いであることに気付いたので、ここで訂正するとともにお詫び申し上げます。

問題の記事は一昨日の『当時、スウェーデンからドイツに鉄道で抜ける最短ルートは「ストックホルム」~「ヨーテボリ」~「コペンハーゲン(デンマーク)」~「ドイツのどこかの町」』という部分です。

(今回の私のルート)

まず今回私が乗車した列車ですが、「ストックホルム」06:30発「ヨーテボリ」着09:55(3H25M)

「ヨーテボリ」発12:12「コペンハーゲン」着16:50(4H38M)

※合計時間で8H3M。

(1991年当時の一般的な「ストックホルム」から「コペンハーゲン」に向かう列車のルート)

1日に数本ある直通列車は「ヨーテボリ」を経由してしません。例としての直通列車の時刻は次の通りです。

「ストックホルム」発6:42「コペンハーゲン」着14:50(8H8M)

●以上から、この列車対比での『乗車時間』は、X2000という飛び道具に乗っているので「ヨーテボリ」経由が短くなっていますが、乗り継ぎ時間を考えれば直通列車の『所要時間』には絶対に勝てません。つまり「最短ルート」が「ヨーテボリ」経由とするのは明らかに間違いでした。

これに懲りず今後ともお付き合いいただければ幸いです。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!