2013年05月13日 22時32分
昭和49年2月8日、上野駅を20:50発の201レ急行「十和田2号」で旅だった私は、青森に翌朝9:30に到着(定刻は9:04)。
10:30発(定刻は10:15)の連絡船大雪丸に乗船し、函館の地に15:05に上陸しました。生まれて初めての北の大地、そこは白一色の世界でした。(もっとも東北本線から白一色でしたが…。)
最果ての地、稚内に到達したのは昭和49年2月13日のこと。
その前日、私は三浦綾子の小説「塩狩峠」(実際にあった鉄道事故を元にしていました)で有名となった宗谷本線「塩狩」駅近くのユースホステルに宿泊。
明けて2月13日、既に有名だった「ピップエレキバン」と同じ名前の駅名という事で知られていた宗谷本線「比布」駅まで、それを確認するためだけに一旦南下し、そこから11:52発(定刻11:46)の321レ(SL牽引)に乗車。美深に14:12(定刻13:56)に到着し、ここから303D急行「天北」に乗り継ぎ。「天北」は14:18(定刻14:06)に出発し、今は無き列車名通りの天北線を経由して稚内には17:25(定刻17:18)に到着しました。
2月14日は稚内で一日を過ごしており、道なき道をラッセルしながら稚内公園に登り、まずは「氷雪の門」を見ました。(今も冬場は除雪されていないと聞いています)
その場所からは街並みを見下ろすことができ、左端には「北防波堤ドーム」が見え、そのすぐ右側には貨車がいるのも見えました。
この後、日本最北端の地、「宗谷岬」をバスで往復したのですが、バスを下車したものの地吹雪に行く手を阻まれ、バス停の待合所から一歩も動けず、折り返しのバスの到着までひたすら耐えていたことを覚えています。当然、写真は一枚もありません。