2013年10月05日 21時24分
宮城県南三陸町の結婚式場「高野会館」。
地震発生時には老人クラブの発表会が行われていました。
ここでお話しを聞いたのは後藤一磨さん。今、南三陸町の「語り部」をされています。津波で街が消えてしまったこの地で、訪れた人にその体験を話すことで3.11を忘れ去られないように、そして2度と同じことが起きないようにとの願いを伝えています。
高野会館にも津波が押し寄せました。その跡が3階から4階に上がる階段の途中に残されています。
でもこの建物全てが津波に呑みこまれることはありませんでした。地震発生時、建物の外に出ようとする利用客を従業員は、「この建物は津波の力に負けない強さがある」として利用客をここに押しとどめ、その結果約330人全員の命が救われました。
一枚目の写真では一見、何事もなかったような建物ですが、内装は滅茶苦茶に破壊されています。しかし建物そのものはしっかりと原型を留めていました。
屋上から見た南三陸町はまっ平らな更地が広がっており、ここが被災地であるという知識がなければ、まるで新しい工業団地の造成地であるかのような感じです。
高野会館の周囲にあったまるで地面から生えたような鉄筋。ここに建物があり、そこには生活があった…、それが『瓦礫』となった証拠は足元にもありました。
東日本大震災から2年半。私の「復興」と言う言葉のイメージは「生活の場所が再建されていく」ことです。でも被災地の現実は、「復興途上」ではなく、今もまだ「復興への準備」段階ではないかと思うほどです。
被災地から離れて暮らす私の頭の中にある「東日本大震災」の記憶。それが薄れていく『風化』が、確実に進んでいたことに気付かされました。
※『瓦礫処理』と言う言葉は、私は好きではありません。阪神・淡路大震災の時、私は延べ20日間ほど神戸市内で取材をしていました。その際、傾いた高層住宅が取り壊される現場にも立ち会いました。安全面から使えなくなった建物を瓦礫として処理していく作業だったのですが、上層階の部屋から家具や電気製品、本…ほんの少し前まであった『生活』が、何故かスローモーションの映像を見ているが如く落ちていきました。
多分その中には写真のアルバムもあったでしょう。
仕事では自分も「震災瓦礫」と普通に使います。でも気持ちだけは「思い出」「生活」をもう一度作るために必要なこと…、本当にそう割り切れるものとは思えないものの、でもせめてそんな気持ちを持って言葉(原稿)にしていたつもりです。