2013年10月06日 20時16分
東日本大震災の発生時に防災無線で『大津波警報が発令されました。高台に避難してください』と呼びかけ続け、多くの命を救ったものの、自身は津波の犠牲となった南三陸町職員の女性の存在は恐らく多くの人の記憶に残っているでしょう。
南三陸町防災対策庁舎。女性がいた建物です。今は骨組みだけが残っていますが、私たちが訪れた9月26日に解体が決まりました。震災遺構として残す計画もあったのですが、残すかどうかは地元(住民)任せ。国や県が方針(保存費用を含む)を示さなかったこともあって今回の結果に繋がったようです。
南三陸町志津川字塩入。防災対策庁舎の住所です。塩が入る場所だとして、ここに『防災対策』庁舎を作ることについては、計画時に町議会でも異論(高台に作るか更に高い建物にすべき)があったそうです。でも結局ここに3階建てで作られました。
津波に襲われたこの建物は先端のアンテナ部分を残して水没し、それでも10人が助かったものの屋上に逃げていた多くの方が犠牲になりました。
南三陸の町には縄文時代の遺跡が幾つかあるそうですが、その遺跡には津波は到達しなかったそうです。情報の後世への伝承が困難であったであろう時代にあっても、ここに住んでいた縄文人は恐らく津波の怖さを知っていたのではないかと感じた人も多くいるそうです。
「人は自然が許してくれる範囲でしか生きてはいけない」。それが「語り部」後藤一磨さんの最後の話しでした。