2013年10月12日 20時46分

東日本大震災からの復興と風化(11)カレーライス。

一昨日の女川の俯瞰写真は、女川町地域医療センターがある高台から撮影しました。

そこにあったカフェと言えば良いのかな?何となくノンジャンルのお店「おちゃっこクラブ」。ここにはスパゲティーやカレーといった軽食があり、この日(9月28日)の昼食は、女川町観光協会が作った「女川ガイド」(女川は新しく生まれ変わる)を読みながらカレーライスを食べました。

女川での滞在時間は10:47着で12:10に代行バスが発車するまでの僅か1時間半ほどでしたが、目的の3つの建物は見ることが出来ました。

ただ現時点の代行バスの終点は、女川町役場の仮設庁舎のある高台の場所で、JR「女川」駅のあった場所までは歩いて10分ほどかかります。代行バスで来て女川を歩く人はあまりいないと思われ、歩行者向けの案内表示はあまりありません。行かれる場合は事前に情報を仕入れておくことをお勧めします。

女川からバスに乗り、浦宿へ。「がんばろう!女川」の看板を見つつこの地を去ることになりました。

(私の乗る列車が駅に着こうとしています)

女川~浦宿間の代行バスの所要時間は10分。12:20に到着し、12:27発の石巻線小牛田行きの乗客となりました。

内海である万石浦は穏やかに輝いていました。

2013年10月11日 22時47分

第20回「鉄道の日」イベント(時を越えて走り続ける中部の鉄道)

10月14日(月)は「鉄道の日」。

今更ここで説明するまでもないのですが、明治5年(1872年)10月14日に新橋・横浜間で日本初の鉄道が開通したこ とを記念して、平成6年に当時の運輸省が10月14日を「鉄道の日」と定めたも のです。(国土交通省中部運輸局鉄道部のHPから転載)

ということで名古屋でも金山総合駅を中心に様々なイベントが催されます。

主なイベントは明日(10月12日/土)、明後日(10月13日/日)を中心に行われますが、金山第3会場である金山南ビル11F「名古屋都市センター」では引き続き、来週末(10月20日/日)まで様々な展示が行われます。

●日程:10月12日(土)~10月20日(日)

●開館時間:水・木曜日10:00~18:00

金曜日10:00~20:00

土・日・祝日10:00~17:00

休館日15日(火)
●展示内容:

① 「中部の鉄道車窓二十選フォトコンテスト」入賞作品展示

② 「中部の鉄道今昔」写真パネル展示(提供 名古屋レール・アーカイブス)

③ 鉄道を描いた作品展示(提供 阿部 繁弘先生、近藤 幸先生)

④ 園児による鉄道のある絵画展示(あけぼの保育園園児の皆様)

⑤ 鉄道関係DVD映像放映コーナー(提供 (株)動輪堂/ビコム(株)

⑥ 沿線観光PRコーナー

私が会員となっているNPO法人名古屋レール・アーカイブスでは上記の②「中部の鉄道今昔」写真パネル展示に協力させて頂いています。

 

今回は、名古屋レール・アーカイブスではかえって珍しい最近撮影した写真を中心にしていますが 、こんな懐かしい写真も展示しています。撮影エリアは愛知・岐阜・三重・静岡・福井の5県にまたがっており、名古屋で「鉄」活をされる皆様には足をお運び頂ければ幸いです。

2013年10月10日 21時40分

東日本大震災からの復興と風化(10)女川。

浦宿からひと山越えた先の女川の市街地。そこには何もありませんでした。

地形によって津波の被害は本当に差があります。津波の被害をあまり受けなかった浦宿から女川までの距離はJRで2.5キロですが、それ以上の遠さを感じました。JR石巻線「女川」駅はこの写真のほぼ中央にあったはずですが今は整地されてどこに駅があったかすらわかりません。JR石巻線女川駅は内陸部に移設され復旧されるそうですが、時期についてはまだ明言されていません。

上の写真にも少しだけ見えていますが、この横転した建物は昭和55年に作られた「女川交番」。

市街地のあったこの地域には“震災遺構”として今、3つの建物が残されており、それぞれの場所には建物の解説をした案内板も設置され、被災地の現状を知ることが出来ます。

この女川交番には「原位置付近で転倒しており、津波の引き波により転倒したと考えられます」とありました。

「女川サプリメント」。昭和40年代の建築と推定されており、震災までは商業店舗として利用されていたとのこと。この建物も津波の引き波で転倒したそうです。

先の女川交番と合わせ、押し寄せる「津波」の力で倒れたのではなく「津波の引き波」の力で倒れた建物が実際に残っている事例は少なく、貴重な震災遺構として後世に伝えられないかと言う声も多いそうです。

※「引き波」が原因とされているのは、建物が海側に倒れているからだそうで、確かに稀有な例なのでしょう。

こちらの建物は「江島共済会館」。昭和50年代の建築と推定されており、津波により元の位置から10~16メートル移動しています。土台部分から根こそぎ持っていかれたことが本当によく分かります。

ここ女川の街では観光バスで視察(見学?)に来ておられた団体さんも見かけました。所謂『観光』とは別物でしょうが、地震国であり津波に見舞われることのある「日本」に暮らすものとしては「被災地観光」という選択肢はあっても良いと思っています。

2013年10月09日 19時08分

東日本大震災からの復興と風化(9)石巻線貨物と列車代行バス。

石巻線は1日8本の貨物列車が設定されています。(毎日運転されない列車もあります)

石巻港始発の650レとは前谷地駅で交換。もっとも貨物列車のダイヤを事前に調べていてこの写真を狙って撮影したわけではなく、気仙沼線の接続が無いにも関わらず4分停車だったので、ひょっとして!と思いホームで待っていたらやはりやって来ましたDE11の牽くコンテナ貨物が!

石巻線に初めて乗ったのは昭和51年(1976年)9月10日。その頃は日本中どこでも、貨物列車という存在はすれ違っても何の感慨もありませんでした。こうして地方路線の貨物列車に目が向き、思わず嬉しくなってしまうのも、平成の世ならではかもしれません。

ところで石巻線の沿線は田んぼが広がっており、この季節は稲が刈り取られた跡が気持ちよく続いています。こんな風景の中をのんびりと旅することが出来るのは本当に幸せなことだと感じていました。

石巻線の現時点での“終点”浦宿駅。修復工事をした関係でまるで新線の駅のようですが、ホームのある部分の先の線路は、ご覧のように線路上に草が生い茂り、もう長い時間、そこを列車が走っていないことを教えてくれました。

女川駅に向かう列車代行バスは、浦宿駅の目の前から出ていました。私が乗った10:37発の707便の乗客は私を含め2人。もう一人の方、70歳は優に超されたと思われる男性は抱えられるだけの花を手にされていました。

2013年10月08日 22時07分

東日本大震災からの復興と風化(8)石巻線マンガッタンライナー。

9月27日(土)は仙台市周辺の石巻線・仙石線の列車代行バスと常磐線浜吉田駅を訪ねました。

まずは仙台を8:01に出る525M一ノ関行きに乗車し、小牛田には8:45の定時に到着。

ここから9:27発1631D「石巻線マンガッタンライナー」浦宿行きに乗車。キハ48-503+キハ48-1513の2両編成。石巻線の「石巻線マンガッタンライナー」は今年の3月23日から毎週土・日に運転されているもので、萬画家・石ノ森章太郎氏のキャラクターのマンガが車体の全面に描かれています。

(参考;JR東日本HPから転載)

・気動車 キハ48-503(右側の車両)

「車両正面」009RE:CYBORG

「車両側面」仮面ライダー、ロボット刑事など

・気動車 キハ48-1513(左側の車両)

「車両正面」サイボーグ009

「車両側面」シージェッター海斗、ドンキッコなど

車内の啓発ポスターも「石巻線マンガッタンライナー」らしさを発揮しています。

 

宮城県石巻市には萬画家・石ノ森章太郎氏の記念館「石ノ森萬画館」があり、石ノ森氏作品の原画などが展示され、人気のスポットとなっています。この縁で元々仙石線(あおば通~石巻.現在は震災の影響で高城町~陸前小野間は不通.代行バスが繋いでいる)に「マンガッタンライナー」が登場し、今春から震災復興・観光振興の一環として、JR東日本仙台支社と石巻市との共同事業によりこの「石巻線マンガッタンライナー」が登場しました。

2013年10月07日 22時02分

東日本大震災からの復興と風化(7)大川小学校。

宮城県南三陸町から石巻市へ移動。

日本で一番長い鉄道橋は東北新幹線「第1北上川橋梁」というのは聞いたことがあっても、その北上川が宮城県石巻市で海に注いでいることは知りませんでした。

その河口から数キロ上流の川沿いに「大川小学校」はあります。この場所は標高1メートルとのことで、ここで全校児童108名の内、74名と教職員10名とスクールバスの運転手1名が死亡・行方不明となりました。メディアに大きく取り上げられた被災地の一つです。

ここではお子さんを亡くされたお母さんと、お子さんが助かったお父さんの2人の方のお話を聞くことが出来ました。

大川小学校では地震発生後、30分以上も児童は校庭に留まり、逃げ始めた時に津波に襲われ、その結果多くの犠牲者を出したことまでは知っていました。しかし、今回保護者の方から本当は助かった命だったかもしれないことを聞きました。でもまだ石巻市教育委員会・文部科学省による真相究明は途中段階で、結論は出ていません。

 

(保護者の方の話からほんの一部のみ抜粋)

1)危機管理マニュアル…(そもそも)震度6弱以上を観測した場合は、原則として保護者引渡し(保護者が子供を迎えに行く)とするとの記載あり。

⇒マニュアルの存在は保護者には伝えられておらず、先生も知らなかった可能性が高いとされている。市内の他の小学校ではそのマニュアルに沿った引き渡し訓練も実施していた。

なお津波発生時にどこに避難するかの具体的な記述はなし。

※大川小の保護者の多くは「学校が避難させていると考え、安心していた」そうです。

2)児童から「非難したい」の申告…生存した児童が保護者に話したのは、他の児童から「ここにいたら死んじゃう」という声が上がっていたのを先生が押しとどめ、そのまま校庭にいたという事。しかし教育委員会の聞き取り調査報告には、こうした児童の証言の記載はされていなかったそうです。

それ以外にも生き残った児童と教員の証言には食い違いがあるそうです。

分かりにくいかもしれませんが、赤い矢印の高さが津波の水位です。子供たちはここの斜面は何度も上がっているそうで、何故この斜面に避難しなかったのでしょう?

今、保護者の方が望んでいるのは(学校の責任論もあるが)「その時、どんなことがあったのかの事実を知りたい。それを元に同じようなことを2度と起こさないようにしてほしい」ということだそうです。

 

私はまず自分の子供たちが通っていた学校の危機管理マニュアルをどれだけ知っていたかを省みてみました。地震・津波だけが災害ではありませんが実の所考えたこともないし、何も知りませんでした。

保護者の方は「被災時の真実がわかるまでは、東日本大震災は私たちの中では終わりません」と締めくくられました。メディアに属する人間として、その時の行政の責任追及にとどまらず、その時何があったかをきちんと伝えていくことの必要性、それこそが災害発生時の住民の命を守っていくのだという報道の責任を問われているような気がしました。

なお今回お聞きした話は地元メディアでは伝えられていますが、全国レベルでは伝えられているのでしょうか?

2013年10月06日 20時16分

東日本大震災からの復興と風化(6)南三陸町防災対策庁舎。

東日本大震災の発生時に防災無線で『大津波警報が発令されました。高台に避難してください』と呼びかけ続け、多くの命を救ったものの、自身は津波の犠牲となった南三陸町職員の女性の存在は恐らく多くの人の記憶に残っているでしょう。

南三陸町防災対策庁舎。女性がいた建物です。今は骨組みだけが残っていますが、私たちが訪れた9月26日に解体が決まりました。震災遺構として残す計画もあったのですが、残すかどうかは地元(住民)任せ。国や県が方針(保存費用を含む)を示さなかったこともあって今回の結果に繋がったようです。

南三陸町志津川字塩入。防災対策庁舎の住所です。塩が入る場所だとして、ここに『防災対策』庁舎を作ることについては、計画時に町議会でも異論(高台に作るか更に高い建物にすべき)があったそうです。でも結局ここに3階建てで作られました。

津波に襲われたこの建物は先端のアンテナ部分を残して水没し、それでも10人が助かったものの屋上に逃げていた多くの方が犠牲になりました。

南三陸の町には縄文時代の遺跡が幾つかあるそうですが、その遺跡には津波は到達しなかったそうです。情報の後世への伝承が困難であったであろう時代にあっても、ここに住んでいた縄文人は恐らく津波の怖さを知っていたのではないかと感じた人も多くいるそうです。

「人は自然が許してくれる範囲でしか生きてはいけない」。それが「語り部」後藤一磨さんの最後の話しでした。

2013年10月05日 21時24分

東日本大震災からの復興と風化(5)南三陸町高野会館。

宮城県南三陸町の結婚式場「高野会館」。

地震発生時には老人クラブの発表会が行われていました。

ここでお話しを聞いたのは後藤一磨さん。今、南三陸町の「語り部」をされています。津波で街が消えてしまったこの地で、訪れた人にその体験を話すことで3.11を忘れ去られないように、そして2度と同じことが起きないようにとの願いを伝えています。

高野会館にも津波が押し寄せました。その跡が3階から4階に上がる階段の途中に残されています。

でもこの建物全てが津波に呑みこまれることはありませんでした。地震発生時、建物の外に出ようとする利用客を従業員は、「この建物は津波の力に負けない強さがある」として利用客をここに押しとどめ、その結果約330人全員の命が救われました。

一枚目の写真では一見、何事もなかったような建物ですが、内装は滅茶苦茶に破壊されています。しかし建物そのものはしっかりと原型を留めていました。

屋上から見た南三陸町はまっ平らな更地が広がっており、ここが被災地であるという知識がなければ、まるで新しい工業団地の造成地であるかのような感じです。

 

高野会館の周囲にあったまるで地面から生えたような鉄筋。ここに建物があり、そこには生活があった…、それが『瓦礫』となった証拠は足元にもありました。

 

東日本大震災から2年半。私の「復興」と言う言葉のイメージは「生活の場所が再建されていく」ことです。でも被災地の現実は、「復興途上」ではなく、今もまだ「復興への準備」段階ではないかと思うほどです。

被災地から離れて暮らす私の頭の中にある「東日本大震災」の記憶。それが薄れていく『風化』が、確実に進んでいたことに気付かされました。

 

※『瓦礫処理』と言う言葉は、私は好きではありません。阪神・淡路大震災の時、私は延べ20日間ほど神戸市内で取材をしていました。その際、傾いた高層住宅が取り壊される現場にも立ち会いました。安全面から使えなくなった建物を瓦礫として処理していく作業だったのですが、上層階の部屋から家具や電気製品、本…ほんの少し前まであった『生活』が、何故かスローモーションの映像を見ているが如く落ちていきました。

多分その中には写真のアルバムもあったでしょう。

仕事では自分も「震災瓦礫」と普通に使います。でも気持ちだけは「思い出」「生活」をもう一度作るために必要なこと…、本当にそう割り切れるものとは思えないものの、でもせめてそんな気持ちを持って言葉(原稿)にしていたつもりです。

2013年10月04日 22時12分

東日本大震災からの復興と風化(4)JR気仙沼線BRT志津川駅。

JR気仙沼線志津川駅。 

この駅名標は鉄道線のものではなく、気仙沼線BRT=バス・ラピッド・トランジット(bus rapid transit/バス高速輸送システム)が昨年の12月22日に運行を開始したのに合わせて移転した(新)志津川駅のものです。

新しい志津川駅は「南三陸さんさん商店街」の真ん前。(右端の建物が駅です)

南三陸さんさん商店街は2012年2月25日(土)に、宮城県南三陸町の志津川地区にオープンした仮設商店街。 復興ならぬ『福興』をになう地元の事業者30店が軒を連ね、南三陸の海の幸を堪能できる海鮮丼が名物となっています。(コンデジのワイド端での撮影のため肝心の丼が想像以上に小さくなっています)

志津川駅に戻りますが、その駅で偶然、地元のご婦人と話す機会がありました。

・・・ここは消防署の跡地で、その消防署でも津波の犠牲者がおられました。本来なら駅の敷地内にこのように花を手向けることは認められない(JR東日本の場合)そうなのですが、ここは地元住民の気持ちに配慮し、いつでも町民がお参りできるようになっています。

この写真は(鉄道線)志津川駅の跡です。

・・・BRTの前の代行バスは(旧)志津川駅前を使っていたのですが、津波で周囲に何もなくなり、普段は人通りもない場所で、夜は電灯もなく真っ暗でした。

それでBRT化の話しが出た時、「南三陸さんさん商店街」の隣ならいつも人がいるから安心して利用できる場所だし、それと観光の人にも便利ということで移設することが決まったと聞いています・・・。

現在の志津川駅には南三陸町の災害臨時バスの停留所もあります。バス停の名前は「志津川駅(福興名店街)」。「南三陸さんさん商店街」は“福興名店街”。その名にふさわしい場所だと思いました。

時間の都合でJRのバスに乗ることもまた見ることもなかったのですが、近い時期に今度はBRTを利用して再訪したいと考えています。

2013年10月03日 21時51分

東日本大震災からの復興と風化(3)南三陸町「平成の森仮設住宅」。

JR気仙沼線歌津駅にほど近い宮城県南三陸町歌津にある「平成の森仮設住宅」を訪ねました。

それは小高い丘の上にあり、「南三陸町 平成の森」の看板が目印。ここ「平成の森」は運動場、野球場を始め宿泊施設も揃った施設で、そこにもともとあったサッカーの場所が今、仮設住宅用地をして使われています。

現在、31棟に218所帯560人が暮らしているそうです。

ここでは平成の森仮設住宅自治会長の畠山扶美夫さんにお話しをお聞きしました。

まず地震発生時、畠山さんはとにかく高台でありキャンプ場もあるということでこの「平成の森」にカメラ・ラジオを持ち出してここに避難。更に寒い時期という事もあり、コート・薬を家に取りに帰ったそうです。

しかしここは指定避難場所では無かったこともあってか、期待に反して救助が直ぐに来ることはありませんでした。3日目にとにかくここに多くの人がいることをまず知ってもらおうと、今、仮設住宅が建っているサッカー場にSOSと大きく書き、そしてそれを見つけてくれたのは米軍のヘリでした。「ハングリー、ウォーター…」とお願いしたところ、暫くして毛布・缶詰・水を持って米軍が飛んできてくれました。

しかし、十分とは言えない救援物資の量は暫くしてここにいる人による取り合いとなり、その状況を打破するため(避難者の合意により)自治会を立ち上げ、それがここに仮設住宅が出来た後も続いています。

お話を聞きつつ、私は災害による非常時にこそその場に即応してリーダーシップをとり、また避難者を平等に対応できる人(達)の必要性を感じましたが、自分自身がそうした行動がとれるかどうかを考えていました。

ところで畠山さんの話の中で印象的だったのが2点。

まずANAから4月末から提供された航空機除雪車のボイラー機能を利用した風呂は本当にありがたかったそうです。降雪時に飛行機に着いた雪を融かす水が、いわゆる水ではなくお湯であることを恥ずかしながら初めて知りましたし、その車を使った被災者支援が行われていたことも初めて知りました。

また避難所では時間の経過により必要なものが変わってくるとも聞きました。最初は生きるために必要な食べ物・水・防寒具などですが、次には病人、例えばノロウイルスの様な食中毒を出さないため、使いまわしていた食器から清潔な食器にするとか、また清潔なシーツの使用などが挙げられました。

この「平成の森 仮設住宅」には住民が集まる「カフェ」もあります。既に出来て2年が経っていますが、ここに来れば誰かいるという事でお年寄りたちの憩いの場であり、孤独にしない場にもなっていると聞きました。

(参考)この地区の津波はJR歌津駅周辺で15メートルでした。

ところで地震発生から暫くの間の情報源はラジオだけだったそうです。とにかく乾電池で聞けるラジオと強調されました。災害への備えとして、何度も言われている「ラジオ」の必要性ですが、私自身、土曜日に家に帰って乾電池式ラジオの音が出るかどうかを確かめました。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!