現役では最古の鉄道可動橋、末広橋梁。
昭和6年(1931年)12月に製作され全長は58メートル、幅は4メートル。平成10年(1998年)12月25日に国の重要文化財に指定されました。
そうなのです。国の重要文化財に指定されて以来、早い時期に来たかったのですが、いやはや10年以上の月日が流れてしまいました。
末広橋梁は「跳開式(ちょうかいしき)」と呼ばれる可動橋で、要は列車が走らない時間は、船が通行できるように橋桁を跳ね上げておくタイプです。その時、跳ね上げてなくても通れそうな船が私の前を行き過ぎました。
文化庁の「国指定文化財等データベース」⇒「末広橋梁」⇒「構造及び形式等」には、以下のような解説がありました。
●鉄製プレートガーダー橋 四基(跳上橋 一基を含む)、コンクリート製橋台 二基(築堤部護岸を含む)・コンクリート製橋脚 四基(機械室を含む)、バランスウェイト・支柱及び巻上装置 一式(操作室を含む)よりなる
とまあここの構造物のその全て、つまり遍く(あまねく)指定されていることは間違いなさそうです。
ところでデータベースの所有者名には、株式会社日本貨物鉄道・株式会社東海旅客鉄道・三重県とあり、港湾施設となるので三重県の名前も入っているのであろうと思いましたが、意外性はありました。
それにしてもただの動く橋なのですが、その美しさに目を奪われました。
平成25年10月30日(水)。突発的に休めることになり、三重県四日市市の末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)に出かけることにしました。
DD51が牽引する貨物列車がゆっくりと橋を渡って行きます。(12:53頃撮影)
少し遅めの昼食を済ませ、次の下り列車を待ちました。のんびりとした昼下がりです。(14:55頃撮影)
何れも三岐鉄道東藤原駅発のセメント列車で、JR富田駅~(関西本線)~JR四日市駅~(通称・四日市港線)~太平洋セメント四日市出荷センターを結んでいます。
10月17日の赤川鉄橋に引き続いての貨物列車撮影。でもここは特別な理由があって来たわけではありません。いやっ、理由はあったのですが、ただ赤川橋梁のよなに何か差し迫った事情もなく、でももう何年も前から来たかった場所です。
交通科学博物館にはD512が静態保存されています。
この日、天気が晴れだったこともあり、D51の周り(だけではなく至る所で)では幼稚園の子供たちがお昼ご飯を食べていました。おかげで屋外展示の車両を撮影しようとしてもそれは叶わず、いやいや子供たちが写るのを前提にすれば撮れるのですが、それではまるで私が幼稚園の「写真撮影係り」みたいで、ひたすら昼食が終わるのを待ち続けました。そして12:20頃にはこうして撮影することが出来ました。
ところでD512は愛知県の稲沢機関区にいました。
昭和45年(1970年)の頃で何故か機関車全体の写真が無い…のです。理由が分かりません。
そして12時半過ぎ、恐らく最初で最後の交通科学博物館の見学を終え、次の目的地「赤川橋梁」を目指しました。
※10月22日にUPの「赤川鉄橋(赤川仮橋)への道」に続く。
交通科学博物館には2つの国鉄80系が保存されています。
一つは気動車の80系。ただ一般的には“81系”もしくは“はつかり型”と呼んだ方が、馴染みがあるのかも知れません。名古屋地区では紀勢本線の特急「くろしお」として運転されていたのですが、私の記憶の外です。
私が会社に入り、尾鷲・熊野方面の出張時に使っていたのは同じ80系でも“82系”と呼ばれるグループ。ただシートはこの固定タイプでワイドビューとなってからのゆったりリクライニングシートとは大違い。対面式ボックスシートではないというだけでも贅沢は言えないのですが、尾鷲まで乗っているのは結構つらいものがありました。それゆえ自腹でグリーン車に乗った経験もあり。もっとも物凄い贅沢をしていると自己嫌悪を感じながらでしたが…。
もう一つの“80系”は電車の80系。一世を風靡した2枚窓の「湘南スタイル」でないのは残念ですが、それでもこの3枚窓も私にとっては東海道線のエースの印象があります。
車内は電車というより客車の雰囲気で、座席の背ずりの上半分が板というのは、今の若い人にはきっと理解できないでしょうね。また車内の写真は、パッと見だけでは電車と気付く人は少ないかも知れません。
昭和の時代に登場した2つの80系。歴史を語る産業遺産であることは間違いありません。京都への移転時にも是非保存して欲しいと願っています。
新幹線0系の前には今ではとてもお目にかかれない懐かしのオートバイたち。
ここ「交通科学博物館」に展示されているのは鉄道だけではありません。
国鉄高速バスは大学生の頃、東京との往復の際にお世話になりました。乗った回数は大垣夜行ほどではありませんが、それでも名古屋から東京に向かう時は高速バスを結構使っていました。
当時はめちゃかっこいいと思っていましたが、いやいや今見てもスタイリッシュでかっこいいですね。
交通科学博物館さよなら企画展PART1「曝涼展(ばくりょうてん)」が行われています。曝涼(ばくりょう)の意味は一言で言えば『虫干し』なのですが、こんな虫干しは大歓迎です。看板の手前にある一見得体のしれないものですが、建物の鉄骨模型で、実は3代目大阪駅のもの。縮尺は1/50で昭和13(1938)年との案内がありました。
これはダイヤの印刷機。
ネット状の線が交錯しているのが見てとれますが、これがダイヤ!なんですね。
「昔の駅」という展示コーナー。
私が「鉄」に目覚め、育っていった昭和40年代はこんな駅がまだありました。
もっともこのような歴史遺産的な蒸気機関車を現役で見たことはありませんでしたが、展示室内の明るさが抑えられているためまるで夜汽車が到着したが如くでした。
雰囲気があり静かに眺めている分にいいのですが、写真を撮るにはデジタルカメラであっても明るさが足りず、このコーナーに限っては写真がぶれぶれ・・・。欲をかくのは良くないですね。
この博物館で面白いと思ったのがこのナンバープレート群。ここまで来ると1枚**万円×○△枚=いくらなどという下世話な世界からは離れられます。
「昭和30年代の列車の旅再現」展示コーナー。昭和40年代後半から50年代前半(1970年代)頃、この席で最高3連泊を経験しています。
今年の10月17日(木)の行動…このブログでは10月22日からUPした「赤川鉄橋」に始まり、「明治村」「近鉄しまかぜ」の話しを挟んで11月7日からは赤川鉄橋の流れで行った「EH10」。そして一昨日からは新大阪駅での「ドクターイエロー」との出会いをUPしてきました。何れ劣らぬ強豪ぞろいと言うか美人ぞろいと言うかはたまたメインディッシュはどれだったのだろう?と悩んでしまうような豪華な一日でしたが、その前に行ったのが来年4月6日(日)に営業を終了する「交通科学博物館」。
実は私にとって初「交通科学博物館」。自分でも何でこれまで来なかったのだろうと思うほど大阪には来ており、その来阪歴は仕事を含めて30回はあるはずですし、また大阪環状線で弁天町を通ったことも10回はありそうです。そもそも名古屋~新大阪~大阪~弁天町~大阪港⇒海遊館とこの駅で乗り換えて移動したこともあります。
弁天町駅のホームから見た屋外のD51の展示。そこには幼稚園(保育園?)の子供たちが遠足だと思うのですがやって来ていました。でもそれはほんの序章にしか過ぎませんでした。
さて館内に入ってまず目に飛び込んできたのはリニアモーターカー・マグレブ「ML500」。
「JNR」の赤い文字を眩しく感じました。
0系新幹線第1号車。「SHINKANSEN」は世界の高速列車の先がけ。ここで感想を少し。リニアはまるで海中探査船のようなデザインに思えました。ではなく、リニアと0系がこうして並んでいるのを見ると、ベースのデザインは似ていると感じました。
さてこの時間、20番線には500系が停まっていました。16:38発のこだま753号です。
そして22番線には16:22発のさくら567号。
そこで700系ドクターイエローとN700系、500系の先頭車の並びを撮影するべく早目にこの場所まで戻り、まずは場所探し。ドクターイエローの先端部分が柵にかからないことを最優先にしたので、500系は停車中なのが分かれば良かろうと割り切り、先端部分を画面に入れるのを諦めました。それでもここまで走ってくるとそこそこのスピードが出ており、シャッターチャンスは瞬間なので、久しぶりに緊張しました。
振り返ってホーム反対側から新大阪駅を出ていく「回送 980号」を撮影。
撮影後は16:27発の「のぞみ」に乗車し、名古屋に戻りました。俗にスモール“A” と呼ばれているN700Aへの初乗車でした。