2015年04月14日 20時26分
ちょっとどころではなく、38年前の何とも大昔の話。申し訳ありませんが数日「鉄」から離れます。
4月も半ばとなれば新入社員も何となく社会人の第一歩を踏み出した実感を持ち始める頃ではないでしょうか?
因みに私は、報道部に配属され、カメラマンとしての研修をしていました。
このカメラはフィルモもしくはDR(DRと言っても台湾の気動車の形式ではありません)と呼ばれていたモノ。
16ミリのフィルムカメラでぜんまいじかけで駆動するタイプ。パチカメでも今やデジタルが主流のため、そもそもフィルムで撮影している人を見かけなくなりましたが、その頃はテレビの撮影でも放送局のスタジオと中継を除けばほぼフィルムの時代でした。
※今時のテレビ番組にあまたあるタレントさんがリポートするグルメ番組は、当時は考えられなかった。
そのフィルムは光が当たればその後は使えなくなってしまうため、フィルム交換は写真右側の黒い袋(ダークバッグ)を使い、この中にカメラ本体を入れて手探りで入れ替えていました。
上の軸に未撮影のフィルムを入れ、グルッとレンズ後ろを通して下のスプールに巻き撮影準備完了。100フィートのフィルムで3分弱の撮影が出来ました。発生物と呼ばれる事件・事故の一報は100フィートで収めるのが原則でしたが、カメラ研修では単にカメラを回すだけではなく「映像理論」の基礎を学んだことも良い思い出です。
絞りもピント合わせも手動。どころかこのカメラではレンズを通してのピント合わせはどえらい面倒で、3本ついた単焦点レンズの内、流石に望遠はちゃんとピント合わせをやっていましたが、標準とワイドレンズは目感でセットして撮影していました。
ファインダーがあるではないかと思われるかもしれませんが、これは画角の確認用で、しかも近距離の被写体は、レンズとファインダーの位置の関係で、“ズレ”に注意という代物でした。
ただ動力が不要であり、軽量で手軽ということもあって、38年前であっても一時代前の機器ではありましたが、予備カメラとして最後まで現役でした。
※最初の写真で違和感があるかもしれませんが、このカメラでは左目でファインダーを覗いていました。そして右目は周りの状況を判断するためにいつも開けており、まずこれに慣れるのに戸惑いました。