2015年04月20日 21時54分

私的昭和の鉄道/九州(3)支線2題。

5年後の九州。

会社に入ってからの昭和53年(1978年)1月下旬にも九州に乗りつぶしに出かけています。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_2

1月28日は宮原線(恵良~肥後小国間)に乗っており、久大本線の豊後森を15:37に出た227Dの車内からのんびりした風景を楽しんでいました。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_3

終着の肥後小国には16:40着。当時、何気なく撮影したはずですが、あまり撮影する構図ではありません。勝手なこじつけかもしれませんが、旅立ちとその終わりを象徴する改札口に思い入れがあったのかもしれません。ここだけではなく、それまでもそしてこれ以降も各地の改札口を撮影した写真が何枚かあります。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_4撮影順のUPですが、改札写真を撮影してからホームに停車中の気動車を撮っています。ただしその理由は不明。

1978_01_28宮原線(29豊肥本線)_5

駅舎は昭和感が満載です。この後私は阿蘇に向かってバスに乗りました。ところで数年前のことですが、大分県の湯布院温泉から熊本の黒川温泉にレンタカーに向かった時に肥後小国に近い場所を通ったのですが、それだけで何だか懐かしい気分でした。

1978_02_01室木駅

おまけのような写真ですが、こちらも今は無き室木線(鹿児島本線遠賀川~室木)の終点室木駅です。完全な夜景ですが、当時の北九州地区路線網をパズルの様な複雑怪奇さで、それを一つ一つ紐解くように網羅するのは気が遠くなるような作業で、ここ室木駅には2月1日の18:05分過ぎに辿り着きました。

※室木線は全列車が蒸気機関車牽引の客車列車で有名だった路線で鉄道ファンには人気の路線でした。

ところでこの写真、ストロボを使っていますが、当時はちゃんと持ち歩いていたようです。ホームの客車まで光が当たっているので大容量タイプであったことは間違いなさそうです。我ながらあっぱれ。

何故夜景ですか?と聞かないで下さい。当時の私の乗りつぶし基準はとても緩く、急行・特急利用可。しかも夜行列車もOKでした。今は基本、各駅停車としています…。

2015年04月19日 20時40分

私的昭和の鉄道/九州(2)日本最西端の駅、平戸口。

昭和48年(1973年)8月3日、(当時の)日本最西端の駅「平戸口」に到達しました。と言っても駅そのものは2度目の訪問。しかし最初に来た時にはこうした写真を撮っていません。入り口に荷物が積んである風景は昭和ならではですね。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_12

前日の8月2日、小倉発23:09の「普通列車」の夜行に乗車。佐世保に4:46に到着した後接続の4:58発の626D(佐世保発松浦線経由博多行き)に乗車。6:15に到着しました。当然のことながら寝不足だったので、626Dでも爆睡していたのですが、その時シートに横になり通路側の肘掛に足を乗せていた(丁度ひざ裏が乗っかる感じ)のですが、それでひざから下の血流が止まったみたいで、何と平戸口近くで目が覚めたものの足がしびれて自由が利かず、5分ほど足のマッサージをしていた覚えがあります。トホホな話ですが、恐らく50代以上の方にしかわからないかも知れません。

40年以上前の若かりし頃でしたのでそんな旅もよくしたものです。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_13

「日本最西端の駅」の碑。この座を沖縄・ゆいレールに奪われる日が来るとは夢にも思いませんでした。

松浦線の平戸口以東は昭和46年(1971年)3月24日に乗っており、佐世保からここまでが初乗りでした。なお昭和46年当時はここ平戸口に降り立った後、九十九島巡りの船で佐世保を目指していました。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_14

昭和48年(1973年)8月4日、唐津線を佐賀(9:07発)から西唐津(定刻では10:52着)まで乗車した727列車。当時でも古豪であった79601が牽いており、当時のメモには9両の客車を牽いていたわざわざ特記があるものの、なぜか727レの写真はこの一枚しか残っていません。

それにしても今こうして見ても風情がありますし、客車の揺れをまだ体が覚えているような気がします。

2015年04月18日 23時12分

私的昭和の鉄道/九州(1)山野線と宮之城線。

入社当時のことを書いていたら、昭和の時代に私が経験したことを書いてみようと思い立ってしまいました。

ということで今日から折に触れ、私がせっせと全国の鉄道を乗っていた『昭和』の写真をUPしていきます。タイトルは「私(わたくし)的昭和の鉄道」。ただし私は撮り鉄ではなかったこともあり、あまり写真は撮っておらず、バリエーションが少ないのはご容赦頂きたく存じます。またこれまでこのブログに掲載した写真はUPしないつもりですが、もしもダブっていたらごめんなさいです。

手始めは昭和48年(1973年)7月28日から8月8日まで旅をした九州編です。何故これから始めるかの理由ですが、今日UPする写真に写っている蒸気機関車が調べたら今も保存されていることが分かったからです。

1973九州周遊券

懐かしの九州周遊券を使っての旅。当時の周遊券には「途中下車印」を押す欄もありましたが、そこでは足りなくなって券面の端から端まで“印”があるのが『カッコいい』とされ、その数の多さを競っていた時代でした。ところでこの途中下車印は、鉄ちゃんじゃなくてもやっている人は多かったと思います。

その日程の概略。

●7月28日は東京⇒名古屋間を移動し、実家に一泊。

●翌7月29日、いよいよ本格的に出発。名古屋発19:25の熊本行き急行「阿蘇」(当然、直角シートの4人掛け)に小倉まで乗り、そこから何故か普通列車~普通電車を乗り継いで黒崎9:06発の「かいもん1号」に乗車。西鹿児島15:07に到着してそのまま指宿まで向かっています。

19730731宮之城線

7月31日の行動。指宿を基点に南九州をぐるっと回っており、今考えると何故指宿がベースなのか意味不明な行動です。ひょっとすると温泉があったからかも知れませんが真相は闇の中です。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_1

山野線432Dを栗野(11:33発)から薩摩大口(12:02着)まで乗車。宮之城線933Dが出発する13:30まで駅中を撮影していました。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_4

この時代のC56111はナンバープレートに形式名が入っていませんが、前後の時代は形式名が入っていました。因みにこの車両は今も宝塚市にて保存されています。

宮之城線の乗車券

宮之城線の車掌さんがくれた乗車券。おおらかな時代です。

1973_07_31~薩摩大口~鹿屋_9

8月1日に大隅線鹿屋駅で撮影した写真です。

C11200も兵庫県龍野市で保存されています。

2015年04月17日 20時48分

カメラマンとしてやりたかった仕事とアンコールワットの関係。

そのその昔の1980年(昭和55年)頃、内戦の真只中のカンボジアに本気で行きたいと思っていました。

今は番組制作会社「オルタスジャパン」の社長であり、当時は日本テレビの「NNNドキュメント」のディレクターであった小田昭太郎氏がその取材準備を進めていたことを知ったことがきっかけだったのですが、ただそういう非常時の国に取材に出向くには私のカメラマンとしての経験値(3年目)もさることながら技量がまったく足らず、それは断念しました。

もっとも私に研ぎ澄まされた映像センスがあり、卓抜した困難を乗り越える力があれば抜擢していただけたかもしれませんが、ただ「やりたい」だけでは進めない道があることも知りました。一方で「伝える」とは何をするかということか、はたまたジャーナリズムとは何かを自分の中で考えるきっかけになったことは間違いありません。

2015_03_14~15 アンコールワット_7 (1024x683)

それから12年の時を経て、落ち着き始めたカンボジアでアンコールワットの修復を、日本の上智大学を中心としたメンバーで取り組むことになり、そこに愛知県岡崎市の石工さんたちも協力するということで、中京テレビではその姿をドキュメンタリーで追いかけました。その取材に向けての準備では、上智大学との打合せもさることながら、直前にカンボジアに入っていたオルタスジャパンのスタッフからも情報をもらったりもしました。プロデューサーであった私自身は、諸般の事情で行くことは叶わなかったのですが、いつかはカンボジア、そしてアンコールワットに行きたいと願っており、それが実現したのがこの3月13日でした。

2015_03_14~15 アンコールワット_18 (576x1024)

1992年当時も取材としては様々なトラブルがあり、何せ日本からの連絡手段がまともに無い国にスタッフを出したプロデューサーとしては、事後報告で驚きの事実を知ることになり、撮影チームだけではなく全ての関係者の無事な帰国にホッと胸をなでおろした覚えがあります。

●1992年8月8日放送「崩れ行くアンコールワット~遺跡修復へのプロローグ~」

今回、日本の修復チームが力を発揮し、世界中から来た観光客で賑わうアンコールワット等の遺跡群を見つつ、「この部分が日本のチームが修復したところです」というガイドさんの説明には万感の思いがありました。

カンボジアは今でこそ平穏なアジアの国となっていますが、この賑わいが長く続くことを祈っています。

アンコールワット_29●写真は3月14日~15日撮影。

今回はブログの右側にある私のプロフィールの中身について書いてみました。新社会人の皆さんがこれからの人生でどんなプロフィールを作っていくのかを期待しています。

それにしても趣味の鉄道のブログを会社公式ウェブサイト内で始めるとはほんの数年前まで思ってもいませんでした。生生流転の世であってもこれだけは想像すらしなかった!こんな人生も世の中にはあるのです。

鉄道から少し離れてしまいましたが明日からまた“現場”に戻ります。

2015年04月16日 20時45分

フィルムで撮影すること。そして取材現場と趣味の関係。

DSC_0266

レンズにはオレンジ色のフィルターが付けられています。これはタングステンタイプのフィルムを使っていたためで、難しい話はさておき、要は電球の元では自然な発色となるものの屋外でそのまま撮影すると青っぽくなるので、それを補正するためにこのフィルターをしていました。

その分レンズが暗くなるため、ASA100のフィルムであればASA80で計算して絞りを決めていました。

所謂鉄道写真の世界では、私を含め外光の世界で写真を撮影していた方でタングステンタイプを使っていた方はほとんどいなかったと思います。例外的に(人工的な光源を使う)スタジオカメラマンの方が外でもタングステンタイプを使っていたかもしれませんが…。

DSC_0258

レンズは12ミリ~120ミリのズーム。12ミリは準広角レベルで屋内撮影ではやや引けないレンズでしたが、ただそれを工夫するのがカメラマンの腕(発想力)ということで私にはハードルが高すぎました。(涙)

フィルムは200フィートのモノを使い、1回のフィルム装填で6分弱の撮影が可能でしたが、常にフィルム交換のタイミングを頭に入れて撮影する必要があり、ディレクターの意図を的確に感じ取り、まだ1~2分撮影可能だったとしてもそれをすっぱり諦めことが出来るまでに成長するにはやはり時間がかかりました。

DSC_0269

その後、屋外でもビデオカメラを使うことが一般的になり、一本で20分回すことが出来るようになっただけではなく、上書き録画が可能な上にダークバックも不要となり、夢のような時代がやってきたと感動した覚えがあります。

ところで当時は「鉄道」の取材によく行きましたが、そこで私は個人のカメラで撮影していたでしょうか?

答えはほぼ否です。やはり仕事ですので個人のカメラを持って行ったことはほんの数回程度しか記憶にありません。もっとも持って行ったとしても撮影する時間など殆どなく、1978年に行った大井川鉄道でも車庫でほんの数枚しか撮っていません。また茶畑越しに走る蒸気機関車をテレビ放送用に撮影はしましたが、当然のことながらスチール写真はありません。

カラー(9)_78

カラー(9)_79

これが数少ないうちの2枚です。ただ当時、何としてでも自分(個人)のカメラで撮影しようとは思っていませんでした。今思えばきっと撮影を仕事にしていたからなのでしょう。

2015年04月15日 20時37分

カメラマン2年目、石原産業紀州鉱山鉄道を取材。

1978_04_28石原産業 紀州鉱山

これは1978年4月の取材時にスタッフが撮ってくれていた一枚。カメラはアリフレックスで、主にキチンとした映像を撮るときに使っていました。

※三重県紀和町(今の熊野市)の石原産業紀州鉱山鉄道の取材時。

石原産業紀州鉱山カラー_22

石原産業紀州鉱山モノクロ_9

こういうように当時でもレアな鉄道を取材していました。

DSC_0268

その次のステップで使用したのが通称「ミニエクレール」と呼ばれるカメラ。バッテリーを使用するモーター駆動のカメラにあって、この機種は現場で録音をすることを前提に作られた静かなカメラで、中京テレビだけではなく当時全国で作られたドキュメンタリー作品の多くはこのカメラで撮影されていたはずです。

と言ってもこのカメラのフィルムで録音していたわけではなく、音はオープンリールのポータブルテープレコーダーで別途録音し、音と映像のタイミングを合わせて編集~放送していました。

ところでこのカメラを回すということ=ドキュメンタリーのカメラを担当することであり、当時、思わぬチャンスが回ってきたことで実にハイテンションな日々でした。(一応、仕事は冷静にしていました。但し『つもり』)

DSC_0267

このカメラは右目でファインダーを覗いていますが、ピント合わせをする時を除けば、撮影時はやはり左目を開けていました。

久しぶりにカメラを担いだので少し傾いているのご愛嬌ということで…。

2015年04月14日 20時26分

私の新人時代の思い出。DRというカメラ。

ちょっとどころではなく、38年前の何とも大昔の話。申し訳ありませんが数日「鉄」から離れます。

4月も半ばとなれば新入社員も何となく社会人の第一歩を踏み出した実感を持ち始める頃ではないでしょうか?

因みに私は、報道部に配属され、カメラマンとしての研修をしていました。

DSC_0294

このカメラはフィルモもしくはDR(DRと言っても台湾の気動車の形式ではありません)と呼ばれていたモノ。

DSC_0288

16ミリのフィルムカメラでぜんまいじかけで駆動するタイプ。パチカメでも今やデジタルが主流のため、そもそもフィルムで撮影している人を見かけなくなりましたが、その頃はテレビの撮影でも放送局のスタジオと中継を除けばほぼフィルムの時代でした。

※今時のテレビ番組にあまたあるタレントさんがリポートするグルメ番組は、当時は考えられなかった。

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そのフィルムは光が当たればその後は使えなくなってしまうため、フィルム交換は写真右側の黒い袋(ダークバッグ)を使い、この中にカメラ本体を入れて手探りで入れ替えていました。

DSC_0296

上の軸に未撮影のフィルムを入れ、グルッとレンズ後ろを通して下のスプールに巻き撮影準備完了。100フィートのフィルムで3分弱の撮影が出来ました。発生物と呼ばれる事件・事故の一報は100フィートで収めるのが原則でしたが、カメラ研修では単にカメラを回すだけではなく「映像理論」の基礎を学んだことも良い思い出です。

DSC_0290

絞りもピント合わせも手動。どころかこのカメラではレンズを通してのピント合わせはどえらい面倒で、3本ついた単焦点レンズの内、流石に望遠はちゃんとピント合わせをやっていましたが、標準とワイドレンズは目感でセットして撮影していました。

ファインダーがあるではないかと思われるかもしれませんが、これは画角の確認用で、しかも近距離の被写体は、レンズとファインダーの位置の関係で、“ズレ”に注意という代物でした。

ただ動力が不要であり、軽量で手軽ということもあって、38年前であっても一時代前の機器ではありましたが、予備カメラとして最後まで現役でした。

※最初の写真で違和感があるかもしれませんが、このカメラでは左目でファインダーを覗いていました。そして右目は周りの状況を判断するためにいつも開けており、まずこれに慣れるのに戸惑いました。

2015年04月13日 22時39分

台北桃園空港への道(2)さよなら台湾、また来る日まで。

ツアーの殆どの参加者は台北市内の「松山空港」からの帰国になりますが、名古屋と福岡に向かう3人はここ「桃園」で下車しました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_63

下車したときの様子は「いすみ鉄道社長ブログ 台湾鉄道三昧の旅 最終日(3日目)」http://isumi.rail.shop-pro.jp/?eid=1048162にありますのでそちらもご覧下さい。

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台湾新幹線の駅はどこも巨大です。桃園駅もそれに倣っており、しかもどの駅も人がいて利用者の多さが実感できます。ただ経営的には苦しいという報道がなされており、今後の展開が注目されるところです。

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台北桃園空港。今回が5回目の台湾なので既にお馴染みの空港となっています。

出かけたのが既に4か月以上前の11月~12月の時期だったのでクリスマスの飾りつけが綺麗でした。

※写真では良く分かりませんがベイマックスがいます。

さよなら台湾、また来る日まで。

2015年04月12日 22時36分

台北桃園空港への道(1)最新のEMU800型に乗車。

私たちが3日間お世話になった観光バス。

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3列シートの豪華バス。こんな大きな体で、目的地(精糖鉄道の撮影地他)を目指し、こんな細い道は絶対に通れないだろうとおもうような場合でも私たちを安全に運んでくれました。ドライバーさんには拍手モノでした。

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いよいよ最後の台鉄乗車です。ここは「社頭」駅です。

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社頭駅を12:49発の区快「台中」行き。2014年から営業運転に入ったばかりの日本車輌製のEMU800形に乗り、台湾新幹線との乗換駅「新烏日」に向かいます。

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車内は思った(見た目)以上に広々。今回のツアーの日程表にはこの電車の欄に「EMU800」と特記があり、つまりこの電車に乗るために日程が組まれていました。最後までやるもんです。

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「新烏日」に13:20着。新幹線の「高鐵台中」出発は14:01でそれまで構内というか連絡通路の鉄道グッズ店巡り。大人買いに走った方が何人もいました。

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そこで目に付いたお店の一つ。何せテーブルが可愛かったので撮影したのですが、ここでは色つきの木のチップを販売しており、それをレゴ風に組み合わせて遊べるようになっていました。(多分、合っていると思います)

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こちらはベンチ。まるで遊園地の様な楽しさでした。

2015年04月11日 22時32分

台湾/福井食堂(4)…だけではなかった最強の「鉄」食堂。

「集合写真を撮ります」と声を掛けられ、どこに行くのかと思ったら建物の外に出て、“怪しげな”通路に入り込みました。

2014_12_01 台湾・福井食堂_35

実はここも福井食堂の一部で、既に通路が『鉄鉄』しています。

2014_12_01 台湾・福井食堂_38

そこにはこんなマニアックなものも置かれ堪りません。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

今回のツアーの最後の集合写真。こんなスペースがあり、ベンチも置かれて“弁当”を食べられるようになっていました。

福井食堂

福井食堂のトリはオーナーの名刺。脱帽です。

台湾訪問時に社頭駅で下車する価値は大です。



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!