10月27日にUPしたサハリン(樺太)鉄道旅(25)からの続きです。
緯度の高い北の大地。
17:50頃でもこの明るさがあり車窓を楽しめます。もう少し季節が進むと日の入りは早くなるのでしょうね。
気動車の列車では車掌さんはドア扱いはしないようです。運転士さんがこのミラーで車掌さんの合図を確認して出発していました。
乗降ドアをよく見ると少しだけですが隙間がありました。年代モノの車両だけにある程度は仕方が無いのでしょうが冬場の寒さを想像すると…。
車内には「WiFi」のステッカーがありましたが携帯電話でその電波をキャッチする事は出来ませんでした。
車内の照明。何となく昭和のノスタルジー。
改めて車内の椅子。キ10系~20系に近い感じ。
昭和41年頃撮影の「三河知立」駅。開業時は三河鉄道の「知立」駅で知立市の鉄道の歴史はここから始まったとも言えます。
さて今年は名古屋鉄道三河線の刈谷駅~三河知立駅間が1915 年10 月に開業してから100年。それを記念して知立市、刈谷市、名古屋鉄道が協力して様々なイベントが行われています。
とか書きつつ昨日から始まった「開業100 周年記念台紙」はまだ残っているのでしょうか?
そんな心配をしてみてもしょうがないのでそれはさておき、イベントの一つに知立市図書館展示コーナーで行われている「三河知立駅開業 100 周年記念展」があり、その展示に私が会員となっているNPO法人名古屋レール・アーカイブスも協力しています。
知立市図書館は知立駅から徒歩10分ほどの場所。今回の主役と言える三河線沿いにあります。
展示内容はタイトル通り写真と資料と解説文による三河知立駅と三河線の歴史。
サハリン(樺太)鉄道旅はお休みします。
今日は昼過ぎに中京テレビの新社屋に行ってきました。7月29日には上れなかった塔にも上がれるようになったので、その様子見もあります。
建屋の屋上(11階の上のR階)まではエレベーターで上がれるのですが、そこから上は当然のことながら歩き。途中で休憩しつつ矢印の場所まで行ったところで、、、そこからほんの少し上の天辺まで行くのは断念。風が強いのは上がる前から覚悟していたのですが、ガラスで囲われたブロックを越えた途端にそこは『台風の中継現場』かと言いたくなるほど。
命綱付きベルトも用意し、安全には配慮して高所作業する予定でしたが、ジャンパーの内ポケットのボールペンを取るためにファスナーを開けることすら躊躇するほどの風の前に人は無力。今日のところは風の影響の少ない場所で、視界の確認をした程度で撤収しました。
メモ用紙だと飛んだりしそうだったので主な列車の名古屋駅の出発時刻を手のひらに書いたりもしておいたのですが、まあ今日のところは出直しです。もっとも工事中であるため立ち合いのスタッフが必要であり、簡単に上がることは出来ませんが…。
俯瞰撮影の醍醐味はやはり様々な列車の競演。これで新幹線がいればと言うのは贅沢の極み。
名古屋の高層ビル群を背景に行く新幹線。この場所の定番となりそうです。
この写真はこのブログで7月29日にUPした同方向を望む写真を比較してみてください。建設中のJRゲートタワーが高くなっているのが見てとれます。
これもお約束の写真。
Ново-Деревенская(ノヴォデレヴェンスカヤ)に17:45の定時到着。
本数が少ないから出来るのか?それともロシアの中でもサハリンだけか?もしくは雪のない季節だからか?などなど判然としませんが、今回の旅で乗ったサハリンの全列車は日本並みの定時運行です。おかげでデジカメの撮影時間を確認すればどの駅の写真かが分かるわけでまるで日本にいるような感じでした。
ここでも森の中に向かう人たちがいました。
ノヴォデレヴェンスカヤの先にはまだ線路が残されています。もっともここに列車が走ることはあまり期待できそうに無い状況とのこと。でも線路はそのままなので…と淡い願望。
お約束の記念写真。同行者がいるとこんなことも出来ます。もっともここからの戻りは17:45発なので10分しか時間がなくせわしない時を過ごしました。
これから戻る道。終点にも関わらず駅の周りにはあまりにも何もなく、何だか不思議な感じです。日本なら秘境駅として人気を集めそうですね。もっとも全駅下車はやめた方が良さそうです。
日本の富士重工製のディーゼルカーだけあって車内も何だか日本の雰囲気あり。
さてサハリン州の人口は約48万人。州都ユジノサハリンスクには約18万9千人が暮らしています。
(在ユジノサハリンスク日本国総領事館のHP参照)
そんなユジノサハリンスクから10分も走れば自然豊かな風景は広がります。
ユジノサハリンスクから2つ目の「14キロメートル」駅。朝夕の2往復だけの列車ですが、どの駅でも乗降があり、交通機関としては成り立っているようです。もっとも利用者が鉄道の時間に合わせて生活していているようにも感じました。
3駅目の「16キロ」駅。サハリンの鉄道はこの路線だけではありませんが地名ではなく、キロポストの駅名が結構あります。
夕方の列車から降りていく人たち。道はありますが一体どこへ行くのでしょう。
検索サイトの航空写真ではどうやらこの先に民家らしきものがあり、週末なのでダーチャ(家庭菜園のある別荘)に向かう人たちかも知れません。
昭和3年発行の「樺太の鉄道旅行案内」の鉄道地図をトリミング。奥鈴谷の名前があります。この駅があったのは樺太の中心「豊原(ユジノサハリンスク)」と西海岸の中心「真岡(ホルムスク)」を結ぶ豊真線という幹線。
ただ同じ本の中の各駅の紹介には「奥鈴谷信号所」とあり、地図もこの本文も信号所ではあっても客扱いをしていたから載っていたのではないかと推察しています。
またそこには豊原からの距離が書かれており、10哩(マイル)とありますから約16キロという計算になります。
今回、ユジノサハリンスク駅で買ったノヴォデレヴェンスカヤまでの往復乗車券。思いっきり恭しい(うやうやしい)感じで違和感タップリ。大きさは日本のかつてのマルスで発見された特急券等を一回り大きくしたサイズで、車掌さんの検札でも問題は無かったのでこれで正しいのでしょうが何だか慣れません。
しかもこんな記念券の如くのホログラム入り。そもそもこの文字と20の数字の意味は分からずじまい。
9月4日(金)の2つ目のイベントはノヴォデレヴェンスカヤ(Ново-Деревенская)、日本時代には「奥鈴谷」と言う名前の駅への旅。その列車に乗るべくユジノサハリンスクの改札からホームに入ろうとしたら何とロックしてある。そこにいた方に聞いたところ日本風に言う駅舎の前の1番線から出発する列車に場合はそこを通るのですが、島ホームから乗る場合は駅舎の隣にあるこの建物から地下道に入り、そこからホームに上がるとのこと。
目の前の見える列車に到達するのに思わぬ時間がかかってしまいました。
行先表示(これもサボと呼べるのでしょうか?)は窓にセットしてあり、読めないロシア語の字の形でこの列車の行き先が確かにНово-Деревенская(ノヴォデレヴェンスカヤ)であることを確認。ここから片道17キロ30分の旅。所要時間はジャスト30分です。
ホームの反対側には客車を牽く気になる列車。でも何時にここを出てどこに行くのかが分からない。残念ですが諦めです。
それにしても地平の高さから列車に乗り込むのはなかなか大変。日本の高床式ホームが如何に楽で便利かを実感。
ユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск)の駅前。
鉄道歴史博物館を後に昼食へ。午後2時半過ぎの時間に街をうろうろ。
ガイドブックに「場所が分かりにくい」とあったレストラン。確かに分かりにくく30分ほど探し回ってやっと発見。大通りから中に入った大規模な集合住宅の中庭の様な所にある隠れ家レストランと言えば聞こえはいいですが、旅人にはハードルが高かったです。しかしお客さんはちゃんといたので地元の人は知っているということでしょう。
ここでもお店の方の了解を得て夜行列車に乗る前の充電タイム。(写真はありません)
料理は定番中の定番。ボルシチ。ここでもやはりジャガイモを注文。これがまた美味しい!
こちらはペリメニ。ロシアの代表的料理の一つで例えればロシア風餃子。
1時間半ほどこの店でのんびりしていました。味の良さだけではなく内装にも拘りがあり、もう一度行ってみたい店が出来ました。
住宅街の中の公園。自然石を組み合わせ、噴水ではなく水の流れを作っているのが珍しいパターンだと思ったのですが、そもそも住宅街にこうした造形を置いているのはここがヨーロッパだからでしょうか?