平成27年9月6日(日)。
朝9:10にユジノサハリンスク(豊原)を出てコルサコフ(Корсаков/大泊)に向かう列車に乗車。
それにしても8:32にノグリキからこの駅に到着したばかりですから、何と言うタイミングの良さ。これもダイヤ通り走る時間の信頼ができるサハリン州の鉄道さまさまです。
しかしこの列車/ユジノサハリンスクとコルサコフを結ぶ列車の存在は、ユジノサハリンスクに到着した日に、駅頭で舘田達也さんが見つけてくれたもの。
後日分かったのですが、何とこの路線の運行は8月から始まったばかりというタイミングで、流石にこれまで何度も今回の旅の運の良さについて書いていますがここまで来ると本当に怖い位で、まるで「鉄道の神様」が降臨し私たちを道案内しているとしか思えないほどでした。(笑)
実は白川さんの知人が7月にここサハリンの鉄旅をされておられ、その時の鉄道運行情報は私達にも伝わっていたのですが、何とこの路線の情報はありませんでした。
ユジノサハリンスクを出て暫くすると海が見えてきます。(9:47頃撮影)
北海道の仮乗降場の雰囲気。利用者はいます。
9:49。海が近づいてきました。
平成27年(2015年)9月6日(日)。
上段寝台に寝ていた私は午前5時過ぎに下段に寝ていた白川さん、舘田さんに起こされました。「外が凄いことになっています」。
窓外には思いもしなかった朝ぼらけ。幻想的とも言える夜明けを肌で感じていました。
海の向こうに広がる朝焼けを見る事およそ30分。その圧倒的な大自然は私たちを飽きさせることはありません。
6:38頃に撮影した一枚。太陽が水平線から顔を出しました。
7:20撮影の一枚。大自然に抱かれ夜汽車に揺られる贅沢。夜行2連泊は難行苦行になるかもと思っていた私は心の底から瞬間でもそんなことを考えた自分を恥じていました。
そしてこうして旅をすることを笑ってOKしてくれた家族に感謝していました。
皆さん、この風景に出会うためだけにここサハリンの地を訪れる価値はあります。今私は自信をもってこの言葉を書いています。
ユジノサハリンスクに8:32着(定時)。
一夜の旅を終えた人たちが続々と降り立っていました。
駅の外に出て一息。さあ今日もこれから更に充実の時間が待っています。
私達の乗る列車は20:49発。それまでの4時間をどう過ごそうか?
ともかく時間があるので駅前のレストラン(カフェテリア)でまずはお茶。18時過ぎに食事と相成りました。結局そのレストランに20時過ぎまでいたのですが、最初は私達だけだったお客も徐々に増え、最後は20人近い人がいました。因みにこの店の閉店は20時。この駅を出る最後の列車に閉店時間を合わせているようでした。
※このレストランでも許可を得て充電をさせて頂きました。
夜の帳の降りたノグリキ駅。シンプルですがガラスを多用した近代的な感じの駅舎から漏れる灯りは、その明るさを限りなく感じさせてくれ、極寒の地にあっては心まで凍えさせないようなイメージなのでしょうか?
ホームの向こうにいる夜行列車。
20:25頃から乗車が始まりました。往路と同様、パスポートのチャックもありました。
出発まであと15分。この駅から乗り込むお客も殆どが客車に吸い込まれ、後は出発を待つだけになりました。
折角604レの出発時間に間に合ったのでそのシーンは撮影せねばここまで来た甲斐がありません。
撮影ポイントを探しつつ振り向けばそこには虹が!
しかもよく見たらダブルレインボー。滅多に見られないことから「願いが叶う」とまで言われています。ドクターイエローの比では無いと言ったら大袈裟でしょうか?いやいやそんなことはありません。
一体どこまでツキが続くのか信じられないこのサハリン(樺太)鉄道旅。同行の方達は、私が稚内に着くまでに全ての不運を背負って厄落としをしてきてくれたから、今回の旅は「ラッキー」以外のことは起きない!とまで言って慰めてくれていましたが、それにしてもこんな巡り合わせの旅はこれまでしたことがありません。
ただ奇跡の連続もここまで重なると正直怖い位でした。「人生山あり谷あり」とはいうもののたまにこんな素敵なことがあるからまた旅に出たくなるというものです。
無駄話が長くなりました。言いたかったのはダブルレインボーが私達の願いを叶えてくれたということ。2本の虹に感謝。
話しは変わって駅の横に停まっていたトラック。釧路からやって来たらしい。日本にいた時さながらの状態で全く違和感がありません。(撮影順に書いています。唐突ですいません)
さて16:44。604レの出発です。ユジノサハリンスクに着くのは翌朝の6:17。
サハリンの鉄道は本当に定時運行。私達も定時に動いています。
ポイントをクネクネと渡っていく後ろ姿はやはり客車が似合います。日本ではもう数えるほどしかありません。
平成27年(2015年)9月5日(土)。
全ての予定を終え、午後4時過ぎにノグリキ(Ноглики)駅に戻ってきました。1本しかない駅のホームには長大な客車の姿が見えていました。
ノグリキ駅から反対方向には貨物線が通っています。線路の状態は悪く無さそうなので現役なのでしょうが、あまり使われている感じがしません。
客車のお尻をこの角度で見るのもたまには良いですね。
長大な列車と思っていたらこの6両は切り離されて停まっていました。こちらが私達が乗車する2レ急行「サハリン号」。
一方、前に停まっていたのは16:44発の604レ普通列車のユジノサハリンスク行き。11両の堂々たる編成です。それにしても私達が駅を離れている間にこんな入れ替え作業が行われていたのですね。
鉄橋からノグリキの町を遠望。ロシア正教の教会が見えます。ノグリキからこの鉄道に乗った人はこの風景を見てこの町に別れを告げ、そしてオハからの乗客はノグリキに着いたことを実感したのでしょう。名古屋で言えば新幹線から見える名古屋城ならぬ清須城のような存在でしょうか?
と書きつつ、この鉄道ってどれ位の本数の列車が走り、貨物鉄道とは言っても客車もあったのですからそれって誰が乗っていたのでしょう?木曽森林鉄道の様に地元の方を乗せていたのでしょうか?
トゥイミ川にかかるこの橋ですが、左側にこんな杭が放置されていました。さてここからは同行の白川さんの推理です。
『かつてはこの杭の場所にトゥイミ川橋梁があったのですが、それを老朽化等の理由から架け替えることとなり、その際に将来の改軌(恐らく1067ミリだと思われる)に備えた橋を新設。』
というもの。
確かにこの橋はナローゲージサイズではなく、1067ミリゲージ用なら理解できますし、ひょっとしたらロシアのブロードゲージ(1520ミリ)の車両だって通れそうです。
ということで橋を渡りきり今回の旅の最北端に到達。
時間は15:33でした。
その場で記念撮影。札幌から来た女性に撮って貰いました。それにしてもその方、廃線跡巡りなんてどうだろうかというこちらの心配はどこ吹く風。結構楽しまれていたようですがこんなに歩くとは思っていなかったのでは?
そもそもこの日がノグリキの祭の日でなかったら郷土博物館は開いていた訳で、そうしたらそこでの出会いはあったにしても一緒に廃線跡巡りはしなかったかも知れず、そういう展開になっていればこの記念写真は無かった訳です。この1枚は偶然の積み重ねが生んだ正に奇跡だと私は今も思っています。
築堤部分を歩いていくのが困難になり、一旦道路に戻るとどこからどう見ても「鉄道橋」にしか見えない橋がありました。そこを目指してひたすら歩きます。
車の走る道路橋はこの橋の右側にあり、かつての鉄道橋は歩道橋になっていました。
鉄骨が独特の造形美を生み出しています。
改めて見てみればナローにしては立派過ぎて何だか不自然。
橋の手前にはコンクリで出来た不思議な建物。しかしこれがあるからこの橋が鉄道橋だったことの証でもあります。かつてロシアにおいて鉄道は軍事施設であり、特に「橋」は防衛上意味のある構造物で、一定の長さ以上の橋は24時間体制で軍人が見張っていました。1991年当時、実際に橋を警備する軍人達を私は見ています。当然の事ながらその姿を私は写していません。そんなことをしたらフィルムは即没収でした。
2007年6月16日、鉄道歴史博物館の館長さんが撮影されたトゥイミ川橋梁。その頃はまだ線路があったんですね。この鉄路を乗ってみたかった!
時速40キロとして5時間以上も乗れるなんて考えただけでもワクワクします。台湾の旧台東線のようにナローの寝台車があったりしたら世界中から観光客が集まること間違いなし!という夢物語。
(追伸)このブログのUP回数が2700回を超えました。2010年2月26日のスタートですから足掛け5年半でここまで来ました。こうなったら3000回までは行きたいなあ。
今日のお題の「夢物語」で終わらせないようにしたいという本日の決意表明です。
オハ(Оха)まで226キロ。
そんな先まで750ミリゲージが繋がり列車が走っていたなんて信じがたいことですが、こうして道路標識を見るとかえってそれが本当だったと教えてくれているようでした。
花嫁さんたちと14:17頃に別れその45分後の15:03。築堤らしきものを見つけ、そこに上がったらありました。「オハ-ノグリキ狭軌鉄道」の廃線跡。何と枕木も残っている。
築堤の左側には池?湖がある。
日本とは違う風景だな。と、感想を一言。
そこを抜けると自然に返りつつある廃線の跡。
私は「乗り鉄」であって決して廃線跡巡りが趣味ではありません。でもそれは興味がないとうことではなく、最近は国鉄池北線(北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線)や小坂鉄道だったりチャンスがあればそれを楽しんだりしています。ましてここはサハリン。
貨物鉄道だったとのことですが、実際には客車もあったそうで、2000年頃は貸切列車とかも走ったりして日本からの観光客もここノグリキ近郊で体験乗車をしていたようです。
ロシアの町にはロシア正教の教会があります。
町の中心に近い場所にあることが多く、正に町のシンボルと言っても過言ではありません。(この3行は前振りです。後日また触れます)
ピクトグラム(交通標識)は分かり易さが勝負。この道路では遊んではいけない!ということが一目で分かります。
一方こちらは団地の中に入った道路。道路で遊んでも良いのでしょう。その分、車を運転する方は要注意!となるのですが、日本でもこのピクトグラムのある場所は作ってみる価値があると思うのですが如何でしょう?
それはさておき、団地の中を抜けて、
未舗装の道路を歩き、
橋を渡り、目指すは廃線跡。私たちがノグリキに到着した時に、オハへ行くバスの写真をUPしましたが、そのノグリキとオハとの間にはかつて軌間750ミリのナローの鉄道がありました。2007年にその線は廃止されたものの各所にその名残を見ることが出来るらしいことはガイドブックで見当をつけていました。
さあて見つかるかな?