2015年12月02日 20時51分
ここで樺太の日本時代の鉄道史を見てみましょう。参考資料は特定非営利活動法人名古屋レール・アーカイブス所蔵のものとサハリン鉄道歴史博物館から提供されたものです。なお内容については私自身が樺太/サハリンの鉄道史を研究しているわけではないので資料類から読み取れたレベルです。その点は予めご承知おきください。
大正11年の「ポケット汽車 汽船旅行案内」の路線図。東海岸と西海岸に鉄道が通っていますが東西を結ぶ路線はまだありません。大泊(コルサコフ)は東の鉄道の起点となっています。
一方、「時間表」昭和14年(1039年)12月号。大泊の下に「大泊港」の名があり、かつ汽船が連絡しているのが分かります。これが鉄道連絡線「稚泊航路」で、私達が今回なぞってきた航路です。
上部に「稚内桟橋・大泊港間(連絡線)」の欄があり、そこには稚内桟橋を8:50に出て大泊港に午後4:50に着く「1便」が掲載されています。210キロを8時間かけていたことがわかります。今回の“稚泊航路”が稚内発9:00、コルサコフ着が日本時間の14:30で所要時間5時間半の航路ですから現代の船はやはり早いですね。因みに樺太時代の大泊港の桟橋は私達が乗ってきた「アインス宗谷」が到着した桟橋です。
昭和3年発行の「樺太の鉄道旅行案内」に掲載されていた稚泊航路「亞庭丸」3200トンの写真。なお昭和14年の時間表には3391.43トンとありますがその違いはよく分かりません。この亞庭丸は貨客船で、貨物も積んでいましたが、私たちが「連絡線」でイメージしがちな青函連絡船や宇高連絡線の様な『貨車』の航送はしていませんでした。
一方、サハリン鉄道歴史博物館から提供された亞庭丸の写真。氷が海に浮かんでいるのが季節を感じさせます。
なおこの亞庭丸は砕氷能力があったということです。
こちらは大泊港駅。鉄道の線路があり、船から列車にそのまま乗れたことがこれで分かります。なお写っているのはこの航路に就航していた「亞庭丸」「宗谷丸」のどちらかの特定は出来ていません。
大泊市街軌道。「大泊」駅を中心に走っていたということですが、私にはこれ以上の情報がありません。