1999年9月21日。台湾中部を大きな地震が襲いました。921大地震、台湾中部大地震、集集大地震とも呼ばれるその地震は死者2000人を超える大災害で、その時、日本からの救助隊が現地で大きな力を発揮し、そのことで日本は台湾の人から大変感謝され、それが東日本大震災や今回の熊本の大震災の台湾からの義捐金等に繋がっています。私自身、台湾の人から震災時の日本の救助隊への感謝の言葉をかけられたことがあります。
その震災からまだあまり日が経っていない2000年5月21日に私は大きな被害を出して一時不通となった阿里山森林鉄道を訪ねています。
※写真は起点の嘉義駅(阿里山森林鉄道のホーム)
以前からこの鉄道に乗りたいと思いつつ、なかなかそのチャンスは来ず、この時は今と違いインターネット等の情報もなく、台北空港到着時に観光案内所で阿里山森林鉄道が復旧していることをやっと確認して足を運びました。因みにこの日は阿里山に宿泊しているのですが、その宿も空港の観光案内所で手配してもらっています。
ただ観光案内所での情報では起点の嘉義ではなく、車庫のある次駅「北門」からの出発かもしれないと言うことで、結構綱渡りの状況。最終的には嘉義駅の切符売り場で確認したら「嘉義駅」から出るということが分かったのと座席がまだ空いていることも確認でき、この座席に揺られて13:30に嘉義を出発しやっとホッとすることができました。
ただ阿里山に着いて分かったのですが、当時の「阿里山駅」が地震で崩壊し、線路は使えるものの駅としては使うことが出来ず、列車は阿里山駅を通過し、今の沼平線「沼平駅」を起終点として使っていました。
ところでこの日の天候は雨ではなかったものの霧が立ち込めて視界不良。窓からの風景が絶望的な中、駅で人を見るとやっと自分が鉄道に乗っていることを思い出す程度。
途中駅で交換。確か終点(阿里山)までの約3時間半の間に2列車と行き違った記憶があります。
現在の阿里山森林鉄道の終点、奮起湖駅。阿里山森林鉄道に乗車中の写真はこれで全て。他の写真はまた後日にUPします。
さて今回の旅の乗車券。実は今年に入ってからネット予約が出来るようになり、早速それを使いました。
※予約票をプリントアウトし、それを切符売り場でパスポートと共に見せて発券してもらうシステム。
と言っても乗車の2週間前から受付開始なので、観光シーズンの3月下旬は安閑としていられる状況ではありません。案の定、受付初日の帰宅後にネットを繋げたら席が無い!「オーマイゴッ」。
でもそこは痛い目に何度も合っている私は起点を次駅の「北門」にしてみたところ「ビンゴ」。台湾の場合、乗車駅毎で発券枚数を持っている場合があり、何とか乗ることが出来ました。それにしても「嘉義」~「北門」間と席が違うのは何故?とか真剣に悩んでしまいます。
平成28年3月22日(火)。この日の目的は阿里山森林鉄道に乗ること。
●阿里山森林鐵路が正しいのでしょうが、公式サイトのhttp://www.railway.gov.tw/Alishan-tw/でも阿里山森林鉄道を使っていますので、このブログでもそれにならいます。
高雄から嘉義(かぎ、Chiayi)までは朝7時発の自強号112レに乗車。高雄駅の跨線橋から地下化工事の進み具合をチラ見。
列車は6:56頃に入線。それにしてもこの時間から行動しているのは鉄旅ならではですね。
朝食はホテルが用意してくれたボックス。オレンジジュースにヨーグルト、菓子パン。
それにおにぎりのセット。
実はホテルは朝食付きで予約していたのですが、朝食のスタート時間が7時からだったので、駄目元で何か列車の中で食べられるボックスを用意してもらえないかと前日に聞いたら、「ホテルで調理したものは出せませんが…」とのことでしたが、このセットをチェックアウト時に貰いました。
嘉義着8:15。
こちらは2000年5月21日の嘉義駅。駅舎の右側のオブジェの有無などの違いはあるものの駅舎そのものは同じです。知らない人が見ればこの写真を2016年と言ってもきっと疑わないでしょう。
西暦2000年5月22日。この日、私は南廻線を普通列車で旅していました。その時は高雄から13:16発の復興号175レ(日本で言うと準急列車、客車列車)に乗って枋寮着14:53。そこから15:33発の普通列車に乗り継ぎ東海岸の台東(当時の台東新駅着17:32)に向かっています。
出発地は普快の起点である枋寮駅。
乗車したのはDR2700型。この車両は台北と高雄を結ぶ台湾のメインルートである縦貫線が非電化だった時代に「光華号」という名称の最高速列車として運用され、正に「華」として君臨していました。縦貫線電化後は普通列車として、2000年当時は枋寮と台東を結ぶ南廻線の普快の運用にも入っていました。
この列車の行き先は「台東新」駅。その駅は台東の郊外にあった南廻線と台東線との接続駅で、枝線となっていた「台東新」~「台東」駅間の廃止後、「台東」に改名されました。因みにですが「台東新」駅を発着し、「台東」駅に入らない列車には「台東」駅との間に無料の接続バスが運行されていました。それは事前に知っていた訳ではなく、「台東新」駅に着いて知りました。
さて光華号の写真はかつて鉄道雑誌や書籍でも紹介されており、車内の真ん中にあるこのデザインも含め、海外の鉄道車両の中では特に私に強い印象を残しており、また憧れの車両の一つでした。
2000年に撮影した太平洋。このシリーズの(3)でUPした場所と同じような気がする…。
台湾鉄道の時刻表に17:55発と乗っていた枋野駅。いや時刻表に出ていたから「駅」と思い込んでしまったのですが実は「枋野信号所」。
17:45頃の到着でしたから約10分の停車。
4線もある広々とした構内に信号所のイメージはありません。ただホームが無いので到着した時に「駅にしては珍しいパターン」とは思いました。
他のお客さんたちが降り始めたので私も降りました。車掌さんや機関士さんも別に注意するわけでもなかったので「枋野信号所」だけの暗黙の了解というかローカルルールなのでしょう。
台湾といえどもこのアングルでの写真は、普通は撮影出来ないはず。
交換する自強号の到着が近づき(というより時刻表の出発時間が近くなり)乗客が全員車内に戻った頃、信号所の方が出てきました。
そして3672レの横を自強号が突っ走っていきました。んっ?普快の左側をこのスピードで通過という事は1線スルーだったんですね。今更ですが…。
太麻里から40分ほどの間は沿岸部を走ります。トンネルとトンネルの間は正に絶景の連続。
瀧渓駅。停車する度に降りているわけではないものの、時間がありそうならホームに出る気になるのは、自動ドアじゃない客車の旅だからと言えるでしょう。
列車が走っている最中、客室を出た最後尾のオープンな場所は、一応自分の中では立ち入り禁止にしました。車掌さんから「駄目だよ」と言われた訳ではありませんが、何となく止めた方が良いかなという感じでした。恐らく時速90キロは出ていると思われ、棒1本の向こう側は少々身の危険を感じるスピードだということもありました。
大武駅。ここから山に入ります。
単線が続いている南廻線でも、山越えのトンネルが連続する区間に複線区間があります。最初、信号所かと思ったのですが、2線区間が延々と続いており、これは複線区間だと確信しました。
往路の自強号ではあまり意識しませんでしたが、こうした発見が出来るのも、心まで開放的にしてくれる旧型客車の旅ならではなのでしょう。
複線区間の終わり。時間は17:41で、この前の写真は17:34の撮影ですから何だかんだで10分近くは複線だったのでしょう。ただこの区間、トンネル内で気付いたのですがどちらの線にも同じ方向に向かう信号機があり、複線というよりは単線並列なのでしょうか。
平成28年(2016年)3月21日、12:50頃に撮影した台湾最後の旧型客車の定期列車下り普快3671レ。
その台東からの戻りの枋寮(ぼうりょう、Fangliao)行き3672レに乗車。台東発16:08、太麻里発16:43、終着の枋寮には18:20着。
※定刻の時間は分かりませんが、太麻里着は16:39。
自動ではない手動の1枚扉。昭和の郷愁を誘います。
開けっぴろげの最後尾。
機関車はR103号。この形式は日本で例えるとDD51的な存在かな?アメリカ製なので前から見れば異国情緒アリ。でも客車は日本製なので私の年代には“懐かしい”列車です。特にこの客車3両という微妙さも私は心惹かれます。
太麻里で交換の自強号を待っていよいよ出発。
定期列車では今や大井川鐵道でしか楽しめない旧型客車の旅の始まりです。