2017年05月23日 20時00分
明治27年発行の「愛知県地理歴史」は小学校の社会科の教科書といったところでしょう。
そこにある「名古屋は熱田の北にあり…」がまさしく当時の“日本国内”における名古屋の地位を如実に物語っています。
「市街縦横に通じ、家並み正しく、商工業頗る(すこぶる)盛(さかん)にして…」とあるのですが、碁盤の目の「名古屋の街並み」は当時から知られていたようです。余談ですが、名古屋の人は道を聞かれると、「そこの交差点を北に…」といったように東西南北で教えたりしますが、これは全国的には珍しい部類です。(東京では「右」「左」です)
大きな2重丸の名古屋と直下の小さな2重丸の「アツタ」を見れば「なるほど、ふむふむ」と相成ります。
個人的には「天パク川」に馴染みがありますが、驚きなのは「アツタ湾」の名前。当時はまだ「名古屋港」が無かったとはいえ、こんな時代があったのですね。
最後に尾張全体の地図。こちらも興味津々。明治から現代までのあまりの変化に驚くばかりです。