《イベント1/鉄道写真展》
来週水曜日(8月30日)までキヤノンギャラリー名古屋にて、鉄道写真家/米屋こうじさんの写真展「Hello Goodbye」が開催されています。
昨日から明日・金曜日まで米屋さんが在廊されているとのことでしたので、ご挨拶かたがた行ってまいりました。
ところで今回の写真展の特徴は“鉄道写真展”なのに“鉄道車両”が写っていないこと。車内から見た窓外の風景だけの写真展で、それも被写体を止めてそれ以外を流すという、流し撮りの世界です。車両はなくとも“鉄道”をしっかり感じることが出来る不思議な世界が広がっていました。
※会場で流し撮りというか逆流し撮りの方法を教えてもらいました。
※この写真の右側の書籍は米屋さんの新刊「ひとたび てつたび」。サインを頂きました。
真ん中の缶バッジ2個は、昨年、米屋さんとご縁を頂いたミャンマーの思い出。多種の缶バッジの中から選びました。(上の缶バッジは新刊本の表紙写真)
左下のオリジナルスタンプもいい味を出しています。
●キヤノンギャラリー…地下鉄東山線・鶴舞線 伏見駅10番出口すぐ、10時~18時(最終日 15時まで)、日曜日はお休み、入場無料
《イベント2/森林鉄道資料展》
名古屋市熱田区にある「熱田白鳥の歴史館」では今月一杯(~8月31日)、「熱田区制80周年記念 山の日 関連事業 森林鉄道資料展」が開催されています。
まず「熱田白鳥の歴史館」って何ですか?ということでしょうが、熱田区の白鳥公園内にある林野庁中部森林管理局名古屋事務所が設置した『木材産業の歴史を分かりやすく解説、展示する資料館』で、小規模ながらなるほどと思わせてくれます。
ところでそもそも何で“白鳥公園”に林野庁の施設があるのかということもありそうですが、この地は木曽、飛騨地方で伐採された木材の一大集積地(白鳥貯木場)で、その跡地を利用したのが白鳥公園であることを知る人は名古屋市民でも今や少数派でしょう。1989年(平成元年)、名古屋市制100周年を記念してこの地をメイン会場にして「世界デザイン博覧会」が開かれたことも鑑みれば、かつてそこにあった貯木場の規模が分るでしょう。また1916年(大正5年)には貨物線/名古屋港(なごやみなと)線からの支線も開業しています。
※拙ブログで2016年12月1日にUPした「名古屋貨物ターミナル駅(3)100周年の八幡信号所のタブレット。」で紹介した八幡信号所がまさに白鳥への支線の分岐点です。
今回はその一角で森林鉄道に関する写真、ジオラマ、資料類が展示されています。
ジオラマは力作で、森林鉄道の往時の輝きを再現しています。
展示を見ていて「林業遺産」というのがあるのを知りました。時間が出来たらゆっくり回ってみようかな。
●熱田白鳥の歴史館…見学時間:平日 9:00~16:00、入場無料
※土・日は開館しておらず、しかも見学時間も限られます。たまたま平日に夏休みを取っていたので運良く見に行くことが出来ました。今回は森林鉄道の歴史だけではなく、常設展示されている産業としての林業とセットで見ることが出来たのが良かったと思っています。
豊原(ユジノサハリンスク)を出た列車がもう少しで真岡(ホルムスク)という地点。
バスの走る道路からは少し離れた場所でかつての豊真線はループ線を使い高度を稼いでいました。
昭和3年発行の「樺太の鉄道旅行案内」にその写真が載っていました。
2008年撮影のループ線。1994年にこの路線のトンネルが崩落し、一時は復旧を目指したこともあったようですが、そもそもロシアの鉄道規格の車両が通れないこともあって結局廃線となりました。しかし時にはホルムスクからループ区間の入り口まではこうした貸切列車が運転されたこともあるとのことで、この写真はその貴重な証となっています。
参考までにこのまま列車が奥に進むとトンネルに入り、ぐるりと坂を上りつつ一周して橋を渡りユジノサハリンスク(豊原)に向かうことになります。
この写真は「樺太の鉄道旅行案内」にあった豊原から18.3哩(マイル)、約29.5キロの距離にあった瀧ノ澤駅。豊真線の最高地点で標高1330呎(フィート)=約405メートルの地にありました。
昭和14年の路線図(再掲)で瀧ノ澤駅の場所を見るとそこは「奥鈴谷」の隣の駅。
実はバスに乗っている時に私が感じたこのルートの最高地点は昨日UPした海が見え始めた辺りでした。道路を走っていたからということもありますが、どうやら人間と言うか私の感覚が如何に当てにならないかということを証明してしまいました。
それにしてもこんな凄い山越えに挑む鉄道を明治の人が作ったのには驚嘆させられます。また豊真線の山岳区間はサハリンでも豪雪地帯として知られているそうですから、返す返すもただ単に「先人の努力」という一言で終わらせるわけにはいかないと思っています。
そのその昔の1980年(昭和55年)頃、内戦の真只中のカンボジアに本気で行きたいと思っていました。
今は番組制作会社「オルタスジャパン」の社長であり、当時は日本テレビの「NNNドキュメント」のディレクターであった小田昭太郎氏がその取材準備を進めていたことを知ったことがきっかけだったのですが、ただそういう非常時の国に取材に出向くには私のカメラマンとしての経験値(3年目)もさることながら技量がまったく足らず、それは断念しました。
もっとも私に研ぎ澄まされた映像センスがあり、卓抜した困難を乗り越える力があれば抜擢していただけたかもしれませんが、ただ「やりたい」だけでは進めない道があることも知りました。一方で「伝える」とは何をするかということか、はたまたジャーナリズムとは何かを自分の中で考えるきっかけになったことは間違いありません。
それから12年の時を経て、落ち着き始めたカンボジアでアンコールワットの修復を、日本の上智大学を中心としたメンバーで取り組むことになり、そこに愛知県岡崎市の石工さんたちも協力するということで、中京テレビではその姿をドキュメンタリーで追いかけました。その取材に向けての準備では、上智大学との打合せもさることながら、直前にカンボジアに入っていたオルタスジャパンのスタッフからも情報をもらったりもしました。プロデューサーであった私自身は、諸般の事情で行くことは叶わなかったのですが、いつかはカンボジア、そしてアンコールワットに行きたいと願っており、それが実現したのがこの3月13日でした。
1992年当時も取材としては様々なトラブルがあり、何せ日本からの連絡手段がまともに無い国にスタッフを出したプロデューサーとしては、事後報告で驚きの事実を知ることになり、撮影チームだけではなく全ての関係者の無事な帰国にホッと胸をなでおろした覚えがあります。
●1992年8月8日放送「崩れ行くアンコールワット~遺跡修復へのプロローグ~」
今回、日本の修復チームが力を発揮し、世界中から来た観光客で賑わうアンコールワット等の遺跡群を見つつ、「この部分が日本のチームが修復したところです」というガイドさんの説明には万感の思いがありました。
カンボジアは今でこそ平穏なアジアの国となっていますが、この賑わいが長く続くことを祈っています。
●写真は3月14日~15日撮影。
今回はブログの右側にある私のプロフィールの中身について書いてみました。新社会人の皆さんがこれからの人生でどんなプロフィールを作っていくのかを期待しています。
それにしても趣味の鉄道のブログを会社公式ウェブサイト内で始めるとはほんの数年前まで思ってもいませんでした。生生流転の世であってもこれだけは想像すらしなかった!こんな人生も世の中にはあるのです。
鉄道から少し離れてしまいましたが明日からまた“現場”に戻ります。
レンズにはオレンジ色のフィルターが付けられています。これはタングステンタイプのフィルムを使っていたためで、難しい話はさておき、要は電球の元では自然な発色となるものの屋外でそのまま撮影すると青っぽくなるので、それを補正するためにこのフィルターをしていました。
その分レンズが暗くなるため、ASA100のフィルムであればASA80で計算して絞りを決めていました。
所謂鉄道写真の世界では、私を含め外光の世界で写真を撮影していた方でタングステンタイプを使っていた方はほとんどいなかったと思います。例外的に(人工的な光源を使う)スタジオカメラマンの方が外でもタングステンタイプを使っていたかもしれませんが…。
レンズは12ミリ~120ミリのズーム。12ミリは準広角レベルで屋内撮影ではやや引けないレンズでしたが、ただそれを工夫するのがカメラマンの腕(発想力)ということで私にはハードルが高すぎました。(涙)
フィルムは200フィートのモノを使い、1回のフィルム装填で6分弱の撮影が可能でしたが、常にフィルム交換のタイミングを頭に入れて撮影する必要があり、ディレクターの意図を的確に感じ取り、まだ1~2分撮影可能だったとしてもそれをすっぱり諦めことが出来るまでに成長するにはやはり時間がかかりました。
その後、屋外でもビデオカメラを使うことが一般的になり、一本で20分回すことが出来るようになっただけではなく、上書き録画が可能な上にダークバックも不要となり、夢のような時代がやってきたと感動した覚えがあります。
ところで当時は「鉄道」の取材によく行きましたが、そこで私は個人のカメラで撮影していたでしょうか?
答えはほぼ否です。やはり仕事ですので個人のカメラを持って行ったことはほんの数回程度しか記憶にありません。もっとも持って行ったとしても撮影する時間など殆どなく、1978年に行った大井川鉄道でも車庫でほんの数枚しか撮っていません。また茶畑越しに走る蒸気機関車をテレビ放送用に撮影はしましたが、当然のことながらスチール写真はありません。
これが数少ないうちの2枚です。ただ当時、何としてでも自分(個人)のカメラで撮影しようとは思っていませんでした。今思えばきっと撮影を仕事にしていたからなのでしょう。
これは1978年4月の取材時にスタッフが撮ってくれていた一枚。カメラはアリフレックスで、主にキチンとした映像を撮るときに使っていました。
※三重県紀和町(今の熊野市)の石原産業紀州鉱山鉄道の取材時。
こういうように当時でもレアな鉄道を取材していました。
その次のステップで使用したのが通称「ミニエクレール」と呼ばれるカメラ。バッテリーを使用するモーター駆動のカメラにあって、この機種は現場で録音をすることを前提に作られた静かなカメラで、中京テレビだけではなく当時全国で作られたドキュメンタリー作品の多くはこのカメラで撮影されていたはずです。
と言ってもこのカメラのフィルムで録音していたわけではなく、音はオープンリールのポータブルテープレコーダーで別途録音し、音と映像のタイミングを合わせて編集~放送していました。
ところでこのカメラを回すということ=ドキュメンタリーのカメラを担当することであり、当時、思わぬチャンスが回ってきたことで実にハイテンションな日々でした。(一応、仕事は冷静にしていました。但し『つもり』)
このカメラは右目でファインダーを覗いていますが、ピント合わせをする時を除けば、撮影時はやはり左目を開けていました。
久しぶりにカメラを担いだので少し傾いているのご愛嬌ということで…。
ちょっとどころではなく、38年前の何とも大昔の話。申し訳ありませんが数日「鉄」から離れます。
4月も半ばとなれば新入社員も何となく社会人の第一歩を踏み出した実感を持ち始める頃ではないでしょうか?
因みに私は、報道部に配属され、カメラマンとしての研修をしていました。
このカメラはフィルモもしくはDR(DRと言っても台湾の気動車の形式ではありません)と呼ばれていたモノ。
16ミリのフィルムカメラでぜんまいじかけで駆動するタイプ。パチカメでも今やデジタルが主流のため、そもそもフィルムで撮影している人を見かけなくなりましたが、その頃はテレビの撮影でも放送局のスタジオと中継を除けばほぼフィルムの時代でした。
※今時のテレビ番組にあまたあるタレントさんがリポートするグルメ番組は、当時は考えられなかった。
そのフィルムは光が当たればその後は使えなくなってしまうため、フィルム交換は写真右側の黒い袋(ダークバッグ)を使い、この中にカメラ本体を入れて手探りで入れ替えていました。
上の軸に未撮影のフィルムを入れ、グルッとレンズ後ろを通して下のスプールに巻き撮影準備完了。100フィートのフィルムで3分弱の撮影が出来ました。発生物と呼ばれる事件・事故の一報は100フィートで収めるのが原則でしたが、カメラ研修では単にカメラを回すだけではなく「映像理論」の基礎を学んだことも良い思い出です。
絞りもピント合わせも手動。どころかこのカメラではレンズを通してのピント合わせはどえらい面倒で、3本ついた単焦点レンズの内、流石に望遠はちゃんとピント合わせをやっていましたが、標準とワイドレンズは目感でセットして撮影していました。
ファインダーがあるではないかと思われるかもしれませんが、これは画角の確認用で、しかも近距離の被写体は、レンズとファインダーの位置の関係で、“ズレ”に注意という代物でした。
ただ動力が不要であり、軽量で手軽ということもあって、38年前であっても一時代前の機器ではありましたが、予備カメラとして最後まで現役でした。
※最初の写真で違和感があるかもしれませんが、このカメラでは左目でファインダーを覗いていました。そして右目は周りの状況を判断するためにいつも開けており、まずこれに慣れるのに戸惑いました。