OD451が牽いて来た列車の最後尾にDD511801が繋がれます。
連結作業は毎度のことながら心ときめく一瞬です。
そして編成が整うと出発準備完了。
こうして下の図でD線からA線に転線して、重要文化財を通り四日市(東藤原)に向かっていきました。
B線~D線と列車を引っ張ってきたOD451はそのままD線を戻り、C線に転線してDD511801が牽いて来た列車に繋がれました。
そして太平洋セメントに向けて徐(おもむろ)に出発していきました。
(注意)
この入替を撮っていると末広橋梁を渡る戻りの列車は撮影できません。理由は…、止めときます。それほど勿体ぶることもないですね。実はこの入替中、C線とD線を跨ぐ踏切が“開かず”となり身動きが取れない状況となるからです。2枚前の写真に写っている踏切です。
現役では最古の鉄道可動橋、末広橋梁。
昭和6年(1931年)12月に製作され全長は58メートル、幅は4メートル。平成10年(1998年)12月25日に国の重要文化財に指定されました。
そうなのです。国の重要文化財に指定されて以来、早い時期に来たかったのですが、いやはや10年以上の月日が流れてしまいました。
末広橋梁は「跳開式(ちょうかいしき)」と呼ばれる可動橋で、要は列車が走らない時間は、船が通行できるように橋桁を跳ね上げておくタイプです。その時、跳ね上げてなくても通れそうな船が私の前を行き過ぎました。
文化庁の「国指定文化財等データベース」⇒「末広橋梁」⇒「構造及び形式等」には、以下のような解説がありました。
●鉄製プレートガーダー橋 四基(跳上橋 一基を含む)、コンクリート製橋台 二基(築堤部護岸を含む)・コンクリート製橋脚 四基(機械室を含む)、バランスウェイト・支柱及び巻上装置 一式(操作室を含む)よりなる
とまあここの構造物のその全て、つまり遍く(あまねく)指定されていることは間違いなさそうです。
ところでデータベースの所有者名には、株式会社日本貨物鉄道・株式会社東海旅客鉄道・三重県とあり、港湾施設となるので三重県の名前も入っているのであろうと思いましたが、意外性はありました。
それにしてもただの動く橋なのですが、その美しさに目を奪われました。
平成25年10月30日(水)。突発的に休めることになり、三重県四日市市の末広橋梁(旧四日市港駅鉄道橋)に出かけることにしました。
DD51が牽引する貨物列車がゆっくりと橋を渡って行きます。(12:53頃撮影)
少し遅めの昼食を済ませ、次の下り列車を待ちました。のんびりとした昼下がりです。(14:55頃撮影)
何れも三岐鉄道東藤原駅発のセメント列車で、JR富田駅~(関西本線)~JR四日市駅~(通称・四日市港線)~太平洋セメント四日市出荷センターを結んでいます。
10月17日の赤川鉄橋に引き続いての貨物列車撮影。でもここは特別な理由があって来たわけではありません。いやっ、理由はあったのですが、ただ赤川橋梁のよなに何か差し迫った事情もなく、でももう何年も前から来たかった場所です。
昨日に引き続き鉄道友の会名古屋支部主催の「さよならTrain117乗車会」です。今回の乗車区間は「名古屋駅」~「中部天竜駅」間の往復。「豊橋駅」~「中部天竜駅」間を走った『そよ風トレイン117』の再来、名古屋延長バージョンと言ったところですね。
名古屋駅を9:13に出発し、途中笠寺駅に9:22着。ここで名古屋駅発9:17の特別快速に先を譲り9:26に出発。この後はひたすら突っ走り、313系の普通電車を追い越し(結構快感)、後続の新快速に追いつかれることなく豊橋(10:13着)まで逃げ切りました。刈谷も安城も岡崎も蒲郡も通過。国鉄時代の急行でもこれほどの経験をしたことがありません。多分連続フルノッチ???
豊橋は10:20発。快調に中部天竜を目指します。ところで飯田線沿線では下り、上りとも多くの撮り鉄さんが待っていてくれ、皆さん、電車撮影後は乗車する私たちに手を振ってくれていました。
撮り鉄さんたちも電車に乗っている私たち同様、恐らくこれで最後であろう飯田線の「117系」「トレイン117」を楽しんでいたと思います。
11:16頃。「三河槇原」駅の近く。宇連川で川遊びをする子供たちが列車に向けて手を振ってくれていました。
やがて列車は分水嶺を越えて「中部天竜駅」には11:53を少し過ぎて到着。
折り返しの出発は13:00。少し時間があったので「117系」の撮影をせず周囲を散策していました。清流・天竜川にはアユ釣りを楽しむ人がいたので橋から川を覗き込んでみたら…、
意外と魚影が濃くてビックリしました。
画面左上の銀色の光っている“何か”も魚(体が横になっていますが生きています)で、真ん中に集団がいます。
中部天竜駅舎から「佐久間レールパーク」がかってあった方向を撮影しています。閉館からもう4年近い歳月が流れているんですね。
さて「中部天竜駅」に戻って記念撮影。この後は早々に冷房の効いた車内に逃げ込みました。
「中部天竜」発13:00、「豊橋」発14:27、「名古屋」には15:51に到着。
こうして7月14日(日)の鉄活は終了しました。
何故「117系」の“さよなら”に参加したのか?それは私にとって「117系」の名古屋登場時のインパクトがあまりにも強かったからです。恐らく40歳を超える年代の皆さんには共感していただけると思っています。
最後にこの楽しい乗車会の企画・運営をされました鉄道友の会名古屋支部の会の皆様に、御礼申し上げます。ありがとうございました。
本日(7月14日)、鉄道友の会名古屋支部主催の「さよならTrain117乗車会」に行ってきました。
午前9時、大垣からの回送車が名古屋駅に顔を見せました。私にとって「トレイン117」は初乗車。
ところでまずは懐かしの「トレイン117」。登場時はこんな塗装でした。
2010年(平成22年)8月22日、豊橋鉄道市内線の運転体験の帰りがけに豊橋駅で出逢いました。
※2010年9月12日のブログでもこの写真を使っています。
さて乗車した経験がある方には申し訳ありませんが車内がお初の私に免じてお許しください。
2号車のウィンディースペースは渡る風も涼やかに…とは今日に限っては少々残念でしたが、これだけ風を浴びて走る経験はもう記憶の彼方でした。
座席はというより、大型テーブルの下も含めてご覧ください。
で、このテーブルの下に隠されたシートには大事な役割があります。それは足置き。勿論靴は脱いでいます。
遅まきながら祝!富士山の世界文化遺産登録決定。
まずは2008年(平成20年)11月5日の富士山。名古屋から仙台に向かう飛行機の中から撮影したものです。
この日は好天に恵まれ、かなり長時間にわたって富士山を望むことが出来ました。
なお、鉄道が絡んだ富士山の写真を発掘することができませんでした。もっともそもそも撮っていなさそうです。
また今回の世界遺産登録に当たりめでたく三保松原が含まれたいうことで、今はなき国鉄清水港線「三保駅」の駅舎をUPします。1979年(昭和54年)9月16日の撮影で、この日は朝から二俣線、静岡鉄道と乗りつぶしをしていて、「新清水駅」からバスで国鉄「三保駅」にアプローチしました。
何せ清水港線は驚異の1日1往復しかなく、鉄道で往復するのは1日がかりとなってしまうためそれははなから頭にありませんでした。
乗車したのは668レで「三保駅」発16:14、「清水駅」着16:38。
「三保駅」の入場券。 1日1往復(朝:清水発三保行き、夕:三保発清水行き)しか走っていなかった超閑散路線にも関わらず有人駅でした。もっとも当時の清水港線は貨物列車が運転されていたのでそのために駅員さんがいたのかも知れませんが実際のところがどうなのかまでは分かりません。無責任極まりない情報をお許しください。
清水港線乗車後は身延線に向かいました。