2012年05月19日 19時27分

高山本線ローカル列車の旅(15)。

高山本線「下呂」駅を出発すると飛騨川沿いに歩みを進めます。
上段写真は飛騨川の名所の一つ『中山七里』で、車窓からその絶景がこれでもかと言うほど堪能できます。渓谷美を楽しむ路線は全国に数々ありますが、その中でも私のお勧めの場所です。
ここは車(国道41号線)で通ってもその風景が楽しめ、自家用車の場合、運転席にはあまり座っていたくありません。

下段写真は「焼石」~「飛騨金山」間にある『福来信号所』で、ここで富山行き特急「ひだ7号」と交換です。一見単なる交換風景で、正にその通りの“交換”なのですが、私が注目したのは『踏切』です。
ご覧のように遮断機もある「第1種」なのですが、その道路は未舗装で、まるで農道のようであり、なおかつこの踏切を車が通れるような感じはしませんでした。ただそれがここで書いている主たる理由ではありません。
実は乗車していて気付いたのですが、1714Cは踏切のある場所を越えてから停車したのですが、その位置があまりにも踏切に近すぎて踏切の遮断機が上がらないというか、警報機が鳴りっぱなしというかそういう事態が発生していたのです。
これは停車直後に警報機が止まらなかったので、直ぐに列車交換かと思いきや、なかなか「ひだ7号」は到着せず、それで「おやっ」と思って最後尾に出かけ、踏切と「ひだ7号」込みの写真を撮影しました。停車していたのは恐らく3~4分だと思いますが、「ひだ」の通過後も警報機はなっており、1714Cが出発し、踏切から少し離れてからおもむろに音が鳴り止み、遮断機が上がりました。
その間、踏切に人影はなかったのですが、それよりも街中で同様の事があれば“騒音”とされてしまいそうな出来事でした。

(参考)
5月16日のブログで書きました『間違えた写真』は今回の写真です。この写真を2回も見ることになった皆様。改めてお詫び申し上げます。

2012年05月18日 19時24分

高山本線ローカル列車の旅(14)。

「特急」が本当に『特急』だったころ、「高山」~「美濃太田」間の停車駅は「下呂」だけでした。

その下呂駅に到着する直前、飛騨川と言うか、現在の下呂市、旧の益田郡(ましたぐん)界隈では益田川(ましたがわ)と呼ばれている川の鉄橋を渡ります。高山から乗車した場合、この下呂温泉街を望む橋を渡ると「下呂に到着だあーっ」といつも思っていました。

橋を渡ると直ぐに下呂駅到着で、丁度私の座っていた席の目の前に「天下の三名泉 下呂温泉 下呂駅温泉塔」が見えました。

この1714Cは、下呂駅到着時は6分遅れの11:31着だったのですが、そもそも停車時間は16分あり、出発までに10分あることから、車内の方がこぞって温泉の感触を確かめに行くかと思いきや、私を含めほんの数人が楽しんだだけで、折角の温泉をもう少し多くの方に感じてほしいと思いました。

何せ、特急では停車時間が短すぎ、「見る」ことしか出来ませんが、それゆえ普通列車だから可能となる旅を堪能して欲しいと願うのは無理なことなのでしょうか?いささか残念でした。

(追伸)
下呂温泉は私自身、泊まったことがあるのは仕事が1回とプライベートが1回の計2回で、名古屋から近すぎて(?)なかなか行けない場所です。ということはありますがここの温泉は私のお勧めの一つです

2012年05月17日 19時22分

高山本線ローカル列車の旅(13)。

「久々野」を出て、飛騨川沿いの景色の良い区間を走行しているにも関わらず、ここで私は車内を見回していました。

上段写真で窓の下にある4つの台形の『ポツ』。若い方では理解し難い存在とも言える、もともと灰皿が取り付けられていた痕跡です。
キハ48形(40・47を含む)は昭和52年、奇しくも(くしくも)私が働き始めた年に登場しており、その頃は灰皿の付いた車両と言うより、国鉄のクロスシート車両にはほぼ灰皿は付き物だったはず。
また扇風機も同様で、流石に冷房は後で付けられましたが、それでも冷房化後もこうして残されている車両に乗っていると、“昭和の時代”に戻った気分で、人生の半分以上を昭和で過ごした世代としては何か心がホッコリします。

最後に下段写真のベンチレーター(換気装置)ですが、真ん中に丸い輪があるのを確認できますでしょうか?
これはレバーになっており、長いトンネルに入る前とかに、車掌さんがこのレバーを動かしエンジンの排気が車内に入らないようにしていたような記憶があります。ただそんな覚えがあるだけで、確証はありませんが…。
また冬の寒い時にも…、こちらは相当に怪しいです。

3つまとめて“昭和の遺物”なのかも知れません。

2012年05月16日 18時46分

高山本線ローカル列車の旅(12)。

分水界と分水嶺。その違いは?
広辞苑には、『分水界』とは「地表の水が二つ以上の水系に分かれる境界」とあり、『分水嶺』とは「分水界となっている山脈」とあります。
私にとって、その言葉通りのこれぞ『分水嶺』と感じる場所の一つが高山本線「飛騨一ノ宮」~「久々野」間の『宮峠』です。『宮峠』から北は「宮川」(※)が富山湾~日本海を目指して下って行きますし、『宮峠』から南は「飛騨川」が木曽川を経由して伊勢湾~太平洋に繋がります。
(※)国土交通省のHPでは「宮川」は「神通川(じんづうがわ)」であり、『岐阜県では「宮川」と称し』と掲載されています。
(参考)
「宮川」(神通川)の源流は、『宮峠』からもう少し、西南にある「川上岳(かおれだけ)」です。
一方、「飛騨川」は「乗鞍岳(のりくらだけ)」の麓とされています。

上段写真は、「飛騨一ノ宮」を出て正に宮峠のサミット近くで車内から撮影したものですが、こうして飛騨一之宮の盆地風景を見下ろしていると、蒸気機関車の時代の峠越えはさぞかし苦労の連続であったであろうということが容易に想像できます。
ところで分水嶺は旧の国境(くにざかい)にありそうなイメージですが、ここでは峠を挟んで北も南も“飛騨”というのが面白いですね。

下段写真は「久々野」での特急「ひだ3号」との交換です。時刻表に列車編成表では7両なのですがこの日は8両で、なおかつ平日にも関わらず結構乗客も見かけ、流石にゴールデンウィークと感じ入りました。ところでこの久々野。今は特急も停車する駅なのですが、私が社会人になった昭和52年頃は“急行停車駅”で、“特急停車駅”ではありませんでした。もっともその頃、“特急”はまさに『特別な』“急行”であり、よもや“特急”は走れど“急行”が無い時代(高山本線の話しです)が来るとは想像だにしませんでした。

(お詫び)
本日のブログをUPした時間から約2時間ほど、貼り付けた写真が間違っていたことに気付いていませんでした。
現在は本来のものに貼り直しましたが、間違えた写真は後日UPしようと加工したばかりのものでした。
恐らく同じ写真を2回みることになった方もいらっしゃると思いますが、ご容赦ください。

2012年05月15日 19時28分

高山本線ローカル列車の旅(11)。

海抜573メートルの「高山駅」です。今時、骨董品と言いたくなるホームの洗面所です。因みに3枚ある鏡の一番右端のものに私の体が一部写っています。

この洗面所、前は至る所で見かけたのですが、最近はすっかり見かけることが無くなってきました。思いの他古びてというかくたびれて見えず手入れされてようでホッとしましたが、どれくらい前からここにあるのかは、高山駅を仕事だけでも過去30年以上に渡り、30回以上は乗り降りしているはずの私でも、「物心ついた頃にはありました」としか言いようがありません。
「国鉄時代の産業遺産」として“保護”の対象にしたいと個人的には思っていますが、到底叶わないことでしょう。なお、この意見はあくまでも私・個人の私見です。

でもホーム上の洗面所がこのように、蒸気機関車や夜行列車が無くなったあとも長く残され、使われ、愛されていることは素晴らしいことだと思いませんか?

一方、下段写真は見た通り「駅弁」売り場です。だから何なのだと言われそうですが、驚きだったのはほぼ中央にある4枚のガラスの部分の右側から2番目の部分にある貼り紙です。
内容は「特急『ひだ』2・4・6・8・20号では車内販売を行っておりません」とのこと。
『時代』と言えばそれまでかもしれませんが、午前中&18:45に高山駅を発車する列車には車内販売が無いということになります。いつからそうなっているかについて、私には情報がなく書きようがありませんが、何れにしろそれほど需要が無い証であり、何とも言えない気分に襲われました。

余計な話しでしょうが、500ccのペットボトル飲料が出始めてから、いつも私のカバンにはそれが入っており、車内販売で飲料を買うことが極端に減ったのは確かです。こういうことも小さいことかも知れませんが、積み重なっていったのでしょうか?

2012年05月14日 18時15分

高山本線ローカル列車の旅(10)。

「飛騨古川」を出て暫くすると『ピンク』というよりも『桃色』と言う方がピッタリの木の畑が目に飛び込んできました。この木は飛騨名産の『モモ』であると私は確信しており、それゆえ『桃色』という表現が相応しいと感じた次第です。
撮影したのは「飛騨国府」~「上枝」(ほずえ…日本有数の難読駅)の間で、目に付いた最初の畑はカメラが間に合わず、この写真の場所でギリギリ間に合いました。
同じローカル列車の旅でも、冬の飛騨路は「白」のイメージですが、春はこのシリーズの入り口で紹介した『臥龍桜』であったり、季節の「色彩」を感じる旅となりました。

そうこうしている内に、1826Dとしての終着駅「高山」に到着。一番左側の線、駅舎サイドの一番線への入線です。この列車はここから1714Cと列車名を変え再出発です。
因みに2番線に停車中の列車は1711C~1851Dの「岐阜」発「飛騨古川」行きです。

ところでこれらの列車番号の「C」ですが、いつから始まったもので、「C」と「D」の違いって何だっかが全く思い出せませんでした。JR東海の電化路線では「G」とかもあるので、確か列車名に「C」が付いた場合はワンマン運転の気動車で、「G」の場合は電車のワンマンだったような…等と思いつつ…。
「Wikipedia」の「列車番号の付番方法」で検索したらやはりその様な記述があったのですが、何れにしろその歴史までは捜しきれませんでした。

「鉄」ではない乗客の方にとっては、あまりというより全く実用的な意味合いはなさそうな話しでしょう。まあ車内で列車番号が案内されることは無さそうですから…。

2012年05月13日 17時27分

高山本線ローカル列車の旅(9)。

平成24年5月2日(水)、「猪谷」発9:11の「美濃太田」行き1826Dは9:55頃「飛騨古川」に到着。時刻表では発時間しか記載が無いため、その時間が定刻かどうかは前後の列車や逆方向に向かう列車の次駅までの所要時間から推し量ることになりますが、間違いなく定時での運行のようでした。

駅舎には上段写真の『海抜493m』『岐阜より151.3km』と書かれた木の板があり、距離は岐阜から富山に向かって徐々にその数字が大きくなっていき、一方“海抜”は分水嶺が『宮峠』(今回の列車を基準にすると「飛騨一ノ宮」~「久々野」間)となるため、少なくともこの飛騨古川は、高山よりは標高が低いことになります。

ところで何でこの“板”の話しをしているかと言うと、私がこれまでこの存在に気付いておらず、「へーっ。こんなの前からあったっけ?」と思ったことがその理由です。この飛騨古川の町は、有名観光地ということも含めて私は取材で何度も訪れています。その取材の際、車で来ることの方が多かったものの、勿論、鉄路で来たことも1度や2度どころか、少なくとも片手の回数は利用しているはずです。にも関わらず、です。

これまでこうしたモノを鉄道趣味誌でも見かけた記憶が私には殆どなく、もっとも私が知らないだけかもしれませんが…、駅の風景として写真に撮り記憶に残していくことは、駅の歴史を語る上で、きっと駅名標の価値と同等にあると感じました。

話しが遅れましたが、下段写真で出発してゆく列車は、ここ「飛騨古川」で交換の1825D(「高山」発「猪谷」行き)で、定刻は9:56。その時間通りに動き始め、次駅の「杉崎」を目指してゆきました。

2012年05月11日 18時49分

高山本線ローカル列車の旅(8)。

「風見鶏」のある駅舎の『坂上(さかかみ)』駅は、平成の市町村大合併までは、岐阜県吉城郡宮川村(今は岐阜県飛騨市)の代表駅でした。

(宮川村の思い出)
宮川村の名前の由来は、正に高山本線沿いを流れる『宮川』にあります。その『宮川』沿いに高山本線が敷かれました。それはともかく、そんな宮川村を昭和62年の冬、「ふるさとわが町ベスト10」という東海3県の市町村を巡っていく番組のディレクターをしていた私は、取材のため2度、この村に通いました。(昭和62年3月29日放送)

ここは私の仕事の中でも特に印象が残っている市町村の一つで、人口は確か1400人ほど(昭和62年当時)で、岐阜県では揖斐郡坂内村(今は揖斐川町)よりは人口が多かったものの、山国・岐阜県にあっても人口の少ない方の村でした。

今は雪の季節ではありませんが、高山本線はこの3月までDE15のラッセルが走っていたことで知られており、それだけ行き深い土地柄と言うことなのですが、私の取材した年は正に雪の当たり年で、撮影にあたり、いつもは3日から4日だったロケ日数を増やし、4泊5日かけて撮影しました。それでも毎朝、旅館の前を除雪車がやってくるまで何ともならなかったことはよく覚えています。そんな中、旅館から徒歩で行ける撮影場所には、膝上まであった雪をラッセルしながら向かいました。

そんな冬の時期に取材に行った理由は、やはり『雪』です。そして強く印象に残り、今も覚えているのは『宮川中学校・坂上小学校』に冬の間だけの寄宿舎があったことです。
当時、宮川村では小中学校から離れた地域に降雪時、直ぐ除雪ができないこともある道路があり、そのため週末を除いて家ではなく寄宿舎で生活する小中学生が5人いました。その寄宿舎も道路の除雪作業が、速やかに行われるようになり、昭和62年3月をもってなくなることが決まっており、その最後の子供たちの様子をどうしても取材したかったからです。子供たちの思いも様々でしたが、親からは「これからは真冬でも毎日、子供の顔が見られる喜び」の声があったことが印象的でした。

東海3県は、隅から隅までと言いたくなるほど私は取材に行っており、その場所は、特急で通過してもあまり思い出すことはないのですが、普通列車で通ると何故か胸の奥から当時のことが湧き上がってくるのです。

風見鶏のある駅舎は当時木造で、駅員さんもおられました。

2012年05月10日 18時46分

高山本線ローカル列車の旅(7)。

こうして平成24年5月2日の『3時間55分の旅』が始まりました。
『キハ48-3814』(美濃太田側)+『キハ48-6809』(猪谷側)の2両編成の車内はご覧の通りのガラガラ。県境を越えたところですので致し方ないのでしょうが・・・、やっぱりしょうが無いですね。

下段写真は「打保」~「坂上」間で、『宮川』に沿って走る区間です。『宮川』と言えば飛騨高山の街を流れ、“赤い橋”が掛かっている川と言った方がイメージしやすいでしょうか?
あまり意識している人はいないのでしょうが、実は線路からこんなに川が近い区間があるんですね。切り立った岩が連なる“渓谷”とまではいきませんが、山懐に抱かれて高度というか標高を上げていく(稼いで行く)列車の車窓からの風景は、飽きる事がありません。また、この日の朝は6時頃に起床しており、少し早かったので目をつむって乗っているつもりだったのですが、自然の景観はそんな私の考えを認めてはくれませんでした。

2012年05月09日 18時44分

高山本線ローカル列車の旅(6)。

上段写真は、850Dから撮影したJR東海キハ48形です。850Dが停車した直後に撮影しました。
下段写真は、1826Dが動き始めた直後のスナップです。

この日、850Dは少々遅れており、「猪谷」定刻では9:05着だったのが9:08着でした。ただこの遅れは“誘導信号機”の関係ではなく、始発から遅れ気味で、『速星』で遅れが決定的になっていました。(海外では誤差の範囲というより“定時”ですね)
一方、1826Dは定時の9:11発でいくら目の前の車両への乗り換えであったとしても、3分乗り換えは気持ち的には慌ただしい状況でした。

それにしても、同一鉄道会社の車両運用上の都合で、『車両交換』のため乗り換えたことが何度かありますが、その場合でも、同一ホームの反対番線に到着した車両への乗り換えか、もしくは乗ってきた車両を転線させ、入線してきた車両への乗り替えだったことが多かった覚えがあります。同一線上で向き合った車両の乗り継ぎとは何とも不思議な感じでしたが、きっとここ「猪谷」では日常の出来事なのでしょう。

何を今更の話しですが、富山行きの下り特急「ひだ」は正にこの線路上を走ります。
実際、私は平成22年1月15日に特急「ひだ」でこの線路上を通っています。その線路上で、この光景が繰り広げられていることに私が反応しているのです。

さてさて私の知識不足の感は否めませんが、他の路線でこうした例はあるのでしょうか?



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プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!