2015年06月20日 20時16分

しなの鉄道しなの鉄道線「ろくもん」の指定席券。

篠ノ井駅からはしなの鉄道しなの鉄道線に乗車。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_18

10:54発の小諸行きに乗車。(写真右側)

写真左側の電車は10:52発の長野行き。

初めてみるしなの鉄道の115系電車。今やクラシックな部類の電車ですが、シックなしなの鉄道カラーが結構似合っている気がしました。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_20

坂城駅で保存中の湘南色の169系。

駅構内のどこにあるのかまでは調べてなかったので乗っていた電車の先頭車の貫通扉のガラス窓から覗くのが精一杯でした。この169系、多分急行「信州」か何かで2~3度乗車していると思います。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_26

さて上田に11:23着。

駅前で真田幸村が出迎えてくれました。でも実はこの写真を撮る前に向かっていたのはしなの鉄道の切符売り場。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_23

このしなの鉄道の洒落た暖簾も切符売り場で一仕事した後に撮影したもの。

DSC02441

で、この駅で真っ先にした『お仕事』は「ろくもん」の指定席のGET。

一応2日前に空いているのは電話で確認していましたが、当日の空きがあるかどうかはある種の賭け。でも賭けに勝ちました。これでこの日のその後の予定が全てFIXしました。

それにしてもA5サイズの巨大な指定席券。比較用にしなの鉄道の乗車券と「しなの」の乗車券・特急券を並べてみました。時刻表付きはナイスですがやはり大きい。因みに偽造防止のすかしあり。

この指定席券の発券方法ですが、指定席の管理はオンラインのパソコンで行われているようで、席が取れるとプリンタからA4サイズの紙が出てきて、その半分を鉄道会社の保存用にし、半分を乗客に渡しているようでした。(だからA5サイズなのかな)

昭和の時代、手書きで指定席券、寝台券などが発行されることもあった時代とは隔世の感ありです。これならそれほどの座席数を販売しない鉄道事業者でも大きなシステムを導入する必要が無さそうで、良いアイデアと感じました。

DSC02442

その「しなの」の乗車券・特急券に押された車内改札印。「ありがとうございます 名古屋運輸区」とあるのを初めて知りました。前から使っていたのかも知れませんが何せあまりJR東海の在来線特急を使わないので、見過ごしていたのかも知れません。時代は変わる…。

(追伸)JR東海のウェブサイトで、車内で乗車券等の確認を行う行為を「車内改札」ということを改めて確かめました。一方、私の頭の中は相変わらず「車内検札」のままです。このブログにUPする用語については出来る限り鉄道事業者の公式の見解に基づくように努めています。

2015年06月19日 20時06分

上田電鉄、しなの鉄道「ろくもん」そして北陸新幹線。

ドイツの鉄道シリーズは暫くお休みします。

2015年6月13日(土)、千種駅に朝7時50分頃到着。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_2

空が青い!

梅雨時とは思えない晴天に恵まれました。もっともこの日から2日間の旅を決断したのは6月9日(火)。週間天気とにらめっこし何とか土・日とも雨降りは無さそうと判断したからです。

この日は

1)上田電鉄

2)しなの鉄道「ろくもん」

3)北陸新館製

こんなところを廻りました。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_4

最初の目的地は長野県の上田市。ということで千種駅8:06発のしなの3号に乗車。まずは篠ノ井を目指します。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_8

見えれば良しとしていた木曽福島駅に保存されているD51775も何とかカメラにも収めることが出来ました。

それにしても振り子電車は速い!上松駅にほど近い浦島太郎伝説の「寝覚ノ床」もあっという間の通過で、かつて列車内で車掌さんが案内放送していた時代があったのを思い出しつつ、もっとも383系「しなの」で放送されても乗客の方でその地を確認することは難しいでしょう。

昭和の時代にディーゼルカーや客車に揺られていた時代は一体何だったのでしょう…と懐かしんでしました。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_12

この善光寺平の絶景もあっと言う間に通り過ぎます。いつかは姨捨の駅に降り立ち、じっくりと味わいたいと思いつつ未だその願いは叶っていません。

2015_06_13-しなの~上田電鉄_14

この風景を最初に見たのは多分、15歳の時。もう46年も前のことです。夜行急行「きそ」で冠着トンネルを抜けると眼下には白一色の海が広がり、その向こうに山並みが見えていました。それが標高が下がるにつれて霧が晴れ始め、暫くすると幻想的なまでに美しい善光寺平がその姿を現し始めました。列車の速度が遅い時代だったからこそ出来た経験です。

列車から見る風景を覚えていることはどちらかというと少ないのですが、何故かここの風景だけはしっかりと記憶しています。日本三大車窓の面目躍如。

2015年05月31日 20時28分

「しまかぜ」特急券は直前にチェック。

今日(5月31日)はほとんど思いつきで「伊勢志摩ライナー」に乗って伊勢神宮参拝に向かい、「しまかぜ」で戻ってきました。 2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_6内宮に着いたのは午前11時過ぎ。思わぬ人出でこのブログで差し障りなく使える写真がありません。 そして昼食。その後はどうしようかと思いつつ取り敢えず五十鈴川駅から賢島行に乗車するべく行動。 2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_24 ホームに上がったところで「つどい」が到着。 2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_27 2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_25とまあこんな感じ。可愛い。

2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_34近鉄特急は基本、チケットレスで購入しています。そしてこれまでに2回「しまかぜ」に乗っているのですがいつも直前予約。

2015_05_31 伊勢神宮&フレンチ&しまかぜ_5 - コピー

今回は5月26日(火)に空いているのを確認しすぐに予約しました。3人の席はバラバラですがこうして取れただけでもラッキー。(全部で5席空いていました)

こうして今日の行動は思わぬことから決まりました。

実は今日の賢島行き「しまかぜ」も26日時点では空いていました。こちらは宇治山田の到着時間の関係で「伊勢志摩ライナー」にしましたが、何れにしろコツコツとネットを検索すれば「しまかぜ」への道は開けるかも???という教訓です。

(おまけ)

2015_05_31 伊勢神宮Wi-Fi「しまかぜチャンネル」の前方カメラの映像で「つどい」との行き違いを狙っていたのですが、ご覧のとおりの撃沈。気合を入れてスクリーンショットを撮ろうとすると、気が焦って電源ボタンと音量ボタンを押すタイミングがずれて失敗するという良い例です。

これは結構面白そうなので、またしまかぜに乗る機会があれば「つどい」に限らずアーバン等に挑戦しようと思っています。

2015年04月26日 21時14分

私的昭和の鉄道/新潟の国鉄(2)赤谷線。

東赤谷

昭和58年(1983年)5月9日。この日は朝一番で弥彦線の「東三条」~「越後長沢」間(昭和60年廃止)に乗り、その後赤谷線を目指しました。(新発田発8:16、東赤谷着8:55)

1978_05_09赤谷線

赤谷線の終点「東赤谷」。昭和59年(1984年)に廃止となったこの線は、鉱山からの貨物輸送のための鉄道で当時の鉄道ファンの間でも1点を除いて地味な存在だったと思います。

1978_05_09赤谷線3その1点とは…。この写真は車内から撮影した東赤谷駅ですが、列車と駅舎の位置関係に注目して下さい。

1978_05_09赤谷線4

車内から見た駅の端っこ。駅員さんがポイント操作をしています。

1978_05_09赤谷線2

実は国鉄駅にあって唯一のスイッチバックの終着駅で、新発田から来た列車は急勾配を登りつめて一旦引き上げ線に入り、そこからバックで平坦な“駅”に入線する形態となっていました。同様形態の駅としては、長野電鉄のかっての湯田中駅が有名でした。

東赤谷発行東赤谷駅は有人駅で、こうして硬券を売っていましたが380円でどこまで乗れたのでしょうか?

一応次の目的地は「新潟」で、この後一昨日にUPした新潟交通に乗車しています。

2015年04月25日 22時37分

私的昭和の鉄道/新潟の国鉄(1)魚沼線。

 

話しが前後しますが、昭和53年(1978円年)5月7日~10日の乗りつぶしの乗車券です。

周遊券ではなく手書きの普通乗車券です。

名古屋~新津乗車券この区間は通常であれば名古屋~長野~信越本線経由~新津で、多分これは普通の硬券乗車券があったと思うのですが、飯山線経由だったので手書きになったのでしょう。

五泉~西小千谷

そして蒲原鉄道に乗車後、一旦新潟に出て越後線経由で柏崎に向かい、そここら来迎寺まで信越本線で戻り、そして魚沼線に乗りに行きました。そのためか経路を特定するに当たり「亀田」(信越本線)、「東柏崎」(越後線)の記載があるのですが、変則的な経路の乗車券の発行は駅員さんのお手数をおかけしているわけですが、今こうして見てみればなかなか楽しくもあります。

1978_05_08~魚沼線

昭和53年(1978年)5月8日、枝線である魚沼線の終点「西小千谷駅」です。(来迎寺発17:06、西小千谷着17:31)

1978_05_08~魚沼線2

この路線は大河である信濃川を挟んでいるとはいえ上越線と並行していたためか、国鉄再建法による第1次特定地方交通線として昭和59年(1984年)に廃止されたのも頷ける状況でした。

2015年04月24日 23時36分

私的昭和の鉄道/新潟の私鉄(2)新潟交通。

新潟市内といえば路面を走っていた新潟交通。2度の区間廃止を行ったものの最終的に平成11年(1999年)に全廃されました。

その新潟交通に乗ったのは蒲原鉄道に乗った翌5月9日。

1978_05_09新潟交通2

新潟市内の終点「県庁前駅」に停車中の電車。この日は県庁前(後に県庁が移転し「白山前」に改称)を11:49に出る電車に乗り「燕」を目指しました。もっともこの電車がその乗った電車かどうかは記憶の外です。(すいません)

1978_05_09新潟交通

駅舎を正面から捉えるとこんな感じ。重厚なその佇まいは美しくさえあります。

1978_05_09新潟交通3

表情に特徴のある顔立ちは愛嬌があります。

1978_05_09新潟交通5

路面区間はそれほど長くは無かったと思いますが、今も残る“電車”の走る単線風景は熊本電鉄くらいでしょうか?

1978_05_09新潟交通6

県庁前~東関屋間が禁煙ですが、軌道区間が禁煙はともかくそれ以外の区間が喫煙というのも驚きでした。

新潟交通新潟交通の車内券。車内乗車券の収集は旅の楽しみの一つでした。

 

2015年04月23日 20時14分

私的昭和の鉄道/新潟の私鉄(1)蒲原鉄道。

新潟県にかってあった蒲原鉄道と言っても、一部の方を除いて多分「どこ?」といった感じでしょう。 1978_05_08蒲原鉄道005 信越本線の「加茂駅」と磐越西線の「五泉駅」を結んでいた典型的なローカル私鉄で、昭和60年(1985年)に「加茂」~「村松」間が廃止され、その後平成11年(1999年)に残っていた「村松」~「五泉」間が廃止されました。 乗りつぶしノート JPEG (84) 私はこの線を昭和53年(1978年)5月7日に乗っており、名古屋から809D急行「きそ4号」に乗車し、長野から飯山線経由で新潟入りし、加茂11:05発の電車で五泉に向かいました。 1978_05_08蒲原鉄道001 加茂駅の風景。場所を確実に特定しているのは改札上にある発車時刻表で確認できるこの駅だけです。1978_05_08蒲原鉄道007 車庫があるので恐らく村松駅。バスが良い感じ。 1978_05_08蒲原鉄道010 多分、五泉駅。 新潟県には2010年3月にこのブログでUPした越後交通といった私好みの私鉄や国鉄でも赤谷線のような存在もあり、乗りつぶしの醍醐味を味わっていました。今や昔の思い出です。

最後は使用した乗車券と記念で買った車内乗車券。

蒲原鉄道

2015年03月27日 22時32分

瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電(2)緑の電車754号。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_74

754号の半分が展示されている「瀬戸蔵ミュージアム」。緑の電車が走っていた時代を知る者にとっては郷愁を感じます。ただ知ってはいるものの尾張瀬戸に瀬戸電で来たのは昭和53年(1978年)11月26日の栄町乗り入れ後で、600ボルト車であるこの電車に乗ったことはないはずです。

 2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_64

「手動扉の電車って何よ?」と反応する入場者は見ていた限り皆無。しょうがないかな…。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_62

白熱灯はこのほの暗さが持ち味。これでも昔は明るく感じたのものです。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_73台車。実はこれ、鏡に反射させて入場者がその特徴ある形をホーム上から見られるようにしてあるもの。ただこの写真を撮っているのは残念ながら私ぐらい。

念のため付け加えておきますが、「せとものの歴史」も私はちゃんと見ています。この瀬戸電の展示もその流れの中にあるわけで、ここを訪れた時は是非すべての展示に目を向け、瀬戸の歴史とこの電車が登場した背景を肌で感じて欲しいと思っています。

ところで今年は「せとでん」の110周年。1905年(明治38年)4月2日に瀬戸自動鉄道により瀬戸駅~矢田駅間が開通しており、その記念すべき年に「せとでん」に乗りここを訪れるのも一興でしょう。

(余談)

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_76

瀬戸蔵に何故かビリケンさんがいました。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_78足をコチョコチョしていろいろお願いしました。叶うと良いな。

 

2015年03月26日 22時16分

瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電(1)色が変わっていく。

今回、瀬戸蔵に行った最大の目的。それが瀬戸電との出会い。

コロンブスの卵ではありませんが、ロボット博の会場が「瀬戸蔵」がだったからここに来たと言えますし、「瀬戸蔵」に行きたいと思いつつ何となくきっかけがなかった私の背中をロボット博が押してくれたとも言えます。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_41

“せとものの歴史”に触れる「瀬戸蔵ミュージアム」の中にかっての名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」が再現されています。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_44

その駅舎を照らす照明が時間によって変わっているとは知りませんでした。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_66

往時の雰囲気を本当によく再現しています。ちゃんと作ってあるとは知人から聞いてはいたものの私自身は「再現でしょ」と半信半疑で、この場に立って本当に深く反省していました。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_70このベンチは実際に尾張瀬戸駅で使っていたそうです。今はもう見ないですね、こうしたタイプ。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_52

再現された尾張瀬戸駅で見つけた“ロボット”達。ロボット博期間中の限定展示かどうかまでは確認していませんが、おそらく間違いないのではと思っています。担当者の気持ちが伝わってきます。(違っていたらすいません)

2015年03月25日 22時02分

瀬戸電撮り鉄/尾張瀬戸駅界隈。

瀬戸蔵ミュージアムの入場者が多かったので閉館時間が近づいてから撮影することにし、それまでの時間を使って尾張瀬戸駅付近限定で撮影できるポイントを探しました。しかしこれが意外と難しい。

瀬戸市の真ん中を流れる瀬戸川と瀬戸電を組み合わせると言うこと自体は、まあイメージとしては誰でも考えそうではありますが撮影のベストポジションがどこかは…、ともかく挑戦することに意義があります。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_26

線路手前の道路に車が来ないことを祈りつつもう少しギラッと光る車体を期待していたものの撃沈。この場所は太陽の位置を研究して再履修する必要がありそうです。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_27

尾張瀬戸駅を出て直ぐの場所。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_30

瀬戸市役所前駅方面に少し歩き、尾張瀬戸駅行きを正面から狙いました。

2015_03_21 瀬戸電&瀬戸蔵ロボット博_37

歩いているときに見つけた蒸気機関車の「踏切あり」道路標識。懐かしくて思わず1枚。瀬戸電が非電化だったのは明治時代の開業当初のほんの数年だったのですが、全国的に新設踏切の標識が蒸気機関車デザインだったのはいつまでだったんでしょう?素朴な疑問が湧きました。

それにしてもにわか撮り鉄はなかなかしんどい。何故かと言えばこの踏切も予想以上に交通量があり、この写真を撮影するまでに何本電車を見送ったことか。電車の本数が多いので実際にはそれほどの時間はかかってはいないのですが、私にはつらかった。



ADVERTISEMENT

電子書籍「稲見駅長の鉄道だよ人生は!!」
稲見駅長の鉄道だよ人生は!! ―各駅停写の旅―

カレンダー

2021年2月
« 7月    
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28  

プロフィール

稲見部長稲見眞一
<自己紹介>
昭和52年4月、中京テレビ放送入社。「ズームイン!!朝!」を始めとした情報番組や「ドラマ」「ドキュメンタリー」等のディレクター・プロデューサーを務めた。鉄研最終回(2010年1月29日放送)では自ら自慢の鉄道写真「俺の一枚」を持って出演。 鉄道歴は小学校5年からスタートしはや半世紀。昭和55年には当時の国鉄・私鉄(ケーブルカーを除く)を完全乗破。平成18年にはケーブルカーも完全乗破。その後も新線が開業するたびに乗りつぶしている筋金入りの“乗り鉄”。好きな鉄道は路面電車。電車に揺られながら窓外に流れる街並みを眺めているのが至福のとき。さてスジを寝かせてゆったり乗り鉄と行きましょう!