TCE.3002/3000形3005編成。結局この編成は動くことがなかったようです。
かろうじて姿を見せているものの、ここまでシートが被せられていると、これが元広島電鉄の電車だと知っている私たちのような者でなければ何がなにやらさっぱり分からないでしょう。
終点の架線柱は既に発見当時のアンコールワットの如く植物に覆われ始めています。
元広島電鉄の車両が置かれている場所の少し先にある「Keighley Street Goods Office(Burma Railways)」。イギリスが建設したビルマ鉄道の駅舎で、ヤンゴン市内の英語の観光ガイドの冊子には歴史的建造物としての記載がありました。
1880年代に作られたとのことでイギリス植民地時代の歴史を今に伝えています。広島電鉄の車両の見学ついでに歴史散歩。
線路は走らなくとも今もその姿を留める元大阪市電。TCE.701の番号が付けられています。
昭和25年製の750形772号。昭和43年(1968年)に広島に来たことがこの銘板から読み取れます。1950年製ですので古豪中の古豪。
横から改めて見てみれば、その塗色はなかなか似合っていると思いました。
一方こちらは元西日本鉄道福岡市内線電車のTCE.3001/3000形3006編成。
昭和51年に広島電鉄へ移籍。それにしてもこのような移籍時期を記した銘板があったとはお恥ずかしい話ですがミャンマー/ヤンゴンで初めて知りました。
広島電鉄時代には宮島線直通でも使われていたので、ひょっとしたら乗っているかも知れません。
11月25日(金)の鉄旅。2つ目の目的地。
今年の1月からヤンゴン市内で路面電車が走り始めました。もっともその電車は7月には運休し、その後復活はなりませんでした。
ヤンゴン市街地のヤンゴン川に沿って走るストランド通り。その広い道路の右端に線路が見え、電停もそのままです。
架線も架線柱もしっかり残っています。今となっては廃線跡巡りですが、真新しいだけに却って悲しさが深まります。
「電車線第一号柱」。ヤンゴン市の“新しい”公共交通の輝かしい第一歩になったはずが、何だか霞んで見えるのは私だけでしょうか?
ストランド通りとワーダン通りが交差する場所の近くにある貨物駅。
その一角に路面電車の車庫があり、今も広島電鉄から移籍した電車が残されています。
9:09.JR東日本キハ38形4連、久留里線色登場。車両のサイドはラッピングされていますが、正面はかつてのまま。
おっ!JR東日本とJR東海の気動車が交錯するのは世界でもここだけ。ですね。
扉からぶら下がる人たち。アジアらしい風景。
よもやあと一歩でこれを自分が経験しそうになるとはこの時は知らなかった…。
9:24JR東海キハ11 104/RBE.30.37。5連の列車の行き先は松阪~鳥羽。
これでJR東海からミャンマーに渡った全形式と出会えました。で、これで一応ここでの撮影終了。次の目的地に向かいます。
その移動途中。線路の傍らに合った甕(かめ)。コップがあったので作業の方たちが飲む水入れかな?
こちらはミャンマー国鉄で使うであろう何か。
日本語で「8月5日出荷」の貼り紙あり。何に使うのかな?
ところで各車両の番号ですが、ネットでUPされているものを参考にしています。ミャンマーに輸出された車両の詳細な情報がそこにあり、それだけミャンマーに前のめりの方がいらっしゃる証です。1週間いて、そして帰ってきて思うのは、そうした“ミャンマーに前のめり”になる方がいることに「なるほど納得」している自分がいることです。
ただ車両の配置だけでなく、驚くべきことに路線そのものの存在が日々刻々を変わるのがミャンマー。それが楽しいと言う人もいますが、狙いの車両があり場合に、それを追いかけることが至難の業であることも分かりました。といいうつまたきっと行くことになる…、私。
最後尾はキハ47 5001/RBE.3022。行き先は鵜沼です。
その列車が信号で停止したと思ったら…。
RBE.30.40/JR東海キハ40 3005の旧国鉄色のツートンカラーのお出まし。
車体が一部、改造はされているもののやはりこの色は良い!!!と思う。
撮り鉄で出かけたことは無かったものの、岡山までキハ47の「ノスタルジー」にわざわざ乗りに言ったほどこの形式は好きです。所謂40系の登場時、その中でも47形がダントツでカッコいいと私は思っていたほど。
ミャンマーに到着して2日目の朝にして「もう日本に帰れる!」と思ったほどシャッターを押していました。(これは本当です。話しは盛っていません。)
さて最後尾はキハ40 6309/RBE.3044。それにしてもツートンをそのまま残し、他の車両がラッピングされているのはある意味驚き。
さてここまででも私をミャンマーに惚れさせるには十分だね。と言いつつ、この時はまだまだミャンマーの“奥深さ”があまり分かっていませんでした。
11月25日(金)。
ヤンゴン中央駅から東へ少し行った場所。
取り敢えずミャンマーの鉄道の分かり易い現状からお伝えします。
線路の繋ぎ目は車輪が通る度に上下します。勿論日本の鉄道でも列車が通れば線路は上下しますが、繋ぎ目がここまでずれることは無いはず。
8:47。我らが元JR東海40系がやってきました。
キハ40系の5連は全盛期でも滅多に無かったという記憶。
しかも多治見行き。太多線で5連って、あったっけ?
(参考)
ミャンマーの入国にはVISAが必要です。かつては大使館等に行かなければ取れませんでしたが、今はe-Visaと言ってネットで申請し、メールで発行を受けることが出来ます。
手続き的には「?」と思わないでもないところもありますが、それほどの英語力の必要性もなく、何と申請の翌日に発行という素早さです。地方在住者にとっては有り難いシステムです。
ミャンマー鉄道旅と言いながらなかなか鉄道が出てこない。
ということで、11月25日朝8時頃のヤンゴン中央駅からいよいよ『鉄道旅』の本番です。まずは保存されている蒸気機関車のお出迎え。
駅の出札窓口の所にあった多分運賃表。
ミャンマー語なのでさっぱり分からない。数字もミャンマー語の表示なので、アラビア数字との翻訳をした表を手にして解読が必要。「うつして翻訳」がミャンマー語に対応するようになったら…とか思っても今は何ともならない。
もしも日本の時刻表が漢数字で表示されていたら、多くの外国人の方には分からないのと同じかな?
やっと“数字”で表記された時刻表を発見。但し例外中の例外で、本当に長距離列車のみでしかもヤンゴン中央駅の様な大都市の中央駅のみの存在と見受けました。因みに左側がヤンゴンから南東に向かう路線、右側はヤンゴンから北方にある仏教遺跡で知られるバガン地方に向かう列車の時刻表。
駅の片隅には貨物の積み込み用の引き込み線。
RBE.2535=元真岡鐵道モオカ63形気動車。この車両の現役時代に真岡鐡道には乗っていません。この状態ですので廃車体かな。
(ミャンマー国内での鉄道施設での撮影について)
海外では鉄道の撮影そのものが禁止されていたり、駅構内のみ撮影禁止、橋等の撮影禁止とか鉄道の撮影は必ずしも自由ではありません。
場所がどこであれ、もしも駅員さんを始めとした鉄道関係者や警察官から撮影を止められたら私は速やかにそれに従うことにしています。そうした注意を払う事で幸いにもこれまでフィルムを抜かれたり、メディアのデータ消去と言ったトラブルに巻き込まれたことはありません。
今回のミャンマーでは、特に撮影の規制がかかった場所はありませんでしたが、1年前は一部撮影の規制があったと聞いています。もっとも今回はOKでも次回がOKとは限りません。
なお車庫・工場内での撮影は、以前はその車庫・工場の方に声を掛ければ、場合によってはOKだったようですが、今はミャンマー国鉄に正式ルートで事前申請の上、許可を得なければ入場&撮影できないとのこと。
また明日以降、鉄道用地内でなおかつ線路上で撮影した写真が出てきますが、そもそも地元の人が線路内に立ち入っているかを目視し、一応それを基準に立ち入りの可・不可を自主的に判断しています。また私(達)の存在を認識している鉄道関係者から注意喚起をされないということも判断の拠り所です。
参考までにミャンマーでは軍及び警察関係施設,港湾や橋梁等は原則として写真撮影禁止です。
私はあくまでもただの鉄ちゃんですから、まあ「君子危うきに近寄らず」精神でいつもやっています。そうしていればどんな国でも楽しく過ごせるのは共通です。
あとの注意点と言えば、例えば叢(くさむら)をかき分けることもしません。毒蛇等の思わぬ地雷を踏まないためです。